第7章


 半時ほど後、村の中央に立ち並ぶ民家の続く道を、直衛は橘から預かった藤吉郎の剣を右手に携え、早乙女館へと向かって歩いた。

 星明かりよりも、民家からもれ来る明かりの方が強い。

 その分足元が幾分暗くもあった。

 夕餉の時刻もとっくに過ぎたが、においたつ薪の香りは残っている。

 その集落をはずれると、道の先の視界が開ける。

 冬枯れた田園が、向こうの山の傍まで続いているのだ。

 そのすぐ手前に、早乙女館があった。

 建物は南東に向けて建てられている。

 元々は、田畑の仕事をする母親たちが、娘たちに赤ん坊や子供を預け、娘たちはその母親やそれより年長の女たちに集団で子育てや家事を習うために、建てられたものだった。

 今もそれは続けられている。

 直衛はその建物の、今は真っ暗な入口に建つと、中へ向かって声をかける。

「私です。入ります。」

そう言うと、直衛は入口の戸を開け、真っ暗な建物の中へと足を踏み入れた。

 建物の中は、入口の戸が障子戸のせいか、思ったほど暗くは感じない。

 中にもう一つ、上り口の障子戸があって、それを開けると、外に明かりが漏れぬよう、畳の上にろうそくの明かりが灯されていた。

 その明かりの先にいる主が、直衛に声をかける。

「直衛さま。」

信乃だった。

 きよらたちに借りた男ものの衣服で、髪は結い上げ、すっかり少年の旅姿になっている。

 それが意外とかわいらしいので、直衛は思わず微笑んだ。

 その直衛の顔が見えるか見えずか、信乃が、声を落として、

「楓は無事出発いたしましたか。」

と尋ねてきた。

「ええ。誰にもつかまらず、村を走り抜けていきました。忍びなれば、へまはいたしますまい。」

 信乃はほっとした顔を見せた。

 直衛は履物をぬいで上り口から畳の上にあがると、入口の戸を閉め、信乃へと近づいた。信乃の目の前にあったろうそくを横へ退けて、信乃の前に姿勢正しく座った。

 それから、持ってきた藤吉郎の剣を手前に差し出した。

「これを。」

言って、信乃の前の畳の上にその剣を置く。置いて、信乃の顔を見ると、

「『すべてさきほど説明した通りに。』との、橘の君からのご伝言です。」

その直衛の顔を見、それから剣へと視線を下げると、その剣を両手で持ち上げ、胸元に抱いた。

 もう一度顔をあげ、直衛の目をしっかと見つめると、

「これを、藤吉郎さまにお渡しするのですね。」

「ええ――それができなければ、信乃どのがご自身で使わねばならぬかもしれませぬ。」

直衛の言葉に、信乃は強い目で直衛の目を見上げた。

 直衛は続けて、

「そのようなことがないよう、お祈りいたします。」

言うと、信乃はその剣を抱いて、直衛に向かって静かに頭を下げた。

 直衛はそんな信乃を見て、やや視線を落としたが、己の懐に手を入れると、何かを取り出した。腰を浮かせて信乃に近づく。

 剣を抱いた信乃に、手を差し出させ、懐から取り出したものを、その手に握らせた。

 直衛が握らせた、それを見ると、青い羅の施された懐剣だった。

「これは――!」

瞬時、信乃はそれが、高野のまゆみのものだと思った。信乃が驚いて直衛をみつめると、直衛は信乃にうなずいた。

「高野のまゆみさまのものです。」

「直衛さま、これは」

手に握らされたそれを、慌てて直衛の手に押し返そうとした。しかし、直衛の手はそのままそれを信乃に握らせようとする。

「直衛さま。」

「あの高野の戦の折、まゆみさまが私の短剣の変わりに置いていかれたもの。刀よりも、この方がまだ使いやすいかと」

そう言われ、信乃は急いでそれを直衛の手に返そうとした。

「なりません、直衛さま」

「いいのです。」

「しかし…!」

 暗い中で、直衛の目がろうそくのわずかな光を反射して、光って見える。その光った目が、強く信乃の目をみつめながら、

「これは私にとって、命にも代えがたいもの。」

「ならばなおさら」

「ですから」そう言って直衛は、強く信乃の目をみつめたまま手渡す手に力を込めた。

「必ず、私に、お返しください。」

信乃ははっとした。直衛はそのまま続けて、

「生きて、必ずその手で、私にお返しください。」

 それは、自分が藤吉郎に言った言葉だった。

 その形見を手渡す決意と願いのほどが、手に取るようによくわかる。

 信乃は押し当てられた懐剣を手に握りしめ、こくりと頷いた。

「藤吉郎さまとともに、必ず。」

信乃がそう言うと、直衛はほっと表情を緩めた。それからすぐにまた真顔に返ると、信乃の首筋に手を当て、

「もしもの時は、剣でもってここを」言って、首筋にあてた手を斜めに動かした。「引くようにお斬りなさい。ただ剣を体に向けて突き刺しても、そう簡単には死ねませぬ。」

直衛の言葉に、信乃は強い目でうなずいた。

 それから直衛はまた、続けて己の首根元に指を立て、

「敵に上からのしかかられた時は、ここに」そう言ってまた、信乃の目を見た。「剣を両手で突き立てなさい。くれぐれも、剣は相手にとられぬように。――また、いつもこれまでにも申し上げたことですが、囲まれたとき、剣はいたずらに振りまわしてもなりませぬ。相手はそれで図に乗るばかり、逃げ切れぬと思ったならば」

