第4話 一ノ宮まで
遠くに瀧の音がする。目を開けると
「姉ちゃは?」
「山向こうへ出かけたよ」
「母ちゃは?」
「ずっと眠ってる」
「なんで瀧へ行くの?ふたりだけで行っちゃいけないって言われてたのに」
伊吉は答えなかった。
「姉ちゃに怒られちゃうよ?」
「いいじゃないか、おれと行こう」
口調が普段の伊吉と違う。あれっと見上げると、伊吉と思って握っていたその手の先には、豊相の精悍な貌があった。
「狭依はおれがきらいか?」
「そんな…まさか」
狭依が目を逸らすとその先に瀧が轟々と白い水を落とすのが見える。だが周りを見る余裕も与えず豊相の手が狭依の顔をぐいっと自分へと向けた。間近に迫る豊相の顔。これは夢だと思ったとき、瀧の音がいっそう大きくなった。
「狭依、起きな」
気がつけばふみが狭依の肩を揺すっている。そこで狭依は昼のうたた寝から目覚めた。庭では短い生を惜しむように、蝉が盛んに声を上げている。
「さ、出かけよう。城下を案内してあげる」
ふみのうしろに立つ多佳が明るく声をかけた。
まだ夢の余韻を残したまま歩きだした狭依の手にはまだ豊相の感触が、耳には瀧の水音が残っている。
水は庄内にも豊かだった。四方を山に囲まれた庄内の盆地には、山々から幾条もの河が流れ落ち田畠を潤している。その流れを集めた大淀河は谷を越えて日向灘へと注ぐ大河となり、河沿いに開けた舟運が動脈となって盆地を貫く。盆地を流れる大小の河はこの地の人びとにとって恵みの神であった。一方では夏から秋にかけて、野分や大雨に見舞われてはしばしば氾濫する暴れ者の神でもある。
神といえば四方の山のなかでもひときわ高々と聳える霧島の峰々こそは、古来この地の人びとの尊崇する神であった。闇夜を裂いて火を噴く山々の威容、気紛れに噴石や灰を降らす災厄と並んで、山の幸、豊かな木材、そして至るところに湧く温泉の恵みがこの地に住まう人びとの生活を豊かに彩っていた。温泉は西ノ丸にも引かれ、昨夜ふみたちはその湯に浸かって旅の垢を落としたのだった。
「お城のなかで温泉に浸かれるとは思わなかったよ。ね、狭依」
城下を多佳に
彌五郎は彌生の末の弟で、今春城に上がって城主一家の世話係を始めたばかりだった。まだ躯の出来上がっていない彌五郎は護衛というには心許ないが、そもそも盆地を統一し了えていまは日向平野へと勢力を伸ばそうという勢いの時久のお膝下で多佳を襲う者などそうそうあらわれるとも思えない。自然、多佳のお供は飾りものにも斉しい少年が務めていた。
「山のなかの温泉とはずいぶん違ってたね」
先ほど豊相に対したときとは別人のように狭依は、打ち解けた明るい声で言った。
「色も匂いも薄くって、ああ町ってこんなところも垢抜けてるんだって思っちゃった」
「山の温泉って、どこのこと?」
「あたしたちの生まれ育ったところ。ずっとずっと向こうにあるの」霧島の峰々を指さして狭依が言う。「あの山のまだ向こう。あたしたち、人のほとんど来ない山の奥にいたのよ、ふた月前まで」
「
「違う、もっと先」
地名を問われてもぴんとこない狭依に代わってふみが答えた。
「そう。真幸院なら妾むかし住んでたことがあるのよ。でもその先までは行ったことないわねえ」
庄内より見て霧島の裏側に開けた真幸院は日向と肥後の境に接し、南へ下れば薩摩へ至る。庄内盆地と並ぶ要衝の高地は長く北原氏が治めていたが、近年没落したあとは嶋津一門と日向の伊東氏とが争う前線となっていた。その真幸院より先にも山地は肥後まで続いているが、山向こう肥ノ国側となるともはや一門の勢力圏外であり、多佳も話に聞くだけで行くことは叶わない。
「どんなとこなの?」
「近くに瀧があって、谷が深くってね。鹿や猪は現れるけど、人はなかなか来ないの。渓底に流れる河を伝って、ときどき炭や木材を求める人が来るだけで」
狭依は人と接することのなかった山暮らしを、それでも懐かしそうに話した。
「たまに姉ちゃが里に連れてってくれるのが楽しみだったな。いろんなひとがいるんだもの。でもあんまり連れてってくれないの」
