3──さても人は 第二話

 白い羽根がった。

 見る者がいればそうさつかくしてしまうほど、真珠はかろやかに舞った。

 まるで、羽ばたく白い大きな鳥だ。

 あまりに軽やかで、しかし確かな意志をもって空間を切りき、あるいはして自在に羽根のようにおどそであやつる。

 飛びあがった足がようやく地に触れたとたん、真珠は世界の実感を得た。

 神域で踊っている間は、意識が真珠の中にない。

 神意を問うているのだ。

 当然、なにも得られなかった。天狼はいまや、真珠の手に届くところにはいない。この不在は真珠の中にため込んだ神気でもってあがなわなければいけないが、どうにもしようさがじんじようではなかった。天狼の気がいろく残るこの山でさえも、すでに瘴気がはびこりはじめている。

 こんなことは、初めてであった。

 天狼の不在、というだけでは理由がつかない。

「私のせい、か?」

 言葉にするのもいまいましいが、どうにもそうとしか考えられなかった。

 真珠自身が、天意を失いつつあるしようではないか。

 あの男に心を奪われ始めているがゆえに。

「許せぬ」

 どうしてこんなことになったのかなどと考えるのはもうおくれだ。真珠が天意を失えば、国はどうなる。

 自分は、どうなる。

「許せぬ、というのは私のことですか」

 瞬間、真珠はおのれの無防備さをじた。

 つま先が弓に触れたが、おそらくは相手がこうげきの姿勢にはいる方が早い。視線だけを声の主に向けて、問う。

「何者だ」

「それはもんでは?」

 みすらかべていた男にまるで見覚えはないくせに、すずしげな目元にかんがあった。

はいえつたまわきようえつごくに存じます」

「拝謁を許した覚えはないが。山城惟月」

 言いわたすと同時に惟月は顔を上げた。

 確かにぼううたわれた母親の血を色濃く受けいでいるのだろうというような上品な顔立ちであった。透輝が男性的なあらあらしい美しさを持つのだとしたら、惟月はせいれつな水を泳ぐわかあゆのようであり、どこか女性的なやわらかさがあった。

 真珠のめまわすようなこつな視線は明らかに不快であろうに、惟月はおくびにも出さない。

 これはなかなかの役者だな、と内心でつぶやく。

「どこから入り込んだ」

「どこからでも。天竜の加護あれば、すべての警護はザルでございますれば」

 まくって見せたうでに、一見すればうろこまがうようなこんの文様があった。

 荒雲が術を行使するときに使う文様に間違いない。

「天狼の加護が得られなければ容易たやすがえるか。はじを知らぬ男だな」

 もはや言葉を取りつくろうことなく、真珠はちよくせつき捨てた。

「で、私がひと声でもあげれば透輝がきてお前をなますりにすると思うが、どうだ」

「透輝、などと名前を呼ぶほど親しくなられたらしい、我が兄と」

「なんだと」

 思ってもみないことをてきされて、真珠のほおは赤く染まる。それを横目で見て、惟月は口角を上げた。

「あなたはそうはなさいませんよ。なにせ、私とともに荒雲へいらっしゃるのですから」

「私が、お前と? 鹿も休み休み言え」

「では一つ、あなたの不安を言い当ててみせましょうか」

 にらみつけた先で、惟月は人さし指を立ててみせる。

「天意を失うことを、おそれてはいらっしゃいませんか」

 頰がわずかに引きつってしまったのはまったくの失態だった。舌打ちすらした真珠に、惟月はたいしようする。

「お可愛かわいらしいことですね」

「だまれ」

「恋など、すべてはげんそうですよ。愛も情も、世界のあんねいのためにはなにひとつ重要じゃない。必要なのは、あつとう的な力。世をべる、天の意だけです」

「だとしたらお前が天狼の意をえることは今後いつさいない。天狼は、天竜の意を得たものを王とはしない」

「あなたがとなりにいても、ですか。天狼の姫」

「なるほど? 私をめにでもするつもりか。舐められたものだ」

「手籠めなどと、恐れ多い。荒雲にて、この上なく上等にもてなすつもりですよ。あなたは人などと交わるような身ではない。その才は世界のために使われるべきものだ。私のように、術を行使して人工的に力を得たものでなく、まさしく天意を有す尊い身なれば」