「ええ――ええ、もしもの時は、教えていただいた通りに。」

そう言って、信乃は笑顔を見せた。

 すると直衛は、そこで言葉をとめた。

 信乃を静かにみつめる。

 信乃は手にした懐剣に目を落とし、しばらくその懐剣をみつめて、

「清楚で、利発なお方だったのでしょう――わたくしてっきり、羅を施した懐剣とうかがい、赤いものだとばかり思っていました。」

 そう言われて、直衛は静かにほほ笑んだ。

 ほほ笑んだまま、視線を下げる。

「あまりに幼げで、初めは私も四つも年上とは思いませんでした。かわいらしい、お方でした――ええ、確かに、清楚で利発なところも、おありだったのでしょう。」

 途端に、直衛の体から、哀しげな気配が立ち上がる。

 やはり問うてはならなかったかと、信乃が直衛の下げた目をみつめていると、直衛は一つ小さくため息をついた。

 続けて、

「私は、つまり、捨てられたのです、あの日――正確には、捨てられても仕方のない…」

そこで直衛が言葉をつまらせたので、信乃は思わず右手を立てて「直衛さま」と言って、彼が語るのを止めようとした。

 しかし直衛は上を向き、また微笑した。

「桔梗の君が、まゆみ様と知った日から、正直、私はもう心のどこかで諦めてしまっていたのです。姫様とのことが、いつか終わるものと――いつも、いつも、その終わりを恐れながら――姉君のゆきえ様の婚儀のごたごたで、まゆみ様の婚儀が遅れていただけのこと、もう本来なら、どこかへ嫁がれてもおかしくないお年で、私といえば無位無官の由良家家臣の子にしかすぎず――奪い取る勇気も、連れ去る勇気さえもなかった。――たぶんそれは、まゆみ様も気づいておいででした。いつか終わるものだと思いながら、それなのに――いえ、それゆえに想いはつもり、逢うことも止められず、ただ共に日々を過ごしておりました。そして、あの戦が――」

 皮肉にもそれは、直衛にとって、千載一遇の好機だと思った。

 高野の戦でおそらく、高野のお館は追い詰められ、そのお館は気位の高さゆえに、降伏せずに全員館で討ち死にする覚悟だろうと、直衛は踏んでいた。ならば自分は戦場の中に駆け込み、駆け入り、まゆみを獲って逃げるか、もしくは共に果てようと思ったのだ。

 死んだことになれば、誰も逃げる二人の後を追わぬ。それが適わなければ、二人共に果てればよい。決して誰も、責めは負わぬと。

 しかしそれは、藤吉郎の文ですべてが台無しになった。

「恨みました、正直、藤吉郎を。あれを、あんなに憎んだのは、後にも先にもあれが最後かと――。」

直衛はそう言った。

 そこで後方へと追いやられた直衛は、見張りの兵に用を足したいと嘘をつき、足の捕縛から自由になると、兵を蹴り倒し、縛り上げて逃げ出した。そのまま直衛は稲賀軍から離れ、山間をめぐって高野の裏手の山へとかけた。

 いつもまゆみと落ち合う、その場所へと向かったのだった。

 高野のお館から遠く離れ、戦場になる恐れもないため、直衛はその裏手から高野に入り、比較的手薄なところを狙ってお館へ侵入することを試みようと思ったのだ。

 稲賀の軍勢を探るにも、格好の場所だと思った。

 みつからぬように探って、せめてお館の中へ侵入する、――その、兵たちの動きを探りに向かおうとしたその時、山辺の道の先に、馬に乗った人影が見えた。

 馬上の主は、お館にいるはずの、まゆみだった。

 思わず目を見張り、叫びそうになった。

 馬をみつけた途端に木陰に隠れた直衛は、まゆみの姿を認めると、その木陰を抜け出し、必死と近づく馬に向かってかけた。まゆみもまた、その馬を下り、直衛に向かって駆け寄った。

 ――直衛どの!

 今もまだ、その泣きながら必死と叫び、駆け寄る姿を覚えている。

 直衛は、駆け寄るまゆみをがむしゃらに抱き寄せ、抱きとめた。腕の力の限りにその息弾む体を抱きしめた。

 ――よかった、もう、お会いできぬかと。

 まゆみはそう言った。

 なぜに抜けて来られたのかを問うと、館の下から地面をくぐり、裏手へ抜ける間道があるのだという。ばあやに一目会いたいとせがむと、その道を教えてくれたのだと、まゆみは告げた。

「逃げましょう、というと、彼女は何度もうなずきました。ええ、――何度もうなずいて、私はそれが嬉しくて――馬鹿なことに、誘われるまま、いつも二人逢瀬を重ねる、観音さまの祀られたお堂に入り込み、そこで時を過ごしてしまったのです。」

