八重歯

 じゃがーさんとの出会いを終えた次の日。大学院の授業を受け、修論に関わる論文を読んでいたらすっかり遅くなってしまった。冬の影響もあって、空にはもう星が出ている。

 そうは思いつつ、別段私は急いでいなかった。一人暮らしの人間など、そんなものだろう。明日の授業は三限からだからなおさら。せいぜい考えることといえば夕飯のことくらいだろう。今から作るのは面倒なのでコンビニで済ませてしまおう。

 そう考えたところで昨日の公園にさしかかった。進路を変えて公園に入る。ベンチと水飲み場しかない小さな公園だ。高台にあるので景色がいい。だがこれ目当てに来るほどでもないので、常に人は少なかった。だから毎日通っている。

 ふわりと風が吹く。ワックスも何もつけていない髪の毛が揺れる。つられて顔を上げると北極星が見えた。なんとはなしに崖側に近づく。視界の端に映る木が遠くなり、空が大きくなる。しかし北極星は何も変わらなかった。ただそこに在る。

「金を出せ」

「ぐっ」

 首元が締め付けられる。咄嗟に首元に手を伸ばす。腕だ。力が強い。剥がれない。

 何者かに無理やり押され、崖が近づいてくる。下は川。夜のそれは何をも吸い込んでしまいそうな漆黒だ。

「や、め……」

「大人しくしろ」

 後頭部を押される。川に落とされる。そう錯覚する脳。慌ててポケットの財布に手を伸ばす。

「なーんて」

 すると聞き覚えのあるセリフが聞こえる。同時に首の締め付けが消え去った。一気に流れ込む空気に咳き込む。

「あー! すみません、やりすぎました」

 先程とは打って変わった声音で彼は言う。そして私の顔を覗き込んでくる。

 これはどちらかといえば悪意ではなく殺意ではないのだろうか。

 息を整えながらぼんやり考える。

「こんなことするの初めてなんで……」

「経験あったら怖いですよ」

「それもそうですね」

 顔を上げる。彼はにこりと笑う。八重歯が覗く。

「大丈夫ですか?」

「ええ、なんとか」

「じゃあ、ご飯でも行きます?」

 ご飯。彼は私との時間は嫌ではないか。会話は退屈ではないか。私なんかが誘いに乗ってもいいのか。少なくとも自ら誘う時点で嫌悪はないかもしれない。だが一方で付き合いの可能性はある。

「臥龍さん?」

「……よければ、ぜひ」

「はーい」

 彼は歩き出す。私もその横につく。

「何食べます?」

「なんでも平気です」

「んー俺も何でもいいなぁ」

 ぽつりと彼が言って、会話が途切れる。

 彼は何が好きなのだろう。夜とはいえまだ店はほとんど開いている。私は和食の気分といえばそうだが、彼が違ったら困る。

 相手の気持ちが読めるわけでもないので、私の口は笑みを張り付けたまま固まる。

「臥龍さん、何がいいですか?」

「えっと……」

 横を見る。少し上の目線と私の目線が交わる。彼は背が高い。柔く微笑んでいる今は、とても大人っぽく見えた。

 八重歯が見たい。ぽつりと思った。

「……和食とか?」

「おっ、いいですね!」

 彼が大きく笑った。

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