「お前、なにを言っている」

 ばやに術を、神を語る惟月に、真珠はしんを覚えた。

 不岐の人間がこれほど術にけいとうするとは思えない。まして王族であるならなおさらだ。

「術とは、神の力をかすめ取っているようなものです。くつをこね、正しき手段を講じて、力の有り余っている神から少しばかりちようだいする。その頂戴した力を、人というわいしような存在が四苦八苦してなんとか行使しているという有様で、意のままなどという言葉からはほど遠い。あなたとはちがって、ね。ですから、あなたがどうしても欲しい。そうすれば俺が使うようなまどろっこしい術などというがいねんは消え去り、また一つ、俺は世界の理に近づく」

 わけのわからない理屈を、透輝のおもかげで語る目の前の男は誰だ。口調すら変わっているではないか。

 あげく、まとう空気が先ほどまでのどこか気弱な男とはまるでちがう。

 ふるえるくちびるで、真珠は問うた。

「……お前、中身はなんだ」

「あぁ、だ。どうにも自分の理想形が目の前にあると思うとよくおさえられない」

 りんかくが、れる。

 現れたのは、長身のじようだった。

 くらやみの瞳をうすく細めた先には星のように黒子ほくろが置かれている。あらゆる女をとろかすような美貌である。

 真珠は自身もおどろくほどの速さで弓をり寄せ、構えた。

「またぶつそうなものを」

「もう一度聞くぞ、お前はなんだ」

「天竜の名を預かるかいらんと申します。どうぞ末永くよろしくしてくださいね、しんじゆじよう

 かつな自分に真珠はつばを吐きかけてやりたい気分である。

 異国の花のようなかおりでむせかえる今、感じていたかすかなかんの正体がすべて左海藍によるものだとようやくわかった。

 この香りは、彼の術の残りだ。

 気配、と言いえてもいい。

 いつもであれば宮の中に不審な気配あればすぐに察知できるものを、今の真珠は天意を失っているも同然だ。天狼は神界へかえっており、通常の十分の一ほどの力も出ない。

 だからだ、と真珠はここにきて理解した。

 力が弱まっているからこそ、藍は不岐へと手をばした。

「よろしくなぞするか。それにつけてもお前のような男が現れると想定していなかった自分ののんさにが出る」

「俺にとっては三百年に一度の好機、ましてあなたのような美しいひめであったことは望外の喜びですけれども」

「うすっぺらによく回る口だな。この宮は私の支配領域だ。舐めた態度で生きて帰れると思うな」

 ぎりぎりと弓を引きしぼる音を、藍は恐れていない。それどころか楽しい遊びがこれから始まると言わんばかりにしゆうれいこくとうを細めた。

「短気はよろしくありませんよ、真珠嬢。それよりも一つ、昔話をしましょう」

 聞く気がないと言うかわりに、真珠は矢を放った。

 矢はいつも通り、真珠の意を正しく反映して飛んだ。藍ののどもとさるはずだった。

「お前っ」

 真珠の顔に初めてあせりが浮かぶ。

 それもそのはずだ。矢は、藍の喉元に届く前に力なく落ちた。急にすべての意思をほうしたように、ただ落ちた。

 藍はこともなげに小さくかたすくめる。

てんろうてん、そしててんりゆう。このさんじゅうは一つの神から分かたれたことはご存じでしょう。ではどうして分かたれたのか、その神話の行間を知るのはわずひとにぎりにすぎない」

 かみごろしのひめ、と呼ばれた少女がいる。

 しかしその言葉はいかにかみの話をしようさいに記した書物といえ出てくることはない。限られた者たちに口伝で伝わるのみだ。

 一種のみ言葉に近い。

 まだ天と地が分かたれていなかったころ、神からその身を望まれた美しき少女は、こんいんがなったその晩、ねむる神の首を切り落とした。なにを思ってそうしたのかを語ってくれる者はいない。口伝で伝わっているのは落とした首は失われ、残った神の肉体から三びきの獣が生まれたということだけだ。