 幼げに見えたと言っても、やはり四つ年上だったのだと、後から何度も直衛は悔いた。

 かつえていた心の分だけ、夢中になってまゆきを抱き、愛し、満たされ、まどろんで目覚めた時には、横にいたはずのまゆみの姿がなかった。

 抱きとめていたはずなのに、もぬけの殻になっている。

 薄暗いお堂の中で、直衛は慌てて、姿の消えたまゆみの辺りを探った。

 しっとりと濡れた板間の上に、置き去りに去られた懐剣――その時、外に小さくいななく馬の声がきこえ、直衛は、思わず飛び起きて服をまとった。

 外に飛び出すと、堂の前の広場にある木につないでおいた馬に、今まさに乗り上がろうとするまゆみの姿が見えた。直衛は思わず叫んだ。

「桔梗どの! どこへ行かれる!」

まゆみは後ろ姿だった。

 直衛の声が聞こえるのか、否か、そのまますばやく足をかけて馬に乗る。それに遅れまいと、直衛は単(ひとえ)姿のまま裸足で走った。

「お待ちなされ、桔梗どの! なぜに!」

言いながら近寄るが、まゆみはこちらに背を向けたまま振り向こうともしない。今走り出すかと胸に不安がよぎったとき、突然まゆみが、

「近寄るでない!」

と後ろ姿のまま、直衛に命じた。

 直衛は面喰らった。

 今までにそんな言葉遣いをまゆみからされたことはなかった。

 立ち止まった直衛に、まゆみは後ろ姿のまま、

「我が名はまゆみ、亡国の姫なり。」

と告げた。

「我は、高野の父の元へと帰り、我が務めを果たさねばならぬ。」

「桔梗どの。」

「急いでお館へと戻り、」

「桔梗どの、なぜにこちらを向かれぬ。」

 直衛の言葉に、まゆみはしばし言葉を止めた。背中を向けたまま黙っているので、直衛は近寄り、話しかけた。

「共に、逃げようと先程、お約束したではありませぬか。」

 直衛がいうと、馬上のまゆみがゆっくりと振り返る。

 涙がいっぱいにあふれていた。

 それに、直衛がまた近づいて行く。

「近づくでない。」

まゆみは即座に直衛を制した。立ち止まった直衛に、

「我が名はまゆみ。」

「知っております。」

「高野の姫である。」

「それも。」

「今お館は、今にも稲賀の軍に攻め入られようとし」

「桔梗どの。」

直衛が声をかけると、まゆみはまたボロボロと大粒の涙をこぼした。

「身分が違う。」

「二人で逃げれば、もう身分など」

「高野の姫として育った私に、どこへ行こう、――どんな――苦境に耐えよと」

直衛は馬上で泣きながら話す、まゆみを見つめ続けた。

「――桔梗どの。なぜに泣かれる。」

言われてまゆみは、思わず両手で頬をぬぐった。それでもまだ、泣きながら、

「そなたの、重荷になるのは、ご免だ。」

「桔梗どの、重荷ではございませぬ。――二人で行けば、どこでなりとも」

直衛は馬上のまゆみに近づき、手を伸ばした。衣服をつかみ、まゆみを馬から下ろそうとその手をかける。

 まゆみはその手をふりほどくように、馬を少し後退させた。

「桔梗どの。」

「では、そなたならどうなのだ。」

まゆみは馬上から、直衛の顔をみつめた。

「そなたが私なら、どうなのだ。考えてもみよ。 今、自害して果てようとする父上と母上と、家臣どもを残して、私一人、なぜに生きて、そなたと逃げられよう。そなたなら、できるか、そなたなら――」


 

 そこまで話して、直衛は瞳の哀しい色を濃くし、少し微笑んだ。

「馬鹿なのです、私は。」

信乃は直衛の話をききながら、言葉を発せず眉根を寄せた。直衛は続ける。

「馬鹿なのです、私は。その時に、まゆみ様の言う通り、『考えて』しまったのです。もし私がまゆみ様なら、そのお立場なら、どうであったかと。そのお立場を悟った一瞬の躊躇が、すべてを逃してしまったのです。」

 その時のまゆみの、ひどく傷ついた顔も、直衛は忘れなかった。

 後から思うと、なぜに父上や母上のほうが、大事なのだと思ってしまったのか、ならば自分も行けぬと思うてしまったのか。

 それでも押して、自分と行こうと言えなかったのか。

 次の瞬間には、まゆみはふと自嘲気味に笑みをもらし、手綱をさばいて馬を一ついななかせていた。

 ――思えば、はじめから、かなわぬ想いであった。所詮は、夢。 幻にしかすぎぬ。――

 そう言い残し、瞬く間に馬を操って、直衛の前からかけ去って行った。

 山間の道を馬で走る、その後を、裸足で追い、かけ、見えなくなって――絶望し、一体何であったかと、呆然となってその場へ座りこんだ。

 ただただ、そこに座りこんでいた。

 獣の気配に我に帰り、急いで観音堂へと戻って他の衣服を探ると、その暗い板の間の、最初起きた時に触れた濡れた感触は、まゆみの涙であることに気がついた。そして暗闇に目を配し、あたりを探りまわると、そこには女物の懐剣が残され、代わりに、自分の短剣が失われていることに気が付いた。

 その時ようよう、直衛は、まゆみがここへ来たのは初めから、別れが目的であったのだと悟った。一か八かの賭けでお館から抜け出し、最期の別れにやってきたのだ、と。

 衣服を身にまとい、刀を差しながら取るものとりあえず急いで観音堂を出た。そして、高野のお館へと走った。しかしお館は既に稲賀軍に囲まれ、その中へ通じるという間道の入り口を、探してみたがみつからない。次第に夕暮れの色も濃くなり、あたりが夜の闇に沈むかと思ったころ、為す術もないまま目の前のお館から、火の手があがったのだった。

