蒸気自動車と鋼鉄の義手

「ふわあ、だりい……もう朝か……」


 さっきまで遠くで目覚まし時計が鳴っていた気がする。もう慣れっこだが茜が人形でいる間は、子供の頃に川で泳いで遊び疲れたときのように、心地よいけだるさが体の芯をじわりと包み込み、まぶたを開けるのも億劫になる。


「ぬしさーまー、あさだーぞー、起きないと食べちゃうぞー」


 耳元で声がして、お日様の匂いのする柔らかい髪が亮介の頬をくすぐった。


「あと五分……」


 月並みなセリフを吐きながら頬をくすぐる髪をよけようと腕を伸ばす。アルスターの晩夏、八洲やしまよりも肌寒い朝の空気の中で、伸ばした亮介の手は茜の小さな手に捕まった。


「あむ!」

「んん?」


 右手の人差し指を甘噛みされて、寝ぼけていた目が覚める。


「んふー」


 薄くひらいた眼に映るのは、亮介の人差し指を口の中にいれてドヤ顔の茜の金色の瞳だ。


「よっ」


 ベッドの上で覆い被さるように自分をのぞき込む狐娘を、左腕でひょいと抱き寄せた。


「ぬ、主さま?」


 胸の上に抱き寄せられ、びっくりした顔の茜が上目づかいでこちらを見つめ、ぴょこりと耳を動かす。


「おはよう」


 言いながら亮介は枕元の時計を見る。七時十五分、うん今日は余裕がある……ナイスだぞ茜。


「朝ご飯、作ったの……主さま。食べる? それとも……」


 言いながら茜が亮介の胸に人差し指で「の」の字を書き始める。


「そうだなあ」


 身体を入れ替えるように転がって、茜を組み敷くと亮介はにこりと笑った。


「え? あっ? 主さま?」


 息が掛かるほど顔を寄せた亮介に、茜が目を泳がせて慌てふためく。そんな彼女の細い腰に手を伸ばし……。


「や、ちょっと、だめ、ひゃっつちょ、ひゃめて、ゆるひて、ひゃいん!」


 これでもかという位にわき腹をくすぐってやるのだった。


     §


「リョウ、ちょっといいかい」


 遅刻することもなく無事に二日目の学校生活が終わり、帰ろうと校舎を出たところで亮介はアンシェに声をかけられた。


「ああ、いいけど。学校終わったら仕事を探したいから手短にたのむ」

「仕事? 学生なのにかい?」


 きょとん、とした顔をするアンシェに、ああそうか同じ留学生でもアンシェは金持ちだったな……と昨日の蒸気自動車を思い出して亮介は笑った。付き人とは言え、昨日の物腰を見る限り彼も育ちは良さそうだ。


「お嬢様が、君を今日の夕食に招待したいとおっしゃっておられてね、昨日のお礼だそうだ」

「礼ならアンシェからもらってるだろ、今週分の昼飯で」

「まあ、そうなんだけど……」


 困った顔をする褐色の美男子に両手をあげ、亮介は笑うと親指を立てて歯を見せた。


「おいおい、そんな顔すんなよ。うまいメシが食えるならドコにだって行くさ」


 こちとら貧乏学生だ、一国の姫様がメシを食わせてくれるというなら、腹一杯食う以外の選択肢などないに決まっている。そこでふと家に置いてきた茜のことを思い出し、亮介は立ち止まった。


「どうかしたかい?」

「ああ、相棒が家で留守番してるんだよな」


 涙を流して呼吸困難になるまでくすぐり倒したせいで、すっかりへそを曲げた茜は、その後毛布に潜ったきり出てこなかったのだから仕方ない。なけなしの財布を逆さまにして、何か食べろと枕元に置いては来たが、また遠慮しているのだろう。

 亮介をさいなむ軽い倦怠感と空腹が、彼女がまだ顕現したままなのを物語っているので、まあ大事はないと思いたい。


「昨日の精霊の乙女アプサラスかい?」

「精霊なあ、うん、まあ似たようなもんだ」

「使いをやろうか?」


 悪い考えではないが、そもそも言葉が通じないだろう。


「いったん戻ってから連れてくるかな」

「なら、車を迎えにやるよ」


 アンシェの言葉に亮介は、昨日の高級車を思い出した。濃い紫色の車体に金で縁取り模様が描かれた馬無し馬車。八洲より格段に機械文明が進んでいるとはいえ、個人であれを持っているのは相当の金持ちだ。


「いや……うん、あれな、すっげえ乗ってみたい。すっげえ乗ってみたいのは山々だけど、あんな豪華なやつで新市街に迎えに来られたら悪目立ちして困る。家に強盗に入られるってのはゾッとしない」