 三獣は、神殺しの姫神子に臣従した。

 それが、三国の起こりだ。

 真珠が藍の言葉にまゆ一つ動かさぬのをみて、

「さすが、ご存じでしたか」

「馬鹿にしているのか」

 届かないとわかっていながら再び矢をつがえたのは意地ゆえだ。藍はかたくなな真珠をみて小首をかしげた。だというように口元に人さし指を立てて行動を制止する。

「続けましょうか。そのなりたちゆえ、三獣は今もただ一人に臣従する。彼らは永い年月のなかで、そのただ一人をずっと探しているのです」

「神殺しの姫神子が当代にいると言いたいような口ぶりだな」

しかり。ほかならぬ、あなたの話です、真珠嬢」

もうそうだ」

 そくに切って捨てる真珠に藍は気を悪くするりもなかった。

「身に覚えがあるのでは? 歴代の姫宮を上回る力を有するのはなぜか、天狼より力を借りうけるだけでは説明のつかない神そのものの力を使えきできるのは、なぜか。歴代のだれよりも深いあかの瞳を持つのは、なぜか」

 真珠は我知らず息をんだ。

 神に愛され、神を支配するむすめ

 かつての姉の言葉がよみがえる。

「とはいえ、真珠嬢は神殺しそのものではありません。そうでなければ今のこのきゆうはあり得ませんからね。かなり近いものにはちがいありませんが」

「結果、なにが言いたいのだ」

「協力しませんか」

 真珠はまゆを寄せた。断ると口にする前に、聞きのがせぬことを藍が言う。

「真珠嬢のもつ才と俺の術式構築の技能でもって、しようを完全消去することは可能ですよ」

「それがお前になんの利がある」

 瘴気の対策は三国様々だ。

 斑はとうそうをよしとする気風からなんら対策はとっていないらしいが、不岐は真珠が一手にじようになっており、荒雲は国を取り囲む術式によっておさえこんでいる。

 瘴気の完全消去が成ったところで真珠が役割から解放されるのみで、術式を発動させるだけの荒雲には大きな利はないはずだ。

「あの術式を常時発動させるのはそれなりの対価をはらっていますので、利を考えるならそれがまず一つ。が、おっしゃる通りこれはさしたる利ではありません。そこで、真珠嬢には俺の個人的なお願いを聞いていただきたい」

 いやな予感しかしないと思いながらも先をうながしたのは、姉の目指していた瘴気の完全消去が成るかもしれないという可能性に目がくらんでのことだ。

 真珠のそんなこころを知りぬいているのだろう。藍は口のはしをつりあげていった。

「この世のことわりを明かすのを手伝っていただきたい。具体的には真珠嬢の力を俺の術式に組み込みたいということです」

「荒雲にくみせよ、ということか」

「まさか。言った通り、これは俺の個人的なお願いです。ことここに至っては荒雲なんぞどうでもいい。俺が望むのはただ一つ、この世の果てがみたい。それにきる」

 夢を見るようなまなざしで、藍は語る。

「そもそも瘴気とはなにか。これは神代の記録にはなかったことです。初めから存在していたものではなかった。だとするとこの人をまどわす悪意の正体はいったい? 神が最後に残した人へののろいなのか。呪いがいまだいろくあるということは、神は死んでいない? 首はどこに? 三獣の意味とは? この世の理はじんで意味のわからないことばかりだ。俺はそれがどうしても許せない。理を知り、そして再構築をする。三獣すべてを支配下におけば、それは夢想じゃなくなる」

「なるほど、じよういつしている」

 弓を引く手に力がこもる。藍は相変わらずうすわらいをかべているだけだった。

「真珠嬢の利はもう一つあります。俺はあなたに姫宮の位をおりてもらっちゃあ困る。あなたのようなうつわが次に現れるとは限らないのでね。ですから、協力してあげますよ。不岐の王をはいじよするのを」

