二話 彼女の日常
空を見上げるとそこには満月よりもやや小さくなった月の姿。地上よりも近くに感じられる月の光が全身を照らしており、日の光とは違って温度はない。それでも光が当たっていると心なしか温かみを感じる。
ふと、名前を呼ばれたような気がして、閉じていた目を開き下を見た。当然だが、そこには誰の姿もない。
なぜなら、月を見上げている彼女の足は地についていない。その体は宙に浮いており、時折吹く強い風に服がはためいている。
下に誰もいないことを確認した彼女は顔を再び月に向ける。こうして月を見上げるのは理由がある。月を見上げ、光を浴びることで、体に巡る魔力が満たされていく。これをするのとしないのとでは、次の日の体調が大きく違う。具体的に言えば、月の光を浴びていないと朝起きると頭痛がするし、仕事中は体が重いし、夜になるとまぶたが重くなって仕方がない。月光浴をしないとそんなことになるので、例え夜遅くなってもこうして月光浴をすることは外せない。
「でも、今日は比較的早く終わってよかった・・・・・・。昨日引っ越してきて荷ほどきもまだしてないし。昨日ぐらいの遅い時間に荷ほどきしてたらうるさいだろうし」
なにしろ、いままでは祖母の家に暮らしていたので、集合住宅での勝手がわからない。昨日挨拶した隣人は、少し酒精を身に纏っていたが、人の良さそうな雰囲気も纏っていた。かといって、夜に隣で煩くすると迷惑だろう。
「あ、幽霊船」
月を眺める視界に、大きな船がゆったりと現れる。船体を透かしてその向こうの星空が見えるのが幽霊船と呼ばれる理由だ。今回の船はなかなか大きいな、と感心する。こうして月光浴をしているとたまに目にする空飛ぶ船には、いつものように音はない。
船に音はないが、乗員は別だ。見つかる前に地上に降りようと思う。
「お、魔女がいるぞ!!おーい!!おーい!!我らの女神!そろそろ時間だ!準備はしっかりとな!!」
見つかってしまった。昔から幽霊船に見つかるとわけのわからない言葉をかけられる。祖母に相談すると、祖母も首を傾げていた。祖母もまた、幽霊船には声をかけられるらしいのだが、その内容が年々変わっているらしいのだ。まぁ、彼らも意思を持っているようだし、いつも同じ言葉をかけてこないだろう、とは思うのだが。
幽霊船が現れたことで、にわかに騒がしくなってきた天空。賑やかな空気は好きだが、それは外から眺めるから好きなのだ。幽霊船から声をかけられながらではゆっくり月光浴もできない。
「うるさいわね!ごちゃごちゃ言ってるとジョレイするわよ!?」
新天地での初めての月光浴を邪魔され、気がつかないうちに気が立っていたらしい。怒鳴り、相手を威嚇するが、幽霊船の船員たちは全く気にした様子がない。むしろだんだんと行動と言動がエスカレートして行き、やがて船上で肩を組み、大声で歌い始めた。その歌が少し卑猥なものだったので、月光浴を邪魔され、その神秘的な雰囲気を台無しにされた報いとして、彼女はポケットから口の広い瓶を取り出し、そこから一つまみ中に詰まった砂を取り出す。意思を込めて宙に撒けば、砂は幽霊船に向かって飛んでいく。
やがて、砂にあたったであろう部分が光をまとい、その部分だけが消えていく。
周囲の船員たちは何かを叫んでいるが、その様をみて胸のすくのを感じる。
「さーて、そろそろ帰ろうかな。今日中に荷ほどき終わらせたいから」
視線を再び月から地面に向ける。そちらに進みたいという意思を明確にすると体が地面に吸い寄せられるようにして進む。その速度は緩やかで、自分が月光浴を終わらせて、これからの新生活に向けての準備をすることに気乗りしていないことを知る。
進む速度が無意識に決まってしまうことに、自分の魔女としての力の未熟を感じて苦笑。改めて進行方向を強く思うことで速度を上げる。
後方からは、船上で騒ぐ幽霊達の賑やかな声が聞こえていた。
これから住むことになる部屋の鍵を開けた。その扉の横には『石橋』という表札がかかっている。
風呂のスイッチを入れ、浴室に湯を張る。
手洗いをしてリビングに入ると、そこにはまだこの部屋の光を浴びていない私物が段ボールに詰められた状態で鎮座している。一応部屋の隅に寄せているが、段ボールの圧迫感がすごい。石橋は腕まくりをして気合をいれると、早速手近にある段ボール箱の蓋を開けた。
「あっ、こんなところにあったんだ」
段ボールを開けると、一番上にあったのは、お気に入りの小物入れだ。華美にならない程度にあしらわれた花柄が可愛くて気に入っていたのだが、引越しの時に段ボールに入れたかどうか忘れてしまい、祖母の家を探し回った。無事に新居に届いているのを確認して、胸をなでおろす。
胸をなでおろしたところで、こんなことをしている場合ではないと正気に帰り、段ボールの中のものを次々と部屋の中へと配置していく。
段ボールを空にしている作業の手が止まったのは、部屋の中にテレビを置こうとした時だ。小さなテレビなのだが、台座をつけるためにドライバーがいる。ところが、段ボールをほとんど開けた今でも、ドライバーは出てきていない。そういえば、この台座をつけるために使ったのは祖父のだったな、と思い眉尻が下がる。一応付属のネジで固定しなくてもしばらくは問題はないと思うが、うっかりテレビを置いているテーブルを蹴ってしまい、台座から外れてしまうかもしれない、という未来を想像してしまうと今のうちにネジで固定しておきたい。今のうちに固定していないと、ズルズルと予定を先延ばしにしてしまうのもわかっている。
「でも、どうしようもないし・・・・・・」
とりあえずテレビは後回しにして、他のものを出そう。そうすればなにかいいものが見つかるかもしれない。そう思い、一度立ち上がった石橋は、周囲を見渡す。すると、いつのまにかほとんどの段ボールを開け終わっていることに気がついた。ここまでなにも出てこないと、もうなにも出てこない気がする。
「はぁ・・・・・・仕方ない。明日にしよう」
とりあえず、今日は風呂に入って汗を流そう。そのあとはどうしようか、と考えたところで、自分がいま空腹であることを感じる。きっかけは、どこからか漂ってくる香ばしい匂いだ。
その匂いがどこから来ているのかをたどり、それが隣の部屋からだ、ということに気がつく。自分も夕飯にしよう、と思い時計を見ると、すでに帰ってきてから2時間ほど経過していた。
「あ、お風呂!!」
慌てて浴室に向かい、浴槽に手をいれると、浴槽に貯められたお湯は、時間が経ったことで少し緩くなってしまった。唯一の救いは、蛇口をひねってお湯を出す方式ではなく、自動でお湯張りをしてくれるシステムだったことか。これが祖母の家なら、浴室からお湯が溢れて大変なことになっていたに違いない。少し気落ちしながら、とにかく風呂にはいろう、と決め、そのあとで夕食の支度をすることにした。
一人暮らしのやることの多さに、思わず出たため息が、水面を揺らした。
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