五話 帰宅
「石橋さんお待たせ」
終礼が終わり、会社の隣にある喫茶店に入ると、入り口の右隣に座っている石橋が目に入った。店内に案内しようと動こうとした店員を、無言で手で制し、石橋に歩み寄る。
背筋を伸ばし、窓の外を眺めるその姿は、石橋の容姿もあって1枚の絵画のようだ。
浩成の声で、その絵が動き出す。そのことをどこか残念に思いながらも、自分に視線が向けられて嬉しいとも思う。
「お疲れ様です」
「いや、こっちこそごめんね。僕らの都合で1人で待たせてしまって」
「いえ、一度家には帰ってますし、退社される大体の時間も伝えてもらいましたから、それほど待ってないです」
箒が見当たらないのはそういうことか、と納得する。あれを持っていては本人の意思に関係なく目立ってしまうだろう。
「一回帰ったんなら、もっと楽な格好でよかったのに」
トレードマークだった魔女の帽子も今は無くなっていて、外見はパンツスーツに身を包んだ会社帰りのOL風だ。
「まず、これが社員証ね。明日は僕も一緒に会社まで行くから。明日いるのは、社員証と、あとは印鑑。振り込んで欲しい銀行の通帳。履歴書は書いてもらえた?」
「あ、履歴書代。幾らでした?」
ソファに置いてあった鞄の中から、履歴書が取り出され浩成に手渡される。個人情報満載のそれを手渡され、自分の言い方が悪かったな、と反省する。人事担当者ではないので、石橋の履歴書に目を通す権利は持ち合わせていない。
「いいよそれくらいは」
浩成は自らの鞄からクリアファイルと封筒を取り出し、石橋の履歴書を中に入れる。
「明日どうしてもいるのは、この4点。お昼は食堂があるから、食堂で食べても何か持っていってもいいよ。それは明日の朝、会社に行くときに決めようか」
封筒に入れた履歴書を石橋に手渡す。どうせ明日の朝一緒に役員室に出向くことになるので、浩成が持っていてもいいのだが、提出するのは石橋だ。
差し出された封筒を、首を傾げながらも受け取る石橋。
「それじゃ、帰ろうか。この後何か予定ある?なければ送るよどうせ同じマンションだし」
「じゃあ、一緒に帰ります。いい加減荷ほどき終わらさないと」
浩成はテーブルの上にあった伝票を手に取り、レジカウンターに向かう。ワンテンポ遅れて立ち上がった石橋が、慌てて後を追ってくる。
「そんな、私の分しかないのに、支払ってもらうなんて申し訳ないです!」
「いいのいいの。新しく入ってくる若い子に、おじさんいいかっこしたいだけだから」
結局、喫茶店の飲食代は浩成が支払った。
喫茶店を出てからも申し訳なさそうにしていたので、さすがに浩成も相手の気持ちを考えていなかったな、と反省する。
「そういえば、石橋さんは自炊するの?」
「あ、はい。荷ほどきが終われば自炊はしようと思ってるんですが、なにしろまだ荷ほどきが終わっていないので」
石橋が引越しの挨拶に来てからの日数を指折り数える。
まだ4日しか経っていない。ならばまぁ、そんなものか、と思ったが、自分が引越してきた時と比較する。浩成の場合は、自炊を学生の頃からやっていたので、その日の夕方には自炊ができる状況だった。なにしろ食事に関わることで、毎日することだ。自炊することが当然の人なら、調理器具は優先的に開梱するだろう。
その辺りは個人の自由なので、第三者が口出しすることではない。
「そっか。ちなみに今日の夕食はどうする予定?僕も決まってないから、一緒にどっかで食べない?」
「ごめんなさい。この後荷解きしたいので、また次の機会にお願いします。今日はコンビニで適当に買うので」
まぁ、そう言うことなら仕方がないな、と浩成はわずかに痛む胸から目をそらす。いや、別に新人の美人にいい格好がしたくて食事に誘ったわけではない。
会社から駅まではそう離れていない。