 しゆんかん、答えにきゆうしたのは『あの男さえいなければ』と真珠が望んでいたからだった。かされたようで、内心でほぞをんだ。

「……だまれ」

「あなたを惑わす男がいなくなればばん解決なのでは? 今の王でなくてはならない理由はなにひとつありません。神が理をつかさどる限り、人の世などどうとでもなる」

「まるで神のような口をきくな、人間が」

「この俺が、人間に見えますか?」

 あざわらって引き下げられたむなもとにぶあおかがやいていた。

 輝きの正体がうろこだと理解したのはややあってからだ。顔料でえがかれている文様のたぐいではない。正真しようめいりゆうの鱗が藍のなめらかなはだを食い散らかしていた。

 まるで、天竜が肉体の所有権を主張するように。

 手から弓が音を立てて落ちた。

「お前は、なんだ」

 先刻と同じ質問を投げかけるも、藍はそれについてはなにも答えなかった。

「知っていますか、真珠嬢。俺のこの目はけつかん品のあかしなのです」

 黒の瞳を指して、藍はこくはくに笑う。

「ご存じの通り、荒雲では才のある術師こそが正義です。けれどその才とやらは努力してどうにかあなめできるものじゃない。あらかじめ、はっきりと身体からだに刻まれているのです。そう、あなたのように」

 真珠の赤いそうぼうをとろけるような視線で見つめる藍。

 彼は、かつて色なしとさげすまれていた。

 荒雲の歴代の王は、いずれもさいな色のひとみを有していた。

 もっとも名高いのは五代目の王だろう。

 彼は世にもめずらしい玉虫色の瞳をもっていた。光の加減で輝く緑にも、むらさきにも見えたのだという。

 珍しい瞳にたがわず、彼は現在の荒雲における術式のを確立した。

「術師になりたいとりようの門をたたいた時は、みなに笑われましたよ。色なし、つまり俺のような黒い瞳はどうあがいても日常をちょっぴり便利にするごみみたいな術しか使えないんです。でも、あきらめなかった。それほどまでに、俺は力をほつしていたのです。初めから持っている真珠じようには理解できないでしょうが」

 張り付けたがおの仮面から、僅かばかりのにくしみがのぞく。

「それはそれは、くような日々でしたよ。でも楽しかった。ごとに技術を得ることは、できることが増えるのは喜びでした。けれども、いつだってあなた方のような人が、俺のさいな成果をあざ笑う」

 努力は裏切らないのだ。

 そう言い聞かせた日々はあっさりとひるがえる。本当の天才の前では、努力など何の役にもたたない。自分はまがい物なのだと、藍は痛いほど思い知った。

「だから、あなたには正しく世界の役に立っていただく。そうでなければ、俺がこつけいで、あんまりにもあわれだ」

 すずしいしようの顔が、初めてゆがんだ。痛みにえるように。

 正しく、と藍は言った。

 それすなわち、現状では真珠の能力は正しく運用されていないと言っているのだ。

「神とは信心に根ざしている。人が信じるからこそ、けんざいしている。それはおわかりですか」

 藍がなにを言いたいのか見当がついて、真珠は彼を大いににらみつけた。

「不岐はあまりにも信心がうすい。かんじんの王でさえ、神などいらぬと言う様です。それではいかに神の器たる真珠嬢が破格とはいえ、宝の持ちぐされです」

「私は、それでいいと思っている。私はもはや、人でない。その私が人の営みにかんしようするは無用の混乱を招く。人の理のなかでいられぬものは、ただひっそりと夜にしずむべきだ。昼の生活を乱すべきではない」

 数日前に、透輝たちと火を囲んだことを思い出した。

 久方ぶりの温かな食事は、真珠にとってまさに非日常であった。しんせんに思うのと同時に、これは自分の居場所ではないと思い知った。この温かさに慣れてしまえば、どくの冷たさはいっそう身にしみる。

