第18話

キッチンから鼻歌が聴こえる。

コーヒーの香ばしい匂い。

カーテンの隙間から光が差し込んでいる。

手を伸ばして、スマホの画面を見る。8時。眠い…

「おはよ。お前、ほんと朝弱いのな。」

そう言って、カズくんが私の頭をくしゃくしゃと撫でる。

「…うーん。」その手の温かさに身を委ねながらも、どうしても血圧が上がらない。

「パンあったっけ?焼いたら食う?」

「くう」

「っふ。なんだよ、それ」

機嫌の良さそうな返答。再び鼻歌。

いつもと変わらない様子に、ほっと溜息をつく。

冷凍庫を覗いて「おっあったあった」と声をあげる、その大きな背中をぼーっとする頭で見る。

すると、こちらを振り向いたカズくんと目があう。

眉を下げて嬉しそうにほほ笑む。

「なーに見とれてんだよ、マホ」


昨日、カズくんはおねえさんの結婚式の打ち合わせがあると言っていた。

終わって私の家に来たカズくんの様子は明らかにおかしかった。

3つ上のおねえさんの結婚相手は幼馴染の人。その妹とカズくんは同級生で高校時代から大学にかけて付き合っていた。

私と出会う前のこと。

気にならないって言ったらウソになる。

本当はすごく気になる。打ち合わせにその人も来ていたんだろうから、その人と何かあったんじゃないのか…そんな不安がよぎった。

けれど…今朝の様子は普段どおりだし、まあ、いっか。

私は体を起こして、ベッドから出る。

「うーん。コーヒーのいい匂いがするなあー」

わざとらしく声に出してみる。

「飲みたいなら飲みたいっていえよ。」

優しく言い返すカズくんの手にはもうカップが握られている。

私用のピンクのカップ。


私とカズくんは付き合って一年になる。

同じ大学だったが、3つ上のカズくんと出会ったのは卒業してから。

サークルの先輩に呼ばれて行った飲み会の席で出会ったのがきっかけだった。

好印象。

恋に落ちる、とは結果としてその積み重ね。

隣り合った席で、映画の趣味から食べ物、お酒の趣味まで何でも意気投合した気がした。

並んだ空間が心地よく、もう一度会いたいな、と思っていたら、サークルの先輩を通して連絡がきた。


テレビの前のローテーブルに並んで座り、朝の情報番組を観る。タレントの2人が東京のオススメお出かけスポットを紹介している。

「昨日、おねえさんの結婚式の打ち合わせ、どうだったの?」

「ん?ああ。」

トーストをほおばった表情が、小型犬みたい。

「あ、ねえちゃんがお土産ありがとうって。」

「ああ。渡してくれたんだ。絶対忘れてると思ったよ。」

「なんでだよ。忘れたことねーじゃん。」

「賞味期限切れる前に渡してくれてよかったー」

そう言って笑うとカズくんが脇腹を小突いてきた。

カズくんとはこうして、週末にどちらかの家で過ごしている。

大学が同じだったこともあり、お互いの家は近かった。

「次、どこ行くの?」

「うーん。ちょっとお金ためてヨーロッパ行きたいなあ。」

「お前、ほんと旅行好きなんだな。」

「うん。ほんとは旅行会社とか勤めたかったんだー。でも落ちちゃって。」

「ふうん。次は俺も行こうかなあー。」

「ほんと?休み取れるの?」

「うーん。新婚旅行なら取れるかも。」

「え…。」

次の言葉が続かずに黙っていると、テレビの音だけが室内に響き渡る。

「ねえちゃんが、お前も結婚式呼びたいって言ってたけど。来る?」

「え、それって…」

「まあ、いずれ家族になるんなら、もう親族席に座ってもらえたら嬉しいなと思って。」俯き頭をかきながらカズくんが言う。

揺れる視界をぎゅっと閉じ込めて、私はその大きな背中に顔を埋める。

「私で…いいの?」

「うん。お前がいいんだよ。」そっと聴こえるか聴こえないかぐらいの声で返事が来る。

「俺…幼馴染と付き合ってたって言った…よな?」

「うん。」

「ねえちゃんが結婚する相手はその…俺も幼馴染で。俺が付き合ってたのは、その妹なんだけど…」

「うん。」

「ずっとさ、そいつのこと、好きだったんだ。生まれた時から一緒にいてさ。ほんとに。母ちゃん死んだ時もそいつといて…」

「うん。」

「言った…よな。」

「うん。」

「大学で離れて、あいつと離れて…離れると、途端にダメだったんだよ。俺ら。いや、俺かな。不安になるし、不安にさせるし。ねえちゃんたちみたいにはうまくいかなかった。いや、ねえちゃんはずっと離れなかったんだよな。うん。」

