第21話 濡れた形代

「なっ、何やってるんですか!」


 ジョキリ、ジョキリ。布を断つ音は悲鳴のごとき制止を受けても止まることはなかった。


 加藤老人は不死原の手からクマを――すっかり腹の裂かれたぬいぐるみを取り上げると、酒乱騒ぎを彷彿とさせる表情で不死原を睨みつけた。


「ハサミを入れるなんて……気でも狂いましたか!」


「まあまあ、落ち着いてください」


「落ち着いていられますか! 夢叶の、孫の、大切なぬいぐるみですよ!? それをこんな――」


 コツン。小さな音と共に、ぬいぐるみから何かが転がり落ちた。


 それは箱だった。五センチ四方にも満たない、小さな木箱。不死原はそれを拾い上げると、切れ目をいっそう細める。


「それは?」


「開けてみるかい」


 不死原の手から無洞の手へ小箱が渡ってくる。


 サイズにしてはずしりとした重さであった。腕に力を入れていなければ、箱を落としてしまいそうだ。ちらりと龍士へ助けを求めれば、彼は厳しい表情で箱を見つめるばかりで無洞の視線に気付く様子はない。


 やるしかなさそうだ。無洞は乾いた唇を濡らすと、蓋を揺すった。


「……ッ」


 途端に香る生臭い香り。吐き気を催すほどの腐敗臭が鼻を、喉を、肺を侵す。蓋をずらすだけでもこれなのだ。もしも解き放ったら――そう思うと、無洞の手は蛇に睨まれたかのように固まる。


「開けないんスか」


 見守っていた龍士が、硬い声で問い掛ける。無洞は強張る首を懸命に回して、


「めっちゃ、気持ち悪いです」


「貸して」


 龍士は無洞の手から小箱を取り上げる。そして躊躇ためらいなく、しかしどことなく嫌そうな顔をしながら、再度、無洞には開けられなかった蓋を開いた。


「……あれ?」


 身構えた甲斐なく、中には何も入っていなかった。箱の内側は黒ずんだ茶色をしているが、臭いの発生源になり得そうなものはない。


「何も入ってないですね」


「いや――」


 龍士が指を箱の中へ突っ込む。ペリ、と薄羽の剥がれるような音がしたかと思えば、龍士の指先に何かが摘ままれていた。それは紙だった。箱と同じく茶色の紙。表皮を指で滑らせると、再度剥がれるような音と共に、紙が分裂した。


 どうやら短冊状の紙を三つ折りにしていたようだ。開かれた先にあるのは白い――多少茶色に汚れているものの、裏面よりも白い面である。


 もともとは両面とも白色であったのだろう。しかし折りたたんで収納していたために、外側を向いていた面だけが穢れた。何か、想像しがたい要因で。


「うっわ……」


 何かを察したように呻く少年。


 龍士と無洞が目にしたもの、それは文字だった。白い面に黒いマジックペンで刻んだ四つの漢字。それが龍士の顔を、いっそうの嫌悪に歪ませたのである。


「加藤、夢叶?」


 加藤夢叶。小箱が出てきたぬいぐるみの持ち主であり、病に臥せる女児の名。


 幼い少女の名前が、白い紙に刻まれていた。


 その筆跡に荒々しさは微塵も感じられず、それどころか親が子の手荷物に名前を刻むかのような慈しみすらにじんでいる。


 なぜこんなものが。言葉を失う無洞の視界へ、不死原の満面の笑みが割り込む。


「それが今回の事件の真相だよ。簡単だろう?」


「いやいや、簡単って……何なんです、これ」


「呪物」


 きっぱりと、不死原は言い切る。


「夢叶ちゃんの部屋を訪ねた時、『ひとりかくれんぼ』と『丑の刻参り』の話はしたよね。『ひとりかくれんぼ』はほとんど触れられなかったけど――覚えてるかな?」


「はあ、形代のリンクづけとか何とかって話でしたよね」


「そう。身体の一部で形代を作ることで、身代わりとしての効力を高める。これも同じようなものだよ。もっともこれには、夢叶ちゃんの身体の一部――髪の毛や爪は使われていないようだけどね」


「……じゃあ、このぬいぐるみは夢叶ちゃんの形代――身代わりということですか。それなら別に問題ないんじゃ」


 無洞は首を捻った。『身代わり』の役目を負う人形。それはつまり、今現在、夢叶を侵している病魔をいずれ肩代わりする、あるいはその最中であるということだ。


 害はない。むしろ益しかもたらさないように見えた。しかし――。


「逆だ、これは」


 それを否定するのは龍士だった。


「無洞さん、何も疑問に思わなかったんですか。どうして茶色いのか。どうして『気持ち悪い』と感じたのか」


 仮に夢叶の病魔を肩代わりする目的で作られたのであれば、嫌悪など感じない。感じる要素がない。しかし無洞は現に『気持ち悪い』と、あのログハウスで嗅いだ霊の個性のごとき腐敗臭と共に拒否を示したのである。


 そう直観したということは、何かあるのだ。


「……これ、もしかして悪いものなんですか?」


「うん!」


 そう応じる不死原はひどく晴れやかだった。


「荒っぽいし、どうせ素人の作りだと思うけど、これだけ影響を及ぼしているんだ、どれだけ恨んでいたかよ~く分かるね。興奮するなぁ! ねえねえ、見てよ、龍士君。これ、見るからに箱いっぱいに血を入れてたよね? どうやって手に入れたのかなぁ。そこら辺の動物でも殺したのかな? それとも自分の血を使ったのかな? まさか肉親に提供を呼びかけたわけじゃないよね? いやぁ、もしそうだとしたら本当に興奮する。唐突にとんでもない発想をしでかすから素人って面白いよね。ぜひ過去に戻って制作過程を見てみたいね!」


 平生の、鼻につくほど冷静な不死原遥介はどこへ行ったのか、目の前の男は鼻息を荒くしていた。放っておいたら、隅から隅まで、文字通り舐めまわすように観察しつくすだろう。


 いや、それだけならばまだいい。彼が『血』と呼ぶものの味を確かめたいと言い出してもおかしくはない。


 やはり変態なのだ、この男は。無洞は不死原に対する評価が間違っていないことを確信した。


「……まあ要するに、この事件の原因は呪いにあったってことですよ、無洞さん」

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久狛井探偵事務所―自称零感、探偵の意義を問う― 三浦常春 @miura-tsune

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