 自らの首をめるしゆは、真珠にはもちえない。

「なるほど、他ならぬあなたがその力をいとうておいでか」

 高らかに、笑うように言った藍の瞳は、はっきりと憎しみで暗く輝いていた。しばしにらみ合って、とうとつに藍の顔から力がけた。

「……残念ですが、今はここまでのようです」

「まてっ」

 さけぶ声もむなしく、まるでかすみのように藍は消えていた。

 この天狼が支配する宮で、いともたやすく術を行使する藍は、確かに王に相応ふさわしい力を得ている。簡単に出し抜かれたことに、真珠は奥歯を嚙みしめる。

「おい、どうした!」

 再びひびく声に、真珠は反射的に弓を構えた。その構えた弓ごときすくめられ、おどろく。

「落ちつけ、真珠。俺だ」

「……透輝?」

「そうだ、俺だ。なにがあった」

「いま、ここに」

 言いかけて、真珠は口をつぐむ。

 荒雲の王、藍とせつしよくしていたなどと言えばますます真珠のけんは深まるだろう。それに、これは一つのいい機会だと考えた。相手は真珠をねらっている。それならば再び接触してきた時にらえてしまえば、この話は全て終わりだ。

 あとは再び元の日常にもどるだけだ。

 人は人へ、神は神へ。線は正しく引かれる。

 そう望んでいたはずなのに、透輝の温かさを必要としている自分に吐き気がする。

「真珠?」

「なんでもない。それよりも私はこれからしようしずめにいく。どうにも、山の気配がおかしい」

 藍がこうも簡単にしんにゆうできたことも気にかかる。すでにこの山は真珠が気づかぬうちに瘴気でけがれ始めているのではないか、というがあった。

 いまだ抱きすくめている透輝の胸をたたいて、放せと告げる。従ったものの、透輝は真珠を見下ろして言った。

「俺も行くぞ」

「私が裏切っていないか、それほど心配か」

 皮肉をにじませて問うと、透輝は意外なほどしんけんこわで否定した。

「ちがう。あんたが心配だからついていくんだ」

「……ならば好きにしろ」

 どこか落ち着かない心をかくして、真珠は努めてれいたんに聞こえるように許可したのだった。



 左海藍を知っているか。

 山へ行く道中で透輝にそう問われ、真珠は正直に答えた。りんごくの王をまったく知らぬと言うのも不自然な話だからだ。

「神を使えきする王だろう。私は好かん」

 生理的けんかんすらにじませて吐き捨てる。

 真珠のそんな言葉に透輝は驚いた。

「あちらのほうがウケはいいのだがな」

「確かに顔はによにんほうっておかぬような様子だが、好みではない。透輝の方がよっぽど私好みだ」

 すぐにぶつそうなことをたくらみがちだが、やり方に血が通っている。

 瑠璃、あるいは琥珀が始末した兵たちの首を透輝がことごとくとむらってやったのだと真珠は後に聞いた。それも何かの雑談のおりに瑠璃がらしたのを、真珠が聞きとがめたのだ。そういうのをもっと民衆に宣伝すれば、あのような血もなみだもない冷血漢と言われっぱなしになることもあるまいて、と真珠は思うのだが、どうにも不器用な男であるらしかった。