「新市街? そんなに酷くないだろう。僕の国のスラムじゃあるまいし」

「まて、新市街よりひどいのか? いやすまん、アンシェの国の事を悪く言う気は……」


 詫びる亮介に手をひらひらさせるとアンシェが笑う。だが、人のよさそうな彼の顔が一瞬曇ったのを亮介は見逃さなかった。


「亮介の国は平和そうでうらやましいよ」

「まあなあ、平和と貧乏ぐらいが取り柄の国だから」

「それでも……うん、それでもさ。秩序が保てる貧しさというのは、それは素晴らしいと思うよ」


 残念ながら、ヴェンガヴィルという国のことを亮介は知らない。八洲から船でアルスターへ渡るときに暇さえあれば世界地図を眺めていたものだが、途中の大陸の山あいにそんな名前の国があったような気がする。


「……俺の相棒、連れてって平気だろうか?」

「まあ、大丈夫だと思うよ。神使の猿は可愛がっておられたから」


 その話はしないようにシェリーに頼んでおかないとな、と亮介は思った。茜の奴、師匠の山を荒らす猿の事が大嫌いで、いつぞやなどは亮介の家から猟銃を持ち出そうとしたくらいだ。


「何時からだ?」

「十八時からだね、どこへ車をやればいいかな?」

「サウスウエスト通りのスタアンモア駅、パン屋の前あたりでたのむ。そうだなあ夕方は道が混むから学校まで三十分はかかるかな」

「学校から屋敷までは十分といったところだから、余裕を見て十七時に迎えをやるよ」


     §


 亮介達が準備を済ませてパン屋に着いたころ、一昨日見た蒸気自動車が子供達に囲まれていた。馬鹿でかい小山のような運転手が迷惑そうに子供達の相手をしている。


「こら、そこは触るな火傷する」


 ボイラーの排煙が吹き出す排気管に触ろうとした子供を止めると、ひょいと抱き上げて運転席を見せてやっているあたり、いかつい見た目のわりに優しいのだろう。


「すみません、タカシナです」

「ああ、よかった乗ってくれ、ガキ共が危なくっていけねえ」


 そう言いながら、腕に抱いた子供を下ろした運転手が開けたドアに亮介は茜を乗せる。


「主さますごいね、きれいだねえ、ふかふかだよ」

「こら、はしゃぐな。すみません、田舎者なもんで」


 家に戻ると、狐の姿で取り入れた洗濯物を布団に丸くなっていた茜だったが、ごちそうが食べられる上、明日の晩まで人型でいて良いと聞くなり、はしゃいて空中で三回半回。

 見事なドレス姿の淑女に化けて見せた。どこで見たのか羽根飾りのついた帽子までかぶっている。


「俺もこいつを運転できると聞いた日は、お嬢ちゃんみたいにはしゃいだもんだ」


 ビロード貼りの後部シートで、楽しそうに身体をゆする茜を見て運転手がぶっきらぼうにいう。どこまでが本気でどこまでが冗談なのか、いかつい顔からはいまいち読めなかった。


「で、運転手さん、ひとつ無理を言いたいんだけどさ……」

「?」


 右の眉をひょいとあげた大男に、亮介は満面の笑みを浮かべて言い放った。


「助手席に座ってもいい?」


 自家用の蒸気自動車を持ってる奴なんて、この先そうそうお目にかかれないだろう。機械工学院の学生たる者、座らなきゃ損というものだ。


「ああ、もちろん」


 亮介の言葉にニヤリと笑って、運転手が乗れよと親指で車を指す。


「名前を聞いても?」

「メイソン・マクギルだ。えーと」

「リョウスケ、リョウスケ・タカシナ。リョウでいい、八洲やしまの名前は覚えにくいみたいだから」


 ひょいと助手席に飛び乗ってから、亮介はメイスンに親指を立ててみせた。


「オーケイ、リョウ、とりあえず急ごう。お嬢様は時間にうるさい人だからな」

「あーあの姫さん、融通きかなさそうだもんなあ」


 運転席にメイスンが座ると、大男の重さで車がずしりと揺れる。


「リョウ、いま何て言った?」

「ん? 融通がきかなさそうだって」

「いやその前」

「姫さん? 自分で名乗ってたぜ、ヴェンガヴィルの王女だって」


 亮介の言葉に、メイスンが帽子を取ると頭を掻いてため息をついた。


「あのバカ、自覚ねえなあ……。他に誰か知ってる奴は?」

「俺とアンシェだけじゃないかな、よそでも名乗ってなきゃだけど」

「そうか……」


 そんなメイソンの様子を見ながら、亮介は後部座席の茜に目をやった。ビロード貼りのシートがよほど気に入ったのか、鼻歌まじりにふかふかのシートで足をぷらぷらさせている。


「まあ、なにがあんのかしらないけど、アンシェには借りがあるからな。誰にも言わねえよ」

「助かる」


 そう言ってメイソンはハンドルを握るってギアをつなぐ。金属同士がふれ合う音に亮介はふと彼の手元に目をやった。左の手袋とシャツの隙間から鈍色に光る鋼鉄がのぞいている。


「まあ、いろいろあるさ、みんな」


 その言葉に応えるように、メイソンが警笛を鳴らす。機関車の汽笛のミニチュア版といった音をあげ、紫色の車体がゆっくりと動き出した。

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