第1.5話 市庭で童女が侍と諍う(2)

 場が収まったと見て、童を押さえていた手を狭依が緩めたのがまちがいで、前に出ようとしていた勢いのままに童が侍たちのうしろ姿へ向かって転んでしまったのだ。狭依たちが謝ってしまった以上、折角ふたりが収めたものをひっくり返してまで侍たちと諍う気はもう童にはなかった。ところが間の悪いことに倒れこんだ童は侍のただ中へと転がり、選りに選って短気の虎の足首に頭から激しくぶつかった。


「痛っ!」

 思わず声を上げた侍に、自身も目の上に青痣を作ってしまった童は、意外なほど素直に謝った。

「ごめんよ、いまのは悪気はないんだ」

 一方、虎の方はつい声を上げてしまった不覚に、頭に血が上るのを止められなかった。

「こいつ、そんなに斬られたいか!」そう言いながらも刀は抜かず、代わりに平手で童の頭をなぐる。

 詫びは済ませたものと、うつむいて自身の躯の傷を確かめていた童は歴然とした体格差に二三歩よろめいて、ふたたび頭を地にぶつけた。


「痛たた」

 言いながら起き上がる童の額を血が流れるのが見えた。あざやかな真紅の滴りに多佳があっと思ったときには、伊吉が飛び出して侍をしたたかに打ち据えていた。童の出血に狼狽えたか侍は、伊吉に押し倒されるがまま碌な抵抗もしなかった。

「止しな! いいんだよ伊吉」と童がめるのも耳に入らぬように、一声も発せず馬乗りになって侍の顔を殴る伊吉の手を、青の直垂の若侍が太刀の鞘で押さえた。

 黒塗りの鞘が右拳を押さえつけるのを伊吉は不思議そうに見下ろした。野生の獣がまるで自分を罠にかけた仕掛けを見るかのように、邪魔な鞘をにらむとけようとするが、鞘は動かない。

 ふと鞘を握る若侍に気づいてその顔を見上げた。目が合うと、ぶつかった視線を互いに逸らさずにらみ合う。


「止まりなさいとよ! 刀を抜くんじゃないよ」

 凛とした声を場に徹らせ若侍の次の動きを制したのは、多佳だった。多佳の声に、騒いでいた野次馬たちは言葉を呑み込んで若侍と多佳とを交互に見る。豊と呼ばれた若侍は振り返って多佳の姿を見ると、慌てて鞘を退け姿勢を正した。

「今のはお前たちが悪いわよ、この子謝ってるじゃないの」

 多佳は若侍の前まで歩いてくると、裾をからげてその脛を勢いよく蹴った。若侍は痛みを顔には出さず、代わりにため息を吐いて言う。

「…姉上」


 豊はひざまずき、多佳の裾を直してつづけた。「往来では控えてください。また父上に叱られますよ」

「怒らせとけばいいのよ、あの石頭」肩をすくめると、額の傷口を押さえて座りこんだままの童に手を差し出した。「うちの子たちがご免なさいね。さあ立って。うちで手当てさせてちょうだいよ」

 差し出された手に自然と自身の手を乗せて、童は多佳を見上げた。

「ありがと。あんたこの侍のお姉ちゃん? 言われてみれば似てるわ」

 多佳の手に倚って立ち上がると、豊と呼ばれた若侍と多佳とを見くらべた。細面ほそおもての貌のなかに目鼻が大きく配置されたふたりは男女の別はあっても似た姿の美男美女と云え、ひと目で気が強いと知れるあたりも共通していた。ただ、似ていると言われたとき豊の方は心外そうな顔をしたのだが。


「助かったよ、伊吉が大怪我しないでよかった」

 そう言ってうしろを振り返るとちょうど、組み敷いていた短気の侍を放して童の許へ走り寄っていた伊吉と目が合う。

「姉ちゃ、血が」

「なんでもないよ、こんなの。それよりお前、手を怪我したろう? 痛いんじゃないかい?」額に伸ばしかけた伊吉の掌を手前で制すと、その手をとって血の滲んだ手甲を両手で包む。「まったく無茶するんだから」

「それは、姉ちゃが」

「はいはい、ありがとうよ、姉ちゃを守ってくれて。ほんとはうれしいのさ、でもあんまり無茶するんじゃないよ」