 が、そのあたりは小器用な男よりはよっぽど誠実さを感じる。

「あんたな」

「私は、うそは言わんぞ?」

 だから自信を持てとかたを叩くと、なぜかうなれて息を吐いた透輝である。

「お前だったら、私を得るためにどうする?」

 あてどなく歩を進める真珠は、神経を張りめぐらせてついてくる透輝にり返ってたずねた。

「なんだ急に」

「少し気になっただけだ」

 立ち止まる。

 たがいの白い息がゆるりとのぼってさんする。

「俺なら欲しけりゃ正面から行ってさらうだろうな」

「王の言葉とは思えんな」

「そうかよ。そもそも前提からしてちがっているだろう。俺は、神のものになんの興味もない」

 そうだろうなぁ。

 真珠は目を細める。この男は人として正しい。血肉をともなわぬものを信用していないのだ。それは人間をだれよりも信じているのにほかならない。

 そういうところが、真珠にはまぶしく同時に厭わしい。

 薄く積もった雪にあしあとをつけながら、真珠はあたりを見回す。だんであれば山の様子は気配で手に取るように分かるが、まるでかくしをされているようだった。

みようにおいがするな。……いやな感じだ」

「わかるのか?」

 驚く。

 真珠ですらさぐりの状態であるのに、人である透輝が瘴気の気配を察知できるとはとても思えなかったからだ。

 瘴気は、古いしきのような匂いがする。

 長年たゆたう感情が材木にしみ込んで、そうして空気と混じり湿しめったような気配を発する。それは、不快の代名詞みたいなものだ。

 宮のすぐ裏の森のなかで、真珠はその気配を感じていなかった。いつものように何のへんてつもないただ暗いだけの森だ。

「あんたが思っているのと同じ感覚かどうかはわからんが、不快なものがやってくる気はしている。もっとも、それは宮の中においてもだが」

 いつしゆん、真珠は動きを止めた。

 まさかそれは藍の気配を感じている、ということなのか。

「透輝、それは」

「おい、あれはなんだ」

 ほら、と示された先には黒いうさぎがいつぴき、ひょいとはねた。が、どうにも様子がおかしい。よだれをたらし、ひっきりなしにかんだかい声をあげている。まるでなにかに首を絞められているような、いまにも息絶えそうな音だ。けれども身体からだかろやかにちようやくり返している。

 異常だった。

 それを認めて、ようやく真珠は鼻先にただよおんな気配に気がついた。

 いつもよりもい。

 これは、射るだけでは足りぬ。

「下がっていろ。瘴気におかされている」

 ばやく弓を構え、矢をつがえる。

 狙いを定めるとうさぎはげるりもなくこちらをじっと見つめていた。

 きたるべき死を望むように。

 矢を放つしゆんかんかすかに別の気配がした。

 はだをなであげるような、まとわりつく花のこう

「透輝っ」

 死の気配を感じてとっさにき飛ばす。考えるよりも早く、身体が動いたのだ。

 同時に、胸に焼けつくような熱さが走った。矢がさったしようげきたおれそうになるが、何とかこらえた。

 そのまま再び弓を引きしぼり、一息に矢を放つ。

 そうと決められたように矢は吸い込まれていく。ものを射るのと同じだ。やわらかい肉をつらぬいたしように小さく息をむような気配がして、真珠はようやくひざをつく。

「おいっ」

「すまないが、そのまま背を支えておいてくれないか」

 真珠のあまりにつうの態度に、勢いよくけ寄った透輝も気をがれたような顔をして、言われた通り背中を支えた。

だいじようか」

「大事ない。かくも、追う必要はないぞ」

 始末はつけた、と言外に告げると透輝はそれ以上何も言わなかった。

 背を支えられ膝をついた姿勢のまま、真珠はうさぎのいた方向を見る。

 いた。

 これほどさわいでもなお、大人しく射られるのを待っている。

「そういうふうにできている、か」

 もう一度矢を放つといつもどおりに、決められた通りに矢は柔らかい肉をんだ。うさぎは最後までひとみを閉じなかった。光を失うその瞬間まで、あのうさぎは瞳を閉じないにちがいなかった。

「さて」

 ここからが本番だ、と真珠は立ち上がる。

「悪いが、矢をいてくれないか」

「あんたなぁっ!」

「すまない。自分ではどうにも抜きづらくてしょうがない」

「そういう問題か!」

たのむ」

 いのるような声がでてしまったのは真珠とて不本意だ。こんなじようきようでなければ、この男にここまでたよる気もなかった。が、さすがにこの痛みでは自分で矢を抜くなどおそろしくてできそうもない。

「一気にやってくれ」

「……わかったから、だまれ」

 いくぞ、と小さく声をかけられたのと同時に、えんりよなく一気に引き抜かれるかんしよくがあった。そうして、ややおくれて傷口をえぐられる痛みが真珠をおそう。奥歯をみしめてはいたが、それにしても悲鳴を上げなかったのはせきといってもいい。

 傷口からは瞬間、血がとめどなく流れた。

 足に上手うまく力が入らない。が、不思議と痛みは引いている。一種の興奮状態なのであろう。痛みさえなければ、身体はある程度制御できるような気もしていた。今まで、数え切れぬほどおどってきたまいだ。身体どころか本能にみついている。

 身体の感触を確かめるように小さく飛びねてみた真珠に、透輝はぎょっとした。

「なにするつもりだ」

「いいから、だまって見ていろ」

 一歩み出す。

 そこからはもう、覚えていなかった。

 身体がいつもの動きを辿たどっているのだろう、というのはわかったが、そこにあらゆる感情が付け入るすきはなかった。喜びも悲しみもなく、ただ身体のおくに任せた。これほど頭をからっぽにして踊るのは初めてだった。

