第4話 願い

 泳ぎは抵抗と効率の差し引きだと気づいてからは、上達は早かった。

 はじめは沈まないように頭を上げがちで、足を動かしていた。だが進行方向に斜めになり、水の抵抗を受けやすい。体を水平にするよう努めれば、思いのほか少ない動きでも速度が出た。力まないので、体力も持つ。結果、遠距離も泳げるようになった。

 焚火をはさんだ向かいに座る陽子に、明日、挑戦することを話した。

「ああ、そうなんだ」

 意外と、返答はそっけないものだった。

 もっと喜ぶかと思ったのに。まさか無理だと思ってるのか。

「なんだよ。だいぶ上達したろ。途中で溺れることなんてしないぞ」

「まあ、それはそうなんだけどさ……」

 珍しく、何が言いたいのかはっきりしない。抱えた膝に顎を乗せ、陽子はぼんやりと焚火の炎を見ている。その瞳は、夜の海のように焚火の光に揺れていた。

「ここを出たら、中央首府セントラルに帰るんでしょ?」

「そりゃ、任務が終わればな」

 下っ端の俺には今回の任務の概要までは知らされていなかったが、たいていは派遣地の浄化だ。異形生物ミュータントを駆逐し、瘴気を吸った土を焼き払う。土地は死に砂漠と化すが、なんとか人が死なない場所にはなる。あとは別部隊が入植し、長い時間をかけて回復していく。

 気の長い話だ。

「俺、浄化隊に入ったのもただの点数稼ぎだったんだ。俺だけじゃなく、みんなそう。そして、一等民になりたいんだ。一等民になれば、中央首府セントラルの真ん中の、汚染されていない土地で、瘴気に怯えることなく暮らせるから。でも、そうじゃないなって思った。陽子のおかげで」

「え?」

「海で泳いだり、魚を食べたり。汚染前は普通に誰でもできたことだったんだ。だから俺は、限られた安全な場所に閉じこもるんじゃない。この海で泳げることを、当たり前にしたい」

 ただの二等民のガキのたわごとかもしれない。

 夢物語だ。浄化隊クルセイダーの人間だって、誰も本気で以前の世界を取り戻せるなんて思っちゃいないのが実情だ。

 それでも、そう思ったのは本当だ。

 ついこの間まで泳ぐということさえ知らなかったのに、今ではつたないながら海を抜けて泳ごうとしている。

 だから本気で、この世界を浄化したいと思った。

「…………」

 陽子は答えず、じっと焚火を見ている。

「陽子も一緒に行かないか?」

「えっ!?」

 跳ね上がった。砂が舞い上がり、焚火にかかって火の粉が飛んだ。

「い、行くって、中央首府セントラルへ? あたしが? えぇぇっ!」

「なんだよ。そんなおかしなことか? ここでもたしかに生きてはいけると思うけど、一人じゃさみしいだろ」

「うっ」

 言葉を詰まらせる。

 それで、合点がいった。

「ああ、俺がいなくなるから、暗かったわけか」

 陽子が目をそむける。どんどん顔が赤くなる。唇を尖らせ、震える声を絞り出した。

「……だって、人と話したの十年以上前だし。せっかく仲良くなれたのに、またお別れかって思ったらさ……さみしくもなるよ……はぁ」

「だから、一緒に行けばいいだろ。今度は俺が中央首府を案内してやるよ。浄化隊セントラルは外の人間を保護する特権もあるから、問題ないし。まあ、さすがに泳ぐことはできないが――」

 ふわり、とした感触。

 陽子が、俺に抱き着いていた。

 防護肌を破って直接、しっとりとした肌と肌が触れ合う。

「ありがとう」

 耳元で、波音のようにささやく。

「あたしにも、そういう道だって、あったんだね」

「え?」

 言葉の意味がわからない。

 ただ、彼女の体から焼けそうなほどの熱を感じる。

 太陽の子――その名のように。

「だから、もう十分。決めたよ」

 陽子の腕に力が入る。

 俺の体に、刻み付けるように。

「海斗の願い、私も一緒に叶えるよ」

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