第2話 瘴気の海の少女

「およよ?」

 少女がいた。

 大きな黒い瞳。同じく黒い髪に、皮膚も浅黒い。驚いたように目と口を丸くしているが、やがて細めて丸める。

 この表情は、なんだ?

「目が覚めたんだね」

 言われて初めて、自分が意識を取り戻していたことに気付いた。そして、崖から海へと転落したはずだったことも。

「こ、ここは……」

 体を起き上げる。四肢は問題なく動くし、感じる異常もない。腐海に落ちた影響はないようだが、インナー姿で、防護服が脱がされていた。

「あ。服は濡れてたからあそこに干しといてる」

 彼女が指さすほうを見ると、ねじれた黒い木に防護服が吊り下げられていた。内部まで酸が染み込み、黄色く変色している。もう本来の耐衝撃性は望めない。

 ちなみに俺たち浄化隊クルセイダーの表皮や呼吸器は防護皮コートスキンに覆われていて、瘴気を浴びても無事だ。

 彼女も黒いラバー素材のスーツを体幹部だけぴったりと覆うように装着している。ストラップで肩から吊っており、小麦色の肌にはその部分だけひも状の白い跡がついている。

 肌がさらされている四肢が無防備に見えるが、同じように防護肌コートスキンで守られているに違いない。

「いやぁ、元気そうでよかったよかった。こんなところに人が流されてたから、驚いたよ」

「あんた、誰だ?」

「陽子。あなたは?」

 そういって、手を差し出してくる。俺は手は無視して、質問にだけ答える。

「海斗。中央首府セントラルからきた」

「おお、海斗っていうんだ。いい名前だね!」

 差し出した手を伸ばして、強引に俺の手を取る。

 いい名前、だなんて。初めての評価だ。

 この世界の汚染の象徴みたいなものなのに。

「陽子は、太陽の子供って意味だよ」

 聞いてない。

 太陽は表面温度六千度の恒星だ。猛々しい炎と、この緊張感のない表情の女が結びつかない。自分が助けられたのも事実だが、それさえも信じられない。

 たしかに、つかんだ手は熱いが、六千度には程遠い。

「――え?」

 はっとした。

 通常、防護肌コートスキンを発生させていると表皮上に薄い保護フィールドを帯びるため、相互に触れ合うと手袋のような厚みを感じる。だが、彼女の手は防護肌コートスキンを透過し俺の手のひらに直接触れた。

 陽子は、防護肌コートスキンを使っていない。

「……あんた、海に入ってたよな」

 崖から落ちる前に一瞬だけ見えた人影。まさにそれは、陽子ではなかったのか。

「うん? そうだよ」

 あっさり肯定される。

「どうやって?」

「どうって……そりゃ泳いでだよ」

 一瞬、何を言っているのかわからなかった。

 泳ぐ。アーカイブの中で見かけたことがある。たしか、水の中を浮力を利用して進む原始的な移動方法のことだ。汚染前は、大型のくぼみを設えた構造物に大量の水をためて泳ぐことさえしたとか。なぜわざわざ呼吸もままならない水中に入らなければいけないのか、まったく理解できない。なにより、現代では飲料可能な水は生成か浄化することでしか手に入らないため、中央首府セントラル内でも使用量を管理されている。泳ぐためだけに浪費するなど、発想の外だった。

 防護肌コートスキンを発生させていれば瘴気の海の中に入っても、理論上は問題ない。だが問題ないとわかっているからといって、わざわざ好き好んで入るやつなどいない。小便を飲んでも健康上リスクがないと知識として知っているからといっても、飲まないことと同じく。

「そういうことじゃなく、防護皮もまとわないでどうやって海中に入ったんだ」

「こおとすきん? 中央首府セントラルの言葉はよくわからないね。浮き輪みたいなやつかな?」

 よくわからないのはこちらのほうだった。ウキワってなんだ。

「あ、そうか。海斗は泳げないんだね!」

「いや泳げないというか――」

「じゃあ、あたしが教えてあげるよ!」

「人の話を聞――ちょ、ちょっと待て!」

 陽子は俺の手を強引に引っ張り、海のほうへと引きずっていく。意外と力が強い。足も粒子の細かい砂で踏ん張りがきかず、海の中へと引きずり込まれる。

「ひっ」

 ぬるりとした水の感触が皮膚を伝う。毒性は防げても、温度や質感までは防げない。この瞬間、もし装置が不具合を起こしでもしたら下半身を瘴気に焼かれて生きたまま腐り死んでしまう。そう思うと、身をこわばらせてしまう。

「はーい、こわくないこわくない」

 へらへらと陽子はさらに深みまで入り込んだ。

 首元まで水が迫る。俺は呼吸が荒くなる。内臓まで防護はされるから仮に飲み込んでも大丈夫ではあるが、肺はだめだ。酸素供給が断たれれば窒息する。

「ちから抜けば浮かべるよ」

 ほんとかよ!

 人体の比重はいくつだったか。俺の身長と体重から割り出そうとするが、口元まで迫る水の感触に思考がまとまらない。

 さらに海底の深みが増す。

 つま先が重い砂をかき、地面を離れてしまった。

 沈む――

「はい、だいじょうぶ」

 目を、開ける。

 陽子の笑顔があった。

 そうだ。

 この柔らかな表情は、笑顔というんだった。

 中央首府セントラルでは笑顔は弱者のものだった。強者にへつらい、媚びる、卑しい表情。

 だが陽子のそれは違う気がする。見ているだけで、胸の奥が温かくなる。

「ほら、泳げた」

「え?」

 たしかに、浮いている。

 手は陽子に支えてもらっているが、足が水面まで浮き上がっている。そのまま動かすと推進力を得て、体を前へと押し流していく。

 これが、泳ぐということか。

 不思議な感覚だった。体から重力が消えているようだ。波に揺られる感覚が心地よささえ感じさせる。

 落ち着きを取り戻してから見てみれば、水は思っていたより澄んでいた。質感も水素から生成された飲料水と遜色はない。

「おお、なかなか筋がいいね! それじゃ一人で行ってみますか」

「え、ちょ、ま――」

 手が離れた瞬間、頭が水面に沈む。

 泡の弾ける音に交じり、彼女の笑い声が鼓膜を打った。

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