そっと、手を伸ばしてテレビのボリュームを下げるカズくん。私の方に向き直る。

私の手をもてあそびながら、言葉を続ける。

「昨日、ハルが…幼馴染の。」

「うん。」

「なんか、打ち合わせ中に一瞬、ぼーっとして、したと思ったら、急になんか高校時代みたいに戻ったみたいな顔したんだ。」

昨日の様子を思い返しているのか、壁を見て話す。

私に異性の『幼馴染』という存在はいなくて、ましてや母親を亡くした時にそばにいたなんて、存在が大きすぎて、理解できる範疇をとっくに超えている。

今も、カズくんの中にその『幼馴染』がいるんじゃないかと思わないわけがない。

胸を不安がよぎる。

「うまく言えないし、うまく言うつもりもないけど。その時、一瞬だけ過去に戻った気がしたんだ。高校時代に。俺の田舎にいた、高校時代。毎日あいつらと一緒にいた時。毎日部活で野球やってたこととか、授業中居眠りしてたこととか。なんか、そういうの全部。たまに地元の奴らに会って思い出すことはあっても、実感として感じることのなかった感覚というか、空気が全部入ってきた気がした。」

「うん。」

「ほんとに不思議な感覚でさ。うまく言えないんだよなー。」

額に手をあて、言葉を探る。

「なんか分からないけど、昨日不思議な体験をしたんだね。」

「うん。なんか家帰ってからもぼーっとしちゃって。」

「そっか。だから様子がおかしかったんだ…」

「あ、俺やっぱりおかしかった?」

「うん。なんとなくだけど。」

「そっか。でもさ、なんていうか、それから朝目が覚めて、思い返してみて、マホの寝顔見ながら、ここだなって思ったんだよ。」

少し照れて俯き加減に目だけこちらを見て言う。

「『ここだな』って…?」

かすれる声で聞く。

「えー。まあ、だから、還るべき場所っていうか。昔に一瞬タイムスリップした気がしたけど、戻りたいとは思わなかったんだよな。」

「へータイムスリップかあ…」

「いや、反応するところは、そこじゃないんだけど。」

「じゃあさ、本当にタイムスリップできるとして、過去と未来、どっちに行ってみたい?」

「何の話だよ…」少し肩を落とすカズくん。時々こういう反応をされてしまう。

「だから、タイムスリップ。」

「うーん。未来は楽しみにとっておきたいしなあ。過去…」

あごをさわりながら思案する。

「やっぱ人目でいいから母ちゃんに会いたいかな。」

「だよね。私も過去に戻って、カズくんの子ども時代とお母さんに会ってみたいなあ…」

「まあ、そんなことできるわけないけどな。」

「そうだよね。」

いくらねたんでみても、過去に戻って幼馴染の場所をすり替えることはできないし、過去は変えられない。カズくんのお母さんの事故をないことにしてあげたい、とかはあるけれど、過去に戻ることができない。

いろんな過去を含めて今の私たちがいて、私たちは出会った。

大学生の時に出会っても恋に落ちなかったかもしれないし、ましてや高校時代、中学、小学生とさかのぼって考えても、3つ下の私が相手にしてもらえるとも思わない。

社会人になったあの日、あの瞬間に出会ったことに何か意味があるのだと信じたい。

私たちは、これから二人で未来を紡いでいく。

どんな未来になるか分からないけれど、過去も含めて、今この瞬間を一緒にいられることを感謝して、二人で紡いでいく。

それが、この瞬間を大切にすることが、カズくんの「特別な」何かになりますように、と祈りながら。




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半径3㎞の物語 相沢優子 @minamibi1234

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