電車に乗ってしまえば、浩成の住んでいるマンションの最寄駅までは4駅ほどで、電車に揺られる時間は大体10分。そこからマンションまでは歩いて15分ほど。片道30分弱の道のりを、石橋と時折会話を交わしながらマンションに向かって進む。
途中、コンビニに入って買い物をしようとした石橋を呼び止め、少し離れたところにあるスーパーマーケットへと誘い、夕飯用の惣菜を買い求める。大通りを歩いていてはわかりにくい場所にあるので、石橋はスーパーマーケットの位置を知らなかったらしい。
マンションへと帰り着くと、浩成はカードキーを財布から取り出し、エントランスにあるカードリーダーにかざす。
ピッ、というありふれた電子音がなり、壁からスカイボードが排出された。
「あ、斎藤さんそれ乗られるんですか」
「うん。僕の周りの人はあんまり好きじゃないみたいだけどね。慣れるとこっちの方が楽だから」
体一つで空を飛ぶスカイボードは、その手軽さゆえにあまり普及していない。若い世代には人気なのだが、少し年齢層が上がると危機感から乗らないし、下の世代になると親が乗るのを禁止している。そもそも、スカイボードが乗れる場所が少ないので、普及するにはもう少し時間がかかるだろう。
「あ、でも石橋さんはこれ好きなんじゃないの?」
何しろ箒で空を飛んでいるのだ。やっと同士を見つけたかもしれない、と心躍らせながら話しかけると、なぜか不思議なものを見る目を向けられた。
「え、どうしてですか?」
だって箒で飛んでるじゃないか、と言おうとしたところで、石橋は浩成の言わんとするところを察したらしい。首を左右に振った。
「自分の意思で飛ぶのは好きですけど、スカイボードって、建物の周りの気流を利用して乗るものですよね」
「まぁ、そうだね」
「箒は自分の魔力で自在に飛べるので好きですけど、気流に合わせて乗らないといけないスカイボードは苦手なんです」
「そっか……」
そう言われると確かに別物のような気がする。勝手に期待しておいて身勝手な話だとは思うが、少し残念に思う。
「あ、でもスカイボードの隣を箒で飛ぶのでしたら楽しそうですし、今度一緒に飛びませんか?」
なるほど、確かにそれは楽しそうだ。浩成は是非今度一緒に、と約束をし、エントランスへと入る石橋と別れた。
スカイボードを地面に置き、そこに片足で乗る。
地面から吹き上がる気流に合わせて、スカイボードに乗せた足とは逆の足で地面を蹴れば、わずかに浮いたスカイボードが、上昇気流を拾った。風を読みながら、自分の部屋のある5階まで飛ぶ。足場に着地し、スカイボードを持って廊下に足を踏み入れれば、石橋の部屋の扉からはわずかに光が漏れていた。スカイボードを廊下に立てかけ、自分の部屋に向かう。
まぁ、身を危険にさらして早いならまだしも、登るときはエレベーターを使った方が早いし、階段を使えばもっとはやい。このあたりも流行らない理由なんだろうな、と思う。
自分の部屋に入り、カバンを置き、コートを脱ぐと、PCの電源を入れてから洗面台で手を洗う。石橋とともに惣菜を買ったので、今日の夕飯で用意するものはレトルトの白米と湯を注ぐだけで完成する味噌汁だ。
さっさと夕食を済ませてゲームをしよう、と思う。
今日はFPSの気分だな、と鍋に水を注ぎながら今晩のゲームの予定を立てた。
流石に今日は疲れたな、と部屋に入ってため息をついた。
手に持った惣菜入りのビニールを、そのまま冷蔵庫に入れる。
朝、コンビニのテレビでニュースを見たときには、海に浮かぶ、灰色の船が映ったので驚いた。初めはそれがメテオラだとは信じられなかった。しかし、テレビの画面越しにみてもそれがメテオラだということはわかったので、いてもたってもいられず、朝食を食べていたコンビニから飛び出した。
家にとって返し、顔隠し用の魔女帽子と箒をとって船のある位置までひとっ飛び。
まさか船の上にいるときに隣の部屋の人に呼びかけられるとは思ってもいなかったが。
