第 参拾漆 輪 【はじめの一歩】

 空腹の限界に達した桜香は無意識下に記憶の回廊へと誘われた。


(ん、この匂い……)


 鼻腔に注がれるのは一欠片の思い出。


 三月みづきに身を預け様々な場所へ連れられた記憶が溢れる。


 髪を靡かせ柔らかな風鳴が通る陽に照らされた林道。


 幾百種が個性を謳歌し魅惑の香りに満ちた秘密の花園。


 未知に満ちた遥かなる先を想像させ鼓動で胸を踊らす大海。


 もやのかかる部分はあれど鮮明に覚えている言葉がある。


 まるで子守唄のように言い聞かせていた口癖。


「きっとこの先々で、貴女の身体では受け止められない現実が襲って来ることがあると思うの。でもね、一つの器で収まらなくても私達は一人ぼっちじゃないんだよ。沢山の命が寄り添い支え合って、小さな一歩で成長して――に守られているの。だからね、きっと貴女こそ――の――になれる存在になれると信じてるから」


(やっぱり思い出せない。いつも大事なところが聞こえないんだよね)


 何の変哲も無い家族の時間なれど、桜香にとっては特別意外の何ものでもない。


 ふとした瞬間にだけ訪れる心の拠り所と呼べる。


 思い出せる記憶といえば朧気にあるのはそう。


 儚げ無く咲き凛と佇む花に似た横顔。


 木陰に手を翳した時に感じる安らぎ注ぐ温もり。


 ふとした瞬間でも涼風に揺られる鈴の音のような声。


 十数年後の今でも変わらず堪らなく、その胸の内へ深く確かに刻まれている。


(会いたいな、でも叶わないよね。この場所に留まれたら一人ぼっちじゃないのかな)


「――!」


(家族がいて、大事な人がいて、色んなところに行って、そんな名も無い毎日を送りたかったなぁ……)


「――さま!!」


 幾度も幾度も反響する呼声

 それは得てして心地良き輪唱となる。


 感傷に浸るのも柄の間、突然身体が揺さぶられた。


 夢から現実へと砂時計の如く戻され、ゆっくりと視界が定まっていく。


「あれれ、天地が逆さまだ〜」


 透き通る程に美しい翡翠色の瞳、特徴的な前髪が枝垂しだれては桜香の鼻をくすぐる。


 それは楓美が心配そうに覗き込む顔であった。


「もう、桜香様ったら……いい加減に前を向いて下さいです」


「ふぇっ!?」


 終始間抜けな返答をし立ったまま天を仰いでいた桜香は、頬を両手で摘まれ正面に向き直った。


 横目で見ると誰も彼も前を見据えている。


 ふと、楓美が小声で忠告した。


「しっかりして下さい。午後の部はもう始まってますです」


「あ…。えっとごめん。糖分切れで意識失ってたみたい」


「本当に小さな身体で燃費が悪いですね」


「いっそのこと、ほっぺたに大福でも入れてみようかな。いつでも食べれるし誰からも分からないでしょ」


(頬袋に溜める小動物みたいな桜香様。有り有りの有りです!!)


 妄想で楓美が悶え左右に大きく振れると隊列が乱れた。

 直後に猿寺の激が飛ぶ。


「私語!!」


「「はいはいです!!」」


 元気だけ一丁前の返事をし互いに背筋が伸びる。


 緊張感を取り戻すとともに自由奔放な桜香へ嫌な視線が集中した。


 仕切り直しと言わんばかりに猿火が手を叩く。


「あ〜、でだな。話の続きをしよう。お前達にも分かりやすいように砕くと、花の守り人にはがある」


 そう言うと五指を親指から一本ずつ折り曲げ端的に説明した。


 「壱、凛開りんかい。超短時間に於いて自身の秘める力の解放。弐、想傾そうけい。目視範囲の他者へ意思を送信。参、私導しどう。植魔虫の痕跡を匂いで識別。肆、溢喜いっき。血液を過剰に循環させ治癒力の向上」


 猿火に合わせ桜香も指を折り曲げ数えていた。


(えぇと……あれ、小指が余った。あと一つは?)


「連々と言ったがぶっちゃけ今のままでのお前等には1つも習得は出来ない。生半可な覚悟の坊っちゃん嬢ちゃんには無理だ」


「じゃぁ何を教われば良いんだよ!」


「こっちは命賭けて来てるのよ!」


「ばーか、ばーか、はーげ、はーげ!!」


(ふっ、小物ほど吠えるとはよく言ったもんだね。対する俺は冷静沈着)


 竜胆りんどうは腕を組み澄ました顔で聞いていた。


 対する楓美は真面目な性格のせいか復唱している。


(壱番目が凛開、弐番目は想傾で……)


「うん!、うんっ!! まぁそう言うだろうな!!」

 

 そんな声が飛んだのも当然かの如く猿火は頷く。


「人の話を最後まで聞かん奴は、この先何をやってもその調子だ! まぁ、俺は何も聞こえんがなっはっははは!!」


(猿火さんいつにも増して上機嫌だ。鬼ごっこで追い詰められたのが嬉しかったらしいしな)


(……)


「まだ指は一本残っている。そして、それを学ぶ為の場所がここだ!!」


 猿火が示したのは何の変哲もない池であった。


 しかしそこには、穏やかとも言える一つの生態系が確立されておりり、訓練場において唯一の水辺であった。


「今から教えるのは花の守り人の基本の〝き〟にして必要不可欠な技――」


 猿火は大柄な体躯に似合わず力強い後方宙返りを決める。


 反して地を傷つけること無く、その動作は揺らめき波立つ姿を映す。


「水面に浮かぶ葉の如き身のこなしは、極めれば宙を自在に歩み残影を刻む。それが最初の技法――舞落ぶらくだ!!」


 猿寺、猿砂がすかさず拍手を送るが誰も反応はしなかった。


 基本にして初歩であるが故に出来る気がしないからだ。











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いつかあなたに刃を向ける時 泥んことかげ @doronkotokage

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