3──さても人は 第二話
白い羽根が
見る者がいればそう
まるで、羽ばたく白い大きな鳥だ。
あまりに軽やかで、しかし確かな意志をもって空間を切り
飛びあがった足がようやく地に触れたとたん、真珠は世界の実感を得た。
神域で踊っている間は、意識が真珠の中にない。
神意を問うているのだ。
当然、なにも得られなかった。天狼はいまや、真珠の手に届くところにはいない。この不在は真珠の中にため込んだ神気でもって
こんなことは、初めてであった。
天狼の不在、というだけでは理由がつかない。
「私のせい、か?」
言葉にするのも
真珠自身が、天意を失いつつある
あの男に心を奪われ始めているがゆえに。
「許せぬ」
どうしてこんなことになったのかなどと考えるのはもう
自分は、どうなる。
「許せぬ、というのは私のことですか」
瞬間、真珠は
つま先が弓に触れたが、おそらくは相手が
「何者だ」
「それは
「
「拝謁を許した覚えはないが。山城惟月」
言い
確かに
真珠の
これはなかなかの役者だな、と内心で
「どこから入り込んだ」
「どこからでも。天竜の加護あれば、すべての警護はザルでございますれば」
まくって見せた
荒雲が術を行使するときに使う文様に間違いない。
「天狼の加護が得られなければ
もはや言葉を取り
「で、私がひと声でもあげれば透輝がきてお前をなます
「透輝、などと名前を呼ぶほど親しくなられたらしい、我が兄と」
「なんだと」
思ってもみないことを
「あなたはそうはなさいませんよ。なにせ、私とともに荒雲へいらっしゃるのですから」
「私が、お前と?
「では一つ、あなたの不安を言い当ててみせましょうか」
「天意を失うことを、
頰がわずかに引きつってしまったのはまったくの失態だった。舌打ちすらした真珠に、惟月は
「お
「だまれ」
「恋など、すべては
「だとしたらお前が天狼の意をえることは今後
「あなたが
「なるほど? 私を
「手籠めなどと、恐れ多い。荒雲にて、この上なく上等にもてなすつもりですよ。あなたは人などと交わるような身ではない。その才は世界のために使われるべきものだ。私のように、術を行使して人工的に力を得たものでなく、まさしく天意を有す尊い身なれば」
「お前、なにを言っている」
不岐の人間がこれほど術に
「術とは、神の力をかすめ取っているようなものです。
わけのわからない理屈を、透輝の
あげく、まとう空気が先ほどまでのどこか気弱な男とはまるで
「……お前、中身はなんだ」
「あぁ、
現れたのは、長身の
真珠は自身も
「また
「もう一度聞くぞ、お前はなんだ」
「天竜の名を預かる
異国の花のような
この香りは、彼の術の残り
気配、と言い
いつもであれば宮の中に不審な気配あればすぐに察知できるものを、今の真珠は天意を失っているも同然だ。天狼は神界へ
だからだ、と真珠はここにきて理解した。
力が弱まっているからこそ、藍は不岐へと手を
「よろしくなぞするか。それにつけてもお前のような男が現れると想定していなかった自分の
「俺にとっては三百年に一度の好機、ましてあなたのような美しい
「うすっぺらによく回る口だな。この宮は私の支配領域だ。舐めた態度で生きて帰れると思うな」
ぎりぎりと弓を引き
「短気はよろしくありませんよ、真珠嬢。それよりも一つ、昔話をしましょう」
聞く気がないと言うかわりに、真珠は矢を放った。
矢はいつも通り、真珠の意を正しく反映して飛んだ。藍の
「お前っ」
真珠の顔に初めて
それもそのはずだ。矢は、藍の喉元に届く前に力なく落ちた。急にすべての意思を
藍はこともなげに小さく
「
しかしその言葉はいかに
一種の
まだ天と地が分かたれていなかった
三獣は、神殺しの姫神子に臣従した。
それが、三国の起こりだ。
真珠が藍の言葉に
「さすが、ご存じでしたか」
「馬鹿にしているのか」
届かないとわかっていながら再び矢をつがえたのは意地ゆえだ。藍は
「続けましょうか。そのなりたちゆえ、三獣は今もただ一人に臣従する。彼らは永い年月のなかで、そのただ一人をずっと探しているのです」
「神殺しの姫神子が当代にいると言いたいような口ぶりだな」
「
「
「身に覚えがあるのでは? 歴代の姫宮を上回る力を有するのはなぜか、天狼より力を借りうけるだけでは説明のつかない神そのものの力を