その後就職先が見つかったのは予想外だが、これから仕事を探して飛び回らないといけないと思っていたので、嬉しい誤算ではある。魔女という身分を隠さなくていいのも楽だ。
荷物をすべておいた石橋は玄関に向かうと、下駄箱に立てかけていた箒を手に取る。まだ早い時間で、すでに太陽が沈んでいるとはいえ、今日は雲がない。箒で空を飛んでいるところを誰かに見られてしまうかもしれないが、今日はすでに大勢の前で箒で飛んでいるところを見られてしまっている。
あの時の反応からして、たとえ見られてしまっても、いきなり捕まってしまうということもなさそうだった。
やはり田舎の都会に対する噂は信用できないな、と思いながら箒を手に外へと向かう。
廊下に出て、無意識に隣の部屋を見てしまう。
今日は何度か誘ってくれたのに、その内のほとんどを断ってしまった、とわずかに後ろめたさを感じる。しかし、ほぼ初対面の人間と食事を取るのは怖かったし、スカイボードに乗るのが苦手だというのも本当だ。
明日は一緒に出勤することになるのだ、と思ったところで、そういえば待ち合わせ時間を決めていなかった、ということに気がついた。連絡を、と思ったが、斎藤の連絡先を聞いていないことに頭を抱える。
部屋が隣なので、引っ越し当日のように呼び鈴で呼び出してもいいのだが、別れた直後で呼び出すのも迷惑ではないだろうか。
悩んだ末に、明日の朝、隣の部屋が開く音で自分も部屋から出よう、と決意し、石橋は空に飛び立った。
都会に出てきても、月の光を浴びるために上空に昇れば、どこも同じ空だ。都会に出れば空が汚い、星空が見えない、月が曇って見えるなど、そんなことはなかった。いつものように月の光は暖かく迎えてくれるし、星空は心を落ち着かせてくれる。時折幽霊船もいて騒がしいこともあるが、今日は今のところいないので静かだった。
上昇するための箒を両足で挟み込んだ姿勢から、落ち着いて月を見上げるための横坐りへと体制を変える。
今日の月は半分よりもやや丸くなった形で、レモンによく似た形をしている。
そういえば、といつも持ち歩いている小瓶を取り出す。中には粉末状のメテオラが収められている。月の光にかざすようにして中身を確認する。
「やっぱり減ってる……」
今日、斎藤たちの目の前で動かすために少量取り出し、五郎が出て行った後で、魔力で操り瓶の中に入れたはずなのだが、取り出す前後では量が一致しない。もしも、これがかき集めて瓶のなかに注ぎいれたのであれば量が一致しないのはわかるのだが、魔力で集めて瓶の中に入れたのだ。考えられるのは、メテオラにも使用回数のようなものがあり、使用回数の切れたものは魔力を込めても動かないようになる、ということだ。
前回幽霊船を見たときにむしゃくしゃしてメテオラで撃ち落としたのはやっぱり失敗だった。祖母にも、マコはたまに衝動で動くから困ったものだ、とよく言われていた。あれ、よく言われていたってことは、衝動的に動いていたのはたまにではなかったのだろうか。気にしてはいけない。
月のある位置を見て、今が大体午後8時ぐらいだ、と計算する。
明日は初出勤で、しかも斎藤が出てくるのに合わせて部屋を出なければいけないので、何時くらいに準備をしなければいけないのかがわからない。とりあえず7時くらいに準備が完了していれば間に合うはずだ。
これから部屋に戻って、ダンボールをすべて片付けよう、と月に誓う。流石に働き始めたら、家に帰ってきて片付けをする余裕があるとは思えない。今日はもう夕飯も買ってきたし、あとやることといえば風呂に入って洗濯をするだけ。それ以外は部屋のレイアウトの時間に当てることができる。
石橋はその後数十分、体に月の光が満ちるのを実感するまで月のもとで月光浴をすると、部屋の段ボールと戦う覚悟で夜空を後にした。
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