「すべてを理解したときには、すべてを失っていたのです。」

直衛はこう続けた。

「炎に包まれるお館を見ながら、遅れまいと残された懐剣を抜き、――しかし、目の前にみつめる高野のお館はあまりに遠く、自分は既に蚊帳の外、まして離してしまった手はもう二度と戻らず、あまりに自分がみじめで馬鹿馬鹿しく――。命をかけて去ろうとする者に、なぜあの時、そのまますべてを捨てて行こうと言えなかったのか、お家よりも、父上よりも母上よりも、自分を第一に思うてくれと、なぜ言えなかったのか。ほんの一瞬――ただほんの一瞬、それに、その後、消そうとしても消せず、誰のせいでもなく、藤吉郎を怨んでみたところで、お館を怨んでみたところで、まゆみ様を怨んだところで、そしてその運命を呪ってみたところで、結局怨みの主は、あの手をつかみきれなかった私自身。時は戻らず、あの一瞬は、もうどうにも返らない。」

「直衛さま、もう――」

信乃は直衛に手を差し出し、直衛の語るのをやめさせようとした。

 話す直衛があまりにつらそうだった。

 うつむいたまま、膝の上でこぶしを握る。

 悲哀が彼の体を押し包んでいる。

 痛みが胸をしめ、直衛が壊れてしまうのではないかと思ったのだ。

 しかし、直衛は信乃のその制止を振り切るように、やや顔をあげ、続けた。

「つまりは、二人添い遂げることを夢見ながら、高野のまゆみさまという方に対する引け目が、――そして心のどこかでいつも覚悟していた、いつか、この方を奪われるのだという、終わりの見えた想いが、あの時すべてに災いした――そうです、信乃どの。」

 言って、直衛は顔をあげ、信乃に目を向けた。

「まだ、何も、決まってもいないのに、すべてがわかったわけでもないのに、先を先をと考えて決めつけてしまう、私の悪い癖――逃げても、追われる、逃げても、捕らえられる、望んだとて適わない――でもそれは、そんなふうに、最初から諦めてしまえば、変えられるはずのものも変えられない――立ち向かえば適ったかもしれないものまで、駄目にしてしまう。」

 そこで直衛は言葉を止めた。

 暗く、火の気のない部屋で、ろうそくの明かりだけがゆらゆらと揺れている。

 その明かりの中で直衛の瞳をみつめるうちに、その瞳の色は次第に強くなった。

「お行きなさい、信乃どの。行かねばなりませぬ。そこで諦めてしまえば、もう、次はない。そして、必ず、藤吉郎と二人、この村へと戻ってきてほしい。それが私の、救いでもあるのだから。」


 

 まゆみは自分のために去ったのだと、二年の時を経て、橘に教えられた。

 長く、つまりは、自分は捨てられたのだと思っていた。

 立身出世も捨てて、生きるあてのない自分などには身を寄せられぬ。亡国の姫が――滅びようとも高野の姫であるがゆえに、その想いには従えぬと。

 しかしまゆみ自身は、それ以前から直衛が、同年代の少年の中では抜きんでた才を持ち、将来の栄達の道を約束された存在として周りから見られていたことも、人づてにきいて知っていたのだ。

 それなのに直衛は、その栄達の道についてまゆみがそれとなく話を向けると、それには興味のなさそうな顔をして話をそらす。いや、もう栄達の可能性などないのかと思えるほどに、話をしようとはしなかった。

 直衛はまゆみに「もしも」の話をよくした。

 それはまるで、夢のような話だった。

 そしてその「時」がきたら、機会さえあれば、本当にすべて捨ててまゆみと逃げようとするのではないかとさえ思われた。

 まゆみは嬉しくもあり、それは恐ろしくもあったのだ、と橘は直衛に語った。

「亡国の姫である自分が、この男の足かせになってはならぬと、身をひいたのだ。しかしただあのまま別れるだけではあまりに忍びなく、耐えられず、無理を承知で、逢えぬかもしれぬとも思いながら、館を抜け出し、そなたに会いに行ったそうだ。」

その話をきいたのは確か由良の館の、橘の居室だった。

 何かの用事で出向いて、橘が何気なく切り出し、すらすらと語り出した。懇願する死者の願いゆえ、伝言せねばならぬのでな、と付け足して。

 そして最後にこう言ったのだ。

 生きてほしいと。

 自分のためにその生を、台無しにしないでほしい、と。

 しかしそれは、きける願いではなかった。

 その願いの意味をわかっていても、直衛の心は容易に、その言葉には応じられなかった。

 あの高野の戦のあと、何度か二人が時を過ごした観音堂に通ううちに、その板の上に残された歌――みつけた時には意味がわからず、しかし確かにまゆみの筆跡だった。

 ――きみの手の わが身に重く たえずして まゆみよ引かん ほむらの空に

 指でその文字をなぞりながら、ああもしや、自分は嫌われたのかとも勘ぐった。

 この想いが、まゆみには重荷であったかと。

 やはり自分は、拒まれたのかと。

 死者の言葉に嘘はないと橘に言われたところで、 それは容易には応じられなかった。

 何がいけなかったのか。

 本当は、何がいけなかったのか。

 何度も何度も、同じ場面を思い浮かべる。

 重ねた逢瀬の、その時の言葉を繰り返す。

 何度も、何度も――。

 それで、五年が過ぎた。


 

