佐々木龍也

 いつもより軽い足取りで公園に入る。お腹も心も満たされていて、幸せだった。

 踏み出してみれば、存外うまくいくものだ。

「臥龍さん」

「あれ、じゃがーさん」

 彼が公園のベンチからこちらに向かってくる。今日は襲ってこないみたいだ。それは今までで初めてのこと。

「どうしたんですか?」

「臥龍さんこそ。とても楽しそう」

「ああ。友人と、食事に行きまして」

 彼の顔は月明りが逆光となってよく見えない。声の調子はいつも通りにも感じる。しかし何か、いやな予感がした。何かがおかしい。

 それはいつもと違う会い方をしたからだろうか。それとも。

「よかったです」

「じゃがーさん……」

「生きていても辛いことの方が多い」

「え?」

 じゃがーさんはくるりと向きを変え、崖側に向かって歩き出す。彼と同じ速さで着いていく。

「でも、自殺なんて、所詮逃げでしかない。君が死んでも、何も変わらない」

「それって……」

 脳裏に男性の姿がちらつく。眼鏡をかけて、長い前髪が眼鏡を隠して。悲しそうな、辛そうな男性。

「だからいいんだ。死んでも。逃げちゃいけないなんて、そんなことありはしないから」

「もしかして」

 じゃがーさんの足が止まる。崖の目の前だ。崖とじゃがーさんを隔てるものは、低い柵だけ。

 近づかなければ。

 咄嗟に思ったが、同時に彼が振り返る。一歩踏み出した足が、止まる。

「はい」

 彼の静かな声が耳に届く。笑っている。そんな気がした。

「……全然見た目、変わっていたから」

「気づきませんよね」

 私は数年前、この公園で知らない人を助けたことがある。死のうとしていた男性を引き留めてしまったのだ。じゃがーさんが発した言葉は、その時に私が言った言葉だ。

 その男性はその言葉を聞いて、もう一回考えると言って去った。

「すみません。あの時は」

「なんで謝るんです?」

「いや、止めてしまったから」

「何それ」

 彼が吹きだす。

 それもそうだ。死ぬのを止めたことを謝る人間は普通いない。だが私はずっと後悔していたのだ。自殺を肯定しておきながら、それを止めるなど矛盾している。私が止めなければ、あの男性は、じゃがーさんは、楽になっていたかもしれない。

「いいんですよ。自殺なんていつでもできますし」

 一陣の風が吹いて、じゃがーさんの髪の毛を攫っていく。

一つ、まばたき。まだそこに彼はいる。

「それに“臥龍さん”に出会えましたしね」

「え、その前から……いや」

 そういえばじゃがーさんとネットで知り合ったのは、あの男性を助けたあとくらいかもしれない。もしかしてわざわざ探したのだろうか。見つかるはずはないが、じゃがーさんならやってのけてしまいそうだ。そう妙に納得してしまう。

「じゃがーさんはまだ」

 もう一歩、彼に近づく。あと少しで届く。

「名前」

「……へ?」

 また足が止まる。じゃがーさんの表情は見えない。

「名前、教えてくれませんか。臥龍さんの」

 その声は普段と全く変わらなかった。まるで今日の天気を聞いているかのように、平然としたものだった。

「佐々木龍也、です」

「龍也さん、だから臥龍ですか! うん!」

 じゃがーさんのシルエットが頷いた。いつものように明るいじゃがーさん。何一つ変わらない。そのはずなのに。

「じゃがーさん!」

 たまらず地面を蹴る。

 今止めなければ、会えなくなってしまう。もう二度と。一生。

「ありがとう、龍也さん」

「待って!」

 手が空を切る。じゃがーさんが後頭部から崖下に身を投げ出す。

「俺が生きられたの、臥龍さんじゃない。龍也さんのおかげ」

 月明りが彼の姿を照らす。笑っていた。八重歯が見えた。彼を彼たらしめるような、八重歯が。

 綺麗で、とても綺麗で。綺麗だった。

 手を伸ばせなかった。彼の形は、これだから。彼の完成形を、崩せなかった。

 姿が小さくなっていく。月明りが届かなくなる。徐々に暗闇が彼を覆い、その姿は、消えた。

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