優しさ
それから彼との奇妙な関係は、ゆったりと続いていた。ネットでの交流も前と変わらず行っているし、現実ではたびたび襲われている。
相手の本名も知らない。行う意味も知らない。不鮮明な関係性。その距離感は不思議と心地よかった。
「お疲れ、今帰り?」
「ああ、お疲れ。そう、帰るところ」
何者かに肩を叩かれる。振り向けば友人が立っていた。同じ研究室の同期だ。
「もうすっかり夜だ。修論きつい」
「そうだね。調べても調べても、新しくわからないことが出てくるし」
「それなー」
微妙な距離を保って並んで歩く。同じ研究室とはいえ、友人と言っていいのかわからない関係性だ。よく会話はする。数人連れ立って食事に行くこともある。それだけと言われれば、それだけ。
ちらと横を見やる。不快そうな表情はしていない。
夕飯に誘った方がいいのだろうか。わざわざ帰り道に声をかけてくるのだ。それが礼儀かもしれない。だがもし拒絶されたらどうしようか。
考えている間は、沈黙が場を支配する。
「あ、じゃあ。また明日」
「あっ……うん。また」
友人が駅の方を示す。ここで別れるということだろう。慌てて手を振って見送る。どことなく安堵してしまう。
何も変わっていない。
心のどこかで落胆が生まれる。じゃがーさんは色々してくれるが、私は何も変わってはいないのだ。前進など一歩もできていない。
「……いっ!」
いきなり肩を硬いもので叩かれる。肩を押さえ振り返ると、覆面を付けた人物が私に向かってバットを構えていた。じゃがーさんだ。
「手を上げろ」
「じゃがーさん、いいですよ、もう」
ぽつりと、私の声が夜に落ちる。
彼の優しさだとわかっているのに、今日は応じる気になれなかった。こうして彼がしている努力は、結果として徒労に終わっている。そう思うと申し訳なさややるせなさが胸に落ちて、いやに口内が乾いてくる。
「手を上げろ」
「……じゃがーさん」
「上げないと、殺す」
わけがわからなくて、彼の姿をじっと見つめてしまう。覆面にバット。夜に光るその瞳。八重歯は見えない。
「うわっ!」
沈黙を抵抗と取ったのか、彼は思い切りバットを振り下ろした。どうやら先程の言葉は本当らしい。
「じゃがーさん、待って……!」
制止の言葉も聞かず、彼は次々とバットを繰り出した。それをすんでのところでかわしていく。彼は手を止めない。耳横で風を切る音が鳴る。心臓が冷える。
気づけば言葉を吐く余裕はなく、夢中でバットをよけていた。そうしなければ怪我をする。純粋な恐怖が心を占める。
「……なーんて」
最後にひゅんと音を立て、彼はバットを止めた。覆面をはぎ取り、その顔を見せる。汗で張り付いた前髪を指でどけ、満足そうに笑う。
いつもの彼だ。笑みが漏れる。
「……大胆ですね」
「え?」
「大学構内ですし、警備にでも見つかったら」
「ああ。でも臥龍さんのためなので!」
迷いのない言葉。
眩しい。そう思う。
相手のためとはいえ誰かに見つかったら。万一怪我させたら。
私の頭の中は、そんなもしもばかりだ。こうやってまっすぐ行動できることは、羨ましい。私にはその勇気も、度胸も、何も、ない。
「がーりゅうさん」
じゃがーさんが変な節をつけて名前を呼んでくる。
「何ですか?」
返事をしても彼は何も言わない。ただ何かを待っているように、こちらを見つめている。
「あの……」
閉じられたままの口が弧を描いている。
「ご飯でも、行きます?」
「はい! ぜひ!」
彼は嬉しそうに笑った。
彼の優しさに、彼の思いやりに、応えなければならない。それが最低限、私のするべきことだった。
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