 五年のうちに、たくさんの思いをよそに、自分のことばかりに心を囚われていたような気がする。

 そして今度のことも、なぜか直衛は、自分がこうなった一因であるかのような気がしてならなかった。

 直衛は早乙女館を後にすると、いったん自分の家へと戻り、由良の館の橘の居室へと向かった。

 外から声をかけると、橘は静かに応じた。しかし、扉を開けて中に入ると、とたんに黙り、険しい顔で直衛をみつめた。

「なんだ、その格好は。」

直衛は旅装に身を包んでいた。

 部屋の下座の中央まで歩き、そこに坐して橘に頭を深々と下げた。

 橘は続ける。

「来栖、その格好は何だときいておる。しかも、なぜにまたそのような下座へ」

「橘の君。」

言うと、橘はその言葉を切った。直衛は深々と下げた顔をあげ、続けて、

「あとのことを、よろしく頼みます。」

橘は眉根を寄せた。それから、

「よろしく頼むとな。そなた、一体どこへ行くつもりだ。」

言うと、直衛は穏やかにほほ笑んで、

「馬鹿な真似をしに。」

橘の気に、たちまち怒りが発するのを感じた。それでも続けて直衛は、

「ではこれにて」

そう言って頭を下げて立ち上がろうとするので、橘が、

「そなた、先程の、私との約束はどうする!」

「戻って果たしまする。」

「死んだらどうするのだ!」

「死にませぬ。」

「どこにそんな保証がある!」

そういうと直衛は立ち上がり、にっこりと笑って、

「私は、来栖直衛でありますれば。」

 その言葉をきいて、橘は軽いめまいを覚え、思わず頭を手で抑えた。そのうちに直衛は入口まで歩いて行く。入口で再び腰をおろし、頭を下げると、

「ではこれにて失礼いたす。」

そのまま戸を開けて出て行こうとする。

 橘は怒りに懐の扇子をつかんで投げようと手を振り上げたが、上げたところで届かないとわかって、やめた。

 そのままわなわなとふるえながら、

「あと三回ぐらい、死んでこい!」

叫んだが、直衛はそのまま戸をしめて出て行ってしまった。

 


 直衛は由良の館の入り口へと向かった。

 信乃のその思いとは違っても、藤吉郎が大事なのは、直衛も同じだった。

 由良の二人の息子は、主家の子といえ、直衛にとっては、友であり、兄弟も同じだった。

 わけでも、藤吉郎とは剣の道でしのぎを削り、本物の兄弟以上に、気心のしれた相手だった。

 なぜその帰りを、むざむざと、大人しく待っていられよう。

 直衛は由良の館を出た。

 館の前の松明のあかりを抜ける。

 やがて、星明かりばかりが目に入り、夜気を体へ感じ始めた。

 歩きながら、寒さに軽く手を握る。

 まゆみのことが、心によぎった。

 つかみ損ねたあの日の手は、もう戻るものではなかった。

 直衛どのと叫び、泣きながら駆け寄るあの、まゆみの姿は、確かに嘘ではなかった。

 がむしゃらに抱きしめ、抱きしめられ、腕がきしむほどに抱きおうて、そのまま――連れ去ってしまえばよかった。

 たくさんのものを捨てて、たくさんのものを犠牲にして、残されたものが何を思おうとも、それでも、――よかった。

 幼い恋で、よかった。

 愚かな思いだと、さげすまれてもよかった。

 すべてを失っても――。

 ただ二人手に手をとって、生きていければ、それでよかったのだ。

 なぜにそこで、まゆみは「生きるべき道」など気にやんだのか。

 頭でわかっていても、未だに得心できない。

 しかし今、ただ一つわかるのは、手を離せば、永遠に失うものが、また、あるのだということだった。

 それを恐れて、今は走る。

 あの日為せなかったことを遂げるように、今、走る。

 帰らぬ時に向かって、直衛よ、走れ――と。


 