 わずか、数分の短い舞である。

 自分のいきの音で、終わったのだと真珠は我に返った。

 風に乗って粉雪がったような気もするが、ほんのまたたきの間だけであった。「受け取った」という合図なのだろう。

 うさぎは、噓のように霧散した。この世にあったこんせきをなにひとつ残さずに、光のつぶとなって消える。

 骨のずいまでしように冒されたのなら、もはやその存在そのものを天へかえすしかない。小動物であったからこの程度ですんだが、あれが人であったのならもっとてこずっただろう。

 ほっとしたひようになんのていこうもなく再び傷口から血がき出され、さすがに真珠は目を回しそうになった。幸いなことに、ただしびれるような感覚があるだけで、いまだ痛みは感じていない。

 しかし、立っていられないほどのけんたい感があった。

「しっかりしろ」

 そのまま地面に倒れ込みそうになるところを直前できとめられる。

「透輝」

 呼んだ拍子に口のはしからも血がこぼれる。

「しゃべるな」

 うなずいて体重を預ける。目を閉じるとそのままねむりのやみへ吸い込まれて行きそうだった。

ると死ぬぞ」

「冬山でもあるまいし」

「だから、無理をしてしゃべるな」

「いや、もうだいぶいい」

 血が足りなくなって一時的に立ちくらみがしただけなのだろう。しばらく休んでいたらだいぶ良くなった。

 止める透輝に大丈夫だと目配せして、立ち上がる。

「おい」

「案ずるな。みろ」

 再び真珠を抱きしめようとする透輝に、みすらかべて自分のむなもとを指した。

 透輝は視線を落として、絶句した。

 無理もない。

 肉が盛り上がり、傷がみるみるふさがっていく。

 およそにんげんわざでない。

「どうだ、化け物のごとしだろう」

 ちようしたのは、透輝からきよぜつの言葉を聞きたくなかったからだ。

 限りなく人に近い姿をしているが、自身の本質は化け物のそれだ。

 人のように有限でなく、時を止めてなにも失わないただ一人のものである。正しく人であり神などいらぬと言ってのける透輝には、どれほどおぞましく映っているのだろうか。

 人にどう思われようとも、彼らはしよせん通り過ぎるものだ。気にしたことはなかった。真珠は真珠であることをほこりに思っていた。

 それでも。

 いま、このしゆんかんだけは目の前の男にけんいだかれることがどうしようもなくこわかった。

「真珠」

 呼ばれて身体からだふるえる。

 いやだ。ききたくない。

 耳をふさごうとした手をにぎられ、そのまま引っ張られる。

 あ、と思った時には真珠は透輝の胸の中だった。

「傷がふさがったとはいえ、体力はけずられているだろ。だまって身体を預けておけ」

「気をつかわなくてもいい。私はこういうふうにできているのだ」

 同情なぞまっぴらごめんだ。

 感じる体温に泣きそうになっていると、ほうかっと𠮟しかられる。

「気を遣っているわけじゃない。俺をかばった女をそのままにしておけるほど、俺は非人間でない」

「おんな。私のことを人間とでもいう気か」

「それ以外のなににみえるというんだ」

 瞳をのぞき込まれ、真珠は言葉を失う。

 透輝が本気で言っているのがわかったからだ。

 真珠を姫宮でなく、ただの人間として見ている。最初から、この男はずっとそうであった。真珠は姫宮と呼ばれるようになってからこのかた、こんな風に言われたことは一度もなかったのである。

 このぬくもりを永遠にとどめ置くことを望まない。

 でも、今だけは。

「このままかつがれるか、背負われるか、どっちがいい」

「……おんぶ」

 童女のような甘えたこわを、透輝は笑いはしなかった。

 そうかよ、とかがむ背中に真珠はもう一度胸の中でつぶやいた。

 いまだけ。

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【書籍ver】銀狼の姫神子 天にあらがえ、ひとたびの恋 西嶋ひかり/角川ビーンズ文庫 @beans

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