真珠は我知らず息を
神に愛され、神を支配する
かつての姉の言葉がよみがえる。
「とはいえ、真珠嬢は神殺しそのものではありません。そうでなければ今のこの
「結果、なにが言いたいのだ」
「協力しませんか」
真珠は
「真珠嬢のもつ才と俺の術式構築の技能でもって、
「それがお前になんの利がある」
瘴気の対策は三国様々だ。
斑は
瘴気の完全消去が成ったところで真珠が役割から解放されるのみで、術式を発動させるだけの荒雲には大きな利はないはずだ。
「あの術式を常時発動させるのはそれなりの対価を
真珠のそんなこころを知りぬいているのだろう。藍は口の
「この世の
「荒雲に
「まさか。言った通り、これは俺の個人的なお願いです。ことここに至っては荒雲なんぞどうでもいい。俺が望むのはただ一つ、この世の果てがみたい。それに
夢を見るようなまなざしで、藍は語る。
「そもそも瘴気とはなにか。これは神代の記録にはなかったことです。初めから存在していたものではなかった。だとするとこの人を
「なるほど、
弓を引く手に力がこもる。藍は相変わらず
「真珠嬢の利はもう一つあります。俺はあなたに姫宮の位をおりてもらっちゃあ困る。あなたのような
「……
「あなたを惑わす男がいなくなれば
「まるで神のような口をきくな、人間が」
「この俺が、人間に見えますか?」
輝きの正体が
まるで、天竜が肉体の所有権を主張するように。
手から弓が音を立てて落ちた。
「お前は、なんだ」
先刻と同じ質問を投げかけるも、藍はそれについてはなにも答えなかった。
「知っていますか、真珠嬢。俺のこの目は
黒の瞳を指して、藍は
「ご存じの通り、荒雲では才のある術師こそが正義です。けれどその才とやらは努力してどうにか
真珠の赤い
彼は、かつて色なしと
荒雲の歴代の王は、いずれも
もっとも名高いのは五代目の王だろう。
彼は世にも
珍しい瞳にたがわず、彼は現在の荒雲における術式の
「術師になりたいと
張り付けた
「それはそれは、
努力は裏切らないのだ。
そう言い聞かせた日々はあっさりと
「だから、あなたには正しく世界の役に立っていただく。そうでなければ、俺が
正しく、と藍は言った。
それすなわち、現状では真珠の能力は正しく運用されていないと言っているのだ。
「神とは信心に根ざしている。人が信じるからこそ、
藍がなにを言いたいのか見当がついて、真珠は彼を大いににらみつけた。
「不岐はあまりにも信心が
「私は、それでいいと思っている。私はもはや、人でない。その私が人の営みに
数日前に、透輝たちと火を囲んだことを思い出した。
久方ぶりの温かな食事は、真珠にとってまさに非日常であった。
自らの首を
「なるほど、他ならぬあなたがその力を
高らかに、笑うように言った藍の瞳は、はっきりと憎しみで暗く輝いていた。しばし
「……残念ですが、今はここまでのようです」
「まてっ」
この天狼が支配する宮で、いともたやすく術を行使する藍は、確かに王に
「おい、どうした!」
再び
「落ちつけ、真珠。俺だ」
「……透輝?」
「そうだ、俺だ。なにがあった」
「いま、ここに」
言いかけて、真珠は口をつぐむ。
荒雲の王、藍と
あとは再び元の日常に
人は人へ、神は神へ。線は正しく引かれる。
そう望んでいたはずなのに、透輝の温かさを必要としている自分に吐き気がする。
「真珠?」
「なんでもない。それよりも私はこれから
藍がこうも簡単に
いまだ抱きすくめている透輝の胸を
「俺も行くぞ」
「私が裏切っていないか、それほど心配か」
皮肉をにじませて問うと、透輝は意外なほど
「ちがう。あんたが心配だからついていくんだ」
「……ならば好きにしろ」
どこか落ち着かない心を
左海藍を知っているか。
山へ行く道中で透輝にそう問われ、真珠は正直に答えた。
「神を
生理的
真珠のそんな言葉に透輝は驚いた。
「あちらのほうがウケはいいのだがな」
「確かに顔は
すぐに
瑠璃、あるいは琥珀が始末した兵たちの首を透輝がことごとく
が、そのあたりは小器用な男よりはよっぽど誠実さを感じる。
「あんたな」
「私は、
だから自信を持てと
「お前だったら、私を得るためにどうする?」
あてどなく歩を進める真珠は、神経を張り
「なんだ急に」
「少し気になっただけだ」