 直衛の出て行った入口の戸を、橘はしばらくみつめていた。

 二部屋続きの向こう側で、明かりはあそこまで届かないので、 ずいぶん薄暗く感じる。

 やがて、館の中から直衛の気配がまるで感じられなくなり、橘はようやく、小さくため息をついた。

首を傾け、目を閉じる。

「『私は、来栖直衛でありますれば。』」

ぽそりとつぶやいた。

「兄者か、あやつは。」

橘は手に持っていた扇子で、軽く顎を抑えた。ぽんぽんと弄ぶようにはじく。

「ものを投げつけられるのを読んで、あそこで対面したか。」

そう独りごちて、忌々しい気持ちで、懐へ扇子を戻した。

 それから、部屋の中ほどの、誰もいない中空へと視線を向ける。その中空へ向かって、呼びかけた。

「最後まで、姿を現わされぬ気か、巫女姫小夜。」

 橘はそのまま、何もない場所へと視線を向けていたが、やがて、ゆらりと陰が差したかと思うと、大木村の巫女姫小夜が姿を現した。

 穏やかな顔で、邪気の陰りもない。

 その姿に橘は、観世音菩薩を重ねながら、小夜をみつめた。

「来栖が言いださねば、そなたの名を出すつもりであった。死者の頼みは断れぬとでも言うて。」

橘が言うと、小夜は橘に向けてそっと胸元で両手を合わせた。やはり穏やかにほほ笑んでいる。

「最後まで、信乃には姿を見せぬ気か。あれは、思い違いをしておるぞ。実はそなたが、藤吉郎を救ったのに、そなたが窮地を招いたと。このままでは」

途端に、橘の心に「いいのです。」という小夜の声が下りた。小夜は相変わらず、穏やかな顔でほほ笑んでいる。

 それから橘の心の中に、信乃には辛い思いをさせた――靭実にも――皆にも、迷惑をかけた――そういう想いが浮かんだ。

 だから、いいのだ、と。

 このままで逝くのだ、と。

 それから小夜は、胸元で手を合わせたままゆっくりと頭を下げた。

 頭をもたげると、その顔は、ほほ笑んでいる。

 既にこの世のものではない姿に橘がみとれていると、目の前の中空に浮かんだその陰は、ゆっくりと、静かに、消えて行った。

 後には、明かりのない向こう側の部屋が浮かんでいる。

 いつも信乃がいる部屋に、本日は誰もおらず、しばらく橘はその陰の消えた後を、じっとみつめていた。

 それからややあって、静かに視線を文机の方へと戻すと、その上に残った書きかけの文に目をやった。

 来栖直衛が来て、反故になったものだった。

 橘はその文机を引き寄せ、ため息とともにその机の上に頭を置く。

 兄者の元に、もう文はついたであろうか。

 橘はそんなふうに思いながら、反故になったその文をみつめた。

 文面に、「巫女姫小夜」の文字が浮かんでいる。その文字をみながら、

「せつなや…。」

独りごちた。

 それからもう一度、文机に頭をつけたまま、小夜のいた辺りを強い目でみつめた。

 ゆっくりと頭をもたげる。

 またこの後に、大仕事が待っている。

 六佐の無事を、信乃の無事を、皆の無事を、祈らねばならぬ、と。


 

 稲賀軍の本陣に従う櫛羅(くじら)の元に、蛇穴(さらぎ)から文がもたらされたのは、丑の刻を前にした真夜中だった。櫛羅つきの助佐である二佐が、櫛羅の寝所へその文をもたらすと、櫛羅は長く豊かな髪をゆらし、鎧姿でその文を開いた。

 二佐が横で控えたまま、その文を読み進める。

「由良の息子藤吉郎が、砦山の頂において、巫女姫一族の娘・信乃の身とひきかえを条件として小坂靭実にとらえられている。その由良藤吉郎救出のために」

その部分を口にして、また櫛羅は黙って読み進めた。

 すべて読み終わると、櫛羅はしばらく目を閉じ、考えるようなそぶりを見せ、また目を開いた。それから、顔にかかった豊かな長い黒髪をかきあげ、二佐へと目を向ける。

「三佐や六佐、僧兵たちがその救出へと向かうそうだ。大木村に出入りしていた忍びもな。それで、蛇穴様は、そなたにも協力願いたいといっておられる。どうする、二佐。行くかや。」

二佐はそこに控えたまま、何も答えなかった。もとより、この男は言語を発することができない。

 沈黙したまま、しばらく考える様子だった。

 櫛羅は星の瞬く空を見上げながら、東に位置する砦山の方へと目を向けた。

 星空の下、黒くたたずむその山々をみつめながら、

「私情ではないか。」

そう言って、鼻で笑った。

「橘の、私情ではないか。あやつが私事で動くなどと、槍でも降るのではないのかえ。」

そしてまた、快さそうにフフフと声を立てて笑った。

 その笑いをとめ、息を静かに吐くと、

「蛇穴さまも相変わらず、橘には甘い。」

言って、二佐にふと目を向けた。

「どうする二佐、行くかえ。三佐らと共に三十人余りの兵と戦って、頂にいる小坂から、由良の息子を奪えばいいそうだ。そなたらが束になれば、たいした労力ではあるまい。――そこに、巫女姫小夜の妹、信乃もやってくるという。」

言いながら、櫛羅は東の方角の空を見上げた。

「めったとないものが見られるだろう。巫女姫一族、最後の飛翔だ。」

 語る櫛羅の目に、ただの一度も会ったこともない、一族の娘信乃の姿が映る。

 怖いもの知らずの最後の末裔よと、また快さそうに笑った。


 