「あの里には悪い奴らがいっぱいいたんだよ」狭依を慰めるようにふみが言う。
「どうしてそこを出てきたの?」
「この子たちの母親が死んじゃったのさ」狭依に代わってふみが答えた。「それで、この子たちが安住できる地を捜してここまで流れてきたんだ」
「安住の地ねえ……この町はどう? 気に入った?」振り返って訊ねる多佳に狭依が頷く。
「じゃあここに住んでみたら? 強い殿様の城下に住むのが安心だしね」
「でも」狭依は返事するのを躊躇い、ふみを見た。
「しばらくここに居つこうかな。それで本当にこの町が住みよかったら、ずっとここに住むのもいいかもね」
前を向いたまま言うふみに、狭依は目を輝かせた。
「ほんとに? 本当にここに住むの?」
小袖を振って軽やかにふみの周りで足を跳ねさせる。狭依の動きにつれて、夏の田に張った水に若草色の小袖が映り、稲のあいだを跳ねた。稲穂も水も斉しく夏の陽の恵みを受け、膨らみだした実りはふた月後の収穫の豊かなことを予感させる。
「まだ決まったわけじゃないよ。そうなったらいいねってだけ」
「なあんだ」
向日葵が花開くように明るく咲った狭依にふみが釘を刺しても、狭依の顔からはうれしそうな咲みがいつまでも消えない。両手を蝶の羽のように振りながら、浮いた足どりで先頭を歩いてはときどき振り返って「早く早く」と追いつくよう急かした。
前方を蝶か金魚のようにふわふわと小径を游ぐ狭依を見守るふみの姿に、「そんな目をしてると、本当にあの子のお姉ちゃんみたいだわ」面白そうに多佳が言う。「背はこんなに小っちゃいのにね」
城から一ノ宮までは、小半時の散歩だった。途中人出で賑わう市庭を通り過ぎ、河を二度越えた先に朱く塗り替えたばかりの大鳥居へ至る。大鳥居から社殿へと続く境内は齢古った檜が参道の両側に枝を伸ばして、盛夏の午にも神域を涼しくしている。樹上から洩れ聞こえる郭公の啼き声に伊吉が耳を澄ませた。
「あの山にも郭公がいたな」
「猿やら鹿もね。昼でも暗い山のなかで、獣の声ばかりぎゃあぎゃあ聞こえてくるのよ。煩かったよねえ」陽気に答えて狭依は、小走りに先頭を進んだ。
一ノ宮の境内には櫓が組み上げられ、祭りの準備が進んでいた。夏のあいだに城下の各村で行われる六月燈の、最も大きな祭りがここ一ノ宮で明日執り行われることになっている。
「狭依の故郷でもお祭りがあったの?」ふと訊く多佳に、
「あったよ。一度姉ちゃに連れてってもらったよね」
「おれも憶えてるぞ、凄い火が燃されていたな」
「碌な祭りじゃなかったよ、まったく」ふみが吐き捨てるように言う。「でも、この子たちには縁ある祭りだから、一度は見せてあげようと思ってね」
「ふみが連れてったって云うの?」それではやはり童女のふみが、この長身の伊吉の親か姉のようではないか。
ふみを姉と呼ぶ伊吉だが、今しも境内の敷石に躓いたふみの手をとって支えるのを見るにつけても、それは妹思いの兄の姿としか思えない。だが躯は魁偉でも表情にどこか少年の幼さを残す伊吉は、言うことはまだ子供じみていた。
「祭りに行きたいなあ。行っちゃだめかなあ、姉ちゃ?」祭りの準備の様子に胸を躍らせ伊吉が許しを求めるのに狭依も同調して、甘え声をふみに向けた。「あたしも行きたいな。ねえ、行かせて姉ちゃ」
「やれやれ、お前たち元気だねえ。いいよ、行っといで、日が暮れるまでならね」
「あら、ふみは行かないの? それに陽が落ちてからの方が面白いのよ、そこらじゅう燈明に火を燈してるの。妾が連れてってあげるから、夜にかかっても大丈夫よ」
「姉ちゃも一緒に行こうよ、ああ、わくわくする!」
多佳の言葉に目を輝かせて、狭依がふみの小さな肩を揺すぶった。揺すぶられるにまかせてふみは、駄々っ子を見る目で狭依を見上げて言う。
「姉ちゃが夜は弱いって知ってるだろうに。仕方のない子たちだね」
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