立ち止まる。
「俺なら欲しけりゃ正面から行って
「王の言葉とは思えんな」
「そうかよ。そもそも前提からして
そうだろうなぁ。
真珠は目を細める。この男は人として正しい。血肉をともなわぬものを信用していないのだ。それは人間を
そういうところが、真珠にはまぶしく同時に厭わしい。
薄く積もった雪に
「
「わかるのか?」
驚く。
真珠ですら
瘴気は、古い
長年たゆたう感情が材木にしみ込んで、そうして空気と混じり
宮のすぐ裏の森のなかで、真珠はその気配を感じていなかった。いつものように何の
「あんたが思っているのと同じ感覚かどうかはわからんが、不快なものがやってくる気はしている。もっとも、それは宮の中においてもだが」
まさかそれは藍の気配を感じている、ということなのか。
「透輝、それは」
「おい、あれはなんだ」
ほら、と示された先には黒いうさぎが
異常だった。
それを認めて、ようやく真珠は鼻先に
いつもよりも
これは、射るだけでは足りぬ。
「下がっていろ。瘴気に
狙いを定めるとうさぎは
矢を放つ
「透輝っ」
死の気配を感じてとっさに
同時に、胸に焼けつくような熱さが走った。矢が
そのまま再び弓を引き
そうと決められたように矢は吸い込まれていく。
「おいっ」
「すまないが、そのまま背を支えておいてくれないか」
真珠のあまりに
「
「大事ない。
始末はつけた、と言外に告げると透輝はそれ以上何も言わなかった。
背を支えられ膝をついた姿勢のまま、真珠はうさぎのいた方向を見る。
いた。
これほどさわいでもなお、大人しく射られるのを待っている。
「そういうふうにできている、か」
もう一度矢を放つといつもどおりに、決められた通りに矢は柔らかい肉を
「さて」
ここからが本番だ、と真珠は立ち上がる。
「悪いが、矢を
「あんたなぁっ!」
「すまない。自分ではどうにも抜きづらくてしょうがない」
「そういう問題か!」
「
「一気にやってくれ」
「……わかったから、だまれ」
いくぞ、と小さく声をかけられたのと同時に、
傷口からは瞬間、血がとめどなく流れた。
足に
身体の感触を確かめるように小さく飛び
「なにするつもりだ」
「いいから、
一歩
そこからはもう、覚えていなかった。
身体がいつもの動きを
わずか、数分の短い舞である。
自分の
風に乗って粉雪が
うさぎは、噓のように霧散した。この世にあった
骨の
ほっとした
しかし、立っていられないほどの
「しっかりしろ」
そのまま地面に倒れ込みそうになるところを直前で
「透輝」
呼んだ拍子に口の
「しゃべるな」
「
「冬山でもあるまいし」
「だから、無理をしてしゃべるな」
「いや、もうだいぶいい」
血が足りなくなって一時的に立ちくらみがしただけなのだろう。しばらく休んでいたらだいぶ良くなった。
止める透輝に大丈夫だと目配せして、立ち上がる。
「おい」
「案ずるな。みろ」
再び真珠を抱きしめようとする透輝に、
透輝は視線を落として、絶句した。
無理もない。
肉が盛り上がり、傷がみるみるふさがっていく。
およそ
「どうだ、化け物のごとしだろう」
限りなく人に近い姿をしているが、自身の本質は化け物のそれだ。
人のように有限でなく、時を止めてなにも失わない
人にどう思われようとも、彼らは
それでも。
いま、この
「真珠」
呼ばれて
いやだ。ききたくない。
耳を
あ、と思った時には真珠は透輝の胸の中だった。
「傷がふさがったとはいえ、体力は
「気を
同情なぞまっぴらごめんだ。
感じる体温に泣きそうになっていると、
「気を遣っているわけじゃない。俺を
「おんな。私のことを人間とでもいう気か」
「それ以外のなににみえるというんだ」
瞳を
透輝が本気で言っているのがわかったからだ。
真珠を姫宮でなく、ただの人間として見ている。最初から、この男はずっとそうであった。真珠は姫宮と呼ばれるようになってからこのかた、こんな風に言われたことは一度もなかったのである。
このぬくもりを永遠にとどめ置くことを望まない。
でも、今だけは。
「このまま
「……おんぶ」
童女のような甘えた
そうかよ、とかがむ背中に真珠はもう一度胸の中で
いまだけ。
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