 もう何時経ったろうかと、藤吉郎は星空を見上げた。

 いつも基準とする北の空が藤吉郎の位置からはまるで見えない。

 それでも、夜は相当に深まっていることは、その気配からわかった。

 目の前の靭実は、沈黙したまま時々、うたた寝をしている。その間兵が何度か交替したが、抜け出せる隙はなかった。

 靭実がふと眼を開けた。

 明け方まではあと何時ほどかと尋ねると、見張りの兵が空を見上げながら、あと二時もありますまいと答えた。

 あと二時もない――と。

 藤吉郎はやや焦りを覚えながら、靭実の横顔をみつめた。

 信乃は来ないと言っているのに、なぜ待つのだろう。

 小夜も来ない、信乃は、来る手段がない、それがわかっているはずなのに、この男はなぜ待つのだろう。

 藤吉郎にはわからなかった。

 藤吉郎の視線に気づいたのか、靭実が藤吉郎の方へと顔を向ける。

 何か言わねばと思い、唾を飲み込んだ。

「巫女姫小夜どのは――」言うと、靭実は藤吉郎の言葉に集中するようなそぶりを見せた。

 藤吉郎は続ける。

「お前に斬られたのは、大木村から巫女姫という職をなくすためだったそうだ。自らその歴史に幕をひくために、神殿を自らの血で汚した。」

藤吉郎がそう言うと、靭実は鼻でふっと笑い、

「今更何だ。」

「お前と出会って、そうしなければならないと、思ったそうだ。」

言われて、靭実はしばらく藤吉郎を見ていたが、炎の方へと視線を戻した。

「だから何だ。つまりは、俺と行くより、死を選んだということだ。」

言って、また藤吉郎へと視線を向けた。

「巫女姫として全うすることを選んだということではないか。何が一番大事なのか――つまりは、そういうことだ。」

靭実の言葉に、藤吉郎は目を見開いて彼を見た。

「俺ではなかったのだ。」

「お前であってほしかったのか。」

藤吉郎がそう問うと、靭実はしばらく黙って藤吉郎をみつめたが、ややあって、「そうだ。」と答えた。それから、

「俺は、小夜と、生きて、添い遂げたかったのだ。」

言った後、戸惑うように視線を下げ、瞳をうろうろとさせた。 

「しかし、稲賀への仇も打たねばならなかった。お館さまの元で、這いあがらねばならなかった。結果として――小夜をとらえにいかねばならなかった。」

それから、自嘲気味に笑うと、

「そうだ、俺は、したいことと、するべきことが違うのだ。生きて共にと願いながら、小夜を追い込み斬らなければならなくなった。――それでもだ。」

靭実は藤吉郎に視線を向けた。

「あの時、すべてを捨てて、俺の元へと来てほしいと思ったのは、いけないことか。罪人の妻でしかなかったかもしれない、高階にあっては、人身御供でしかなかったかもしれない。しかしそれは、始めのうちだけだと、なぜに思えない。今のこの身を、捨ててくれと願われれば、捨てても構わなかった。五年前のあの時も、こたびのことも、なぜに俺ではなく、大木村で、『巫女姫』なのだ。――なぜにそのように、命を捨てる道を選ぶ。」

藤吉郎は答えかねて、靭実をみつめた。

 それは、捨てられないものが、靭実にもあるからではないのか。

 捨てても構わない――その言葉をきいて、なぜか藤吉郎は靱実が本気とも思えなかった。

 靱実の言葉は、どこか矛盾している。

 言葉にはしなかった。

 藤吉郎の言葉を待たず、靭実は続ける。

「来ないさ。信乃も。」

信乃という言葉に藤吉郎ははっとした。

「あいつらは、己の一族が、一番大事なのだ。生き残ったものをむざむざ、男一人のためにこの戦場へ、かけて来るものか。」

 靭実の言葉に、チリリと、藤吉郎の胸が痛んだ。

 しかしすぐに、それがわかっているなら俺を殺して早くこの場から撤退しろと、藤吉郎は思う。

 信乃が来ずとも、誰が来るやもしれぬ。

 早く、殺せ――と。

 しかし、靭実は空を仰いで南西の方角を見るばかりで、一向に腰を上げる気配はない。

 その見上げる夜空を藤吉郎もみつめながら、またチリリと胸が痛む。

 想うて想われぬとは、こういうことか、と。

 想うほどには、想われぬとは――。


 

 早乙女館の暗闇の中で、信乃は直衛に渡された藤吉郎の剣を抱き、時が来るのを静かに待った。

 由良の館を出る前に、橘は封印を解く時の〃合図〃の話をした。

 そのとき橘は、藤吉郎の剣を床につきたて、両手で握り、鞘に額を当てて目を閉じ集中した。しばらくしてそのままの姿勢で右手を信乃の方へと差し出し、信乃の手をとった。

 とたんに、信乃の脳裏に一つの場面が浮かび上がる。

 砦山の頂らしかった。

 広場の中央に火を焚き、藤吉郎の姿が見える。

 その前には、靱実の姿があった。

 橘は尋ねる。

「見えるかや。」

信乃はこくりとうなずき、「はい。」と答えた。

「これが今の砦山の様子だ。藤吉郎は、木に縛り付けられて動けない。」

信乃はまた「はい。」と言った。

「この位置が変わらぬのであれば。」

言って橘は目を開いた。

「着地はたき火の火の上をねらい、炎を消し去る。」

信乃は語る橘の顔をしっかとみつめた。

「薄明である故、それで瞬時相手の目はくらませよう。その隙をねらって、藤吉郎の縄を解け。その頃には六佐らも到着していようほどに、助け手はあろう。」

そう言いながら、藤吉郎の剣から額を離して、橘は姿勢を正した。藤吉郎の剣を床につきたてたまま、両手で持つ。

「後でこの剣を来栖に持たせる。そのとき来栖に、戦場での心得もきくがよい。」

そう言ってから、橘は刀剣を脇においた。続けて、

「封印を解く時についてである。」

姿勢を改めてそう言った。

 また、信乃がうなずく。

「夜明けの半時前を目安に、気封じの玉の封印を解く。その時、この刀に集中しておれば自ずと、砦山の藤吉郎の姿が心に映じよう。」

 ――半時前を目安に――。

 橘はその後、笑顔で、眠るなよ、と、付け足した。今度は飛んでいる途中に、気を失うな、とも。

 封印を解いて空になった玉は、戦場においては何が入り込まないとも限らないので、橘が預かるのだといった。

 時間の許す限り、蓮女一門の者に連絡をつけて、信乃が無事にたどりつけるようにと祈りを捧げる、それに心寄せよ、と。

 神よ、仏よ、お助け下され、と。

 そこまで話して橘は、何かを付け加えようと口を開いたが、そのまま何も言わず、その口を閉じた。

 直感的に、おそらく姉小夜のことだろうとは思ったが、信乃もまた、それ以上のことは尋ねなかった。

 そして信乃は、皆が六佐や楓のことに気をとられている隙に、この館へと移動した。村の中の施設の鍵は、全て来栖の家で管理している。その一つに秘密で入ることは、直衛がいれば造作もないことだった。

