我の心、我知らず

捨 十郎

これは父性か?

 目的としては、私はこの気持ちに名前を付けたいのだ。

 名前を付けるとは定義をすることである。抽象的な事象を概念化することである。私はこの気持ちを定義したいのだ。

 なぜ定義したいかと言えば、気持ちのすわりが悪いからだ。この気持ちの悪さはアレに似ている。顔のイメージは浮かぶのにその人の名前が思い出せないとき。マンガのあのコマ、あのページのあのコマだと分かっているのに、そこに書かれたセリフが思い出せないとき。いわゆる、ここまで出掛かっているのに、という歯がゆさだ。

 前置きが長くなってしまったが、つまるところ母に会うたびに歯がゆい想いをするのがイヤなのだ。なぜ母に会うたびにこんな気持ちになるのか、そしてその正体はなんなのか見極めたいのだ。少なくとも私と似た境遇の読者諸兄ならば、きっと同じ感情をもった経験があるだろう。そうでない方であっても経験したことはあるかもしれないし、そうでなくても想像はできるものと信じている。


 端的に言えば私は母を愛している。前もって断っておくが性的な意味ではない。親戚から冷やかされたこともあるが、マザコンではないと思う。既に母と一緒に暮らしていた期間は人生の半分に満たなくなってしまっている。客観的に見ても経済的にはもちろん、精神的にも自立している言って差し支えないはずだ。


 母に感じている愛しさをさらに細分化してみる。言葉とは便利なもので、名前が分からないこの気持ちでもとりあえずは表現できてしまう。

 愛していると。

 ただしそれの意味するところは広範すぎる。言い換えれば解像度が低すぎて、この一言だけでは的確に表現できているとはあまりにも言いがたい。なのでもう少し厳密に考えてみる必要がある。

 この感情は間違いなく愛情だろう。しかし性的な意味ではない。とはいえ異性愛ではあるだろう。なぜなら父親に感じるものとはたしかに異質だからだ。そして母親と同年代の赤の他人の女性には感じない。このことから家族愛でもあるのだろう。幸いなことに私には妹がいる。彼女は私にとって家族であり、異性である。母と妹を比較することでまた一歩、考察を進めることができる。その結果は、非常にニアリーだ。同一ではないが、同質である。自分に近しいこと、そして異性であること。ここら辺がポイントのようだ。

 もう一つ、時間軸をスライドさせて考えてみる。昔の私は母に対してこの感情をもっていただろうか。答えは否だ。なぜならこうやって悩んだ記憶がないからである。おそらくは30を越えた辺りから少しずつ感じるようになったのではないか、と推察する。

 私が男性であることも大きいだろう。どこか庇護欲にも似ているからだ。男性が女性を守りたくなる気持ち、これが人間という生き物に標準装備されていても不思議ではないだろう。

 どうだろうか。家族愛でかつ異性愛でもあり、かつ庇護欲にも似ていて大人になって初めて抱く母親への愛しさ。母親が老いたこともきっと無関係ではないだろう。感じたことはないだろうか。女性でも母親に対して感じるものだろうか。ぜひ意見を聞いてみたいものである。 


 数年後に読み返してみると、恥ずかしさのあまり嘔吐しそうな内容ではある。現実の知り合いに見つからないのをつとに願うばかりである。

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