 信乃は早乙女館の闇の中で、時を待ち続けた。

 直衛がこの館から去る前に、一つ信乃に尋ねたことがある。

 ――藤吉郎の、どこがよかったのか、と。

 言ったあと、すぐに直衛は、「いや」と言葉をおき、照れくさそうに、

「幼い頃からあやつを見ていて、まだまだ子供だと――同年の者どもよりどこか、そういうことには縁のないようなところがあると思っていたので、信乃どのとのことは、本当に、意外で。」

語り始めた時は照れくさそうだった直衛も、話すうちにいつの間にか真顔になっていた。

 その直衛の問いに信乃は思わず笑みをこぼした。

「それは、私にも、よくわかりませぬ。」

直衛は静かに信乃の顔をみつめた。

 信乃は続ける。

「知らず知らずのうちに、引き寄せられたとしか…ただ、そう、どこがと仰せられましたな。」

信乃はその問いに答えようと、記憶の糸をたどった。それから言葉を探して、

「純粋で、真っすぐで、」

そういうと、直衛は強くうなずいた。

「こちらが驚くほどに人がよくて、ええ――」

そこで信乃はまっすぐと直衛をみつめ、笑顔になった。

「私もこの人のようでありたいと、思いました。人のためを思い、人のために動き、そんな人でありたいと。わたくし何度、藤吉郎さまと一緒にいて、密かに感動したかしれませぬ。あの方は、健康なのです。暗く、秘密を守って生きてきた、我らの一族とは、違う。とても――健康なのです。それを知ることができただけでも、あの村を出て、藤吉郎さまに巡り会えただけでも、あの村から出して下さった姉さまに、感謝したいくらい――。」

 姉さまに感謝したい――それは、本心だった。

 今度のことが、姉の形見が招いたことであったとしても、あの社を壊して、この世界を開いたのは、姉に他ならないのだ。

 信乃は薄暗い部屋で一人、剣を抱きしめた。

 待って悔いるなら、行けばよい。

 悔いて生きるなら、命をかければよい。

 この、人も生も定まらぬ乱世で、 一つ寄る辺をみつけたなら、 孤独に甘んじず、――走れ。

 踏み止まれば、見失う。

 次は、ないのだ。

 いや、次がないと思うて走らねば、永遠に見失ってしまう。

 だから、行くのだ。

 すべてを失ってもいい、――行くのだ。

 

 姉さま、ごめんなさい。

 信乃は死ぬかもしれませぬ――血は、絶えるかもしれませぬ。

 母さま、父さま、――一族の皆様、ごめんなさい。

 帝の御ために、一族のために、村のために使ってきた力を、私は藤吉郎さまのために使います。

 信乃のわがままを、お許しください。

 私は、つまり、あの人とのわずかな甘いときに酔って、あの手を求めて、そのためだけに行くのかもしれませぬ。

 馬鹿な娘です。

 ごめんなさい――ごめんなさい。


 

 信乃は夜明けを待った。

 やがて、藤吉郎の剣を伝って、砦山の頂が、脳裏に浮かび上がる。

 それは、靭実を前にした、藤吉郎からの視点だった。

 腕は長い時間拘束され、感覚を失いかけているらしい。

 まずはそれを、元に戻さねばならない。

 あの頂へ飛んで行き、あの目の前にある、炎を消そう。

 周りの兵も靭実も、もろともに吹き飛ばし、藤吉郎の拘束を、解くのだ。

 気を、失ってはならぬ。

 決して――。

 

 信乃は立ち上がり、剣を背に結わい付けた。

 しっかりと履物を履いて、表に出る。

 夜はまだ明けぬ。

 星もまだ、夜空に輝いている。

 その星明かりで、村を取り囲む山の端も、黒く浮き上がっていた。

 夜は、間もなく明けるだろう。

 その明け方の静寂の中で、蓮女一門の祈りが、ささげられる。

 六佐たちは今、どこを行くだろうか。

 佐助や楓は、どうしたろう。

 頂目指して、密かに敵を倒しながら、駆け上がるのだろうか。

 どうか、行き着くまで無事に。

 皆が無事であるように――。

 信乃は歩みを進めた。

 稲が刈り取られ、冬枯れた田園の、中ほどまで歩いていく。

 気の流れを探りながら、立ち止まった。

 北に向かって開けたこの地の、その先の空をみつめる。

 心が、意識が、どこまでも、どこへでも届きそうだった。

 故郷大木村は今は遠く、その姿さえも、思い出の中へと沈んでいく。

 空が高い。

 世界は、大きいのだ。

 信乃は心を静め、空が白み始めるのを待った。

 両手を合わせ、祈るように集中する。

 北東の空めがけて、走るのだ。

 風よ、ふけ。

 あの日、この地へ私を運んだように。

 ハヤテよ、来たれ。

 あの幸福へと、翔けていこう。

 風よ、ふけ。

 風よ――。

 

 

 

 

 


 完   




(2009年09月~2010年06月05日 ホームページ上で連載)

 

・第1部 執筆 1991年秋

・第2部 執筆・ホームページ連載 2008年01月23日~2008年10月15日 

・第3部、4部 執筆・ホームページ連載 2009年1月1日~2010年6月5日


原稿用紙換算枚数

・第1部 368枚  

・第2部 287枚  

・第3部、4部 714枚   


総枚数 1369枚

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巫女姫物語・第四部(最終部) 咲花圭良 @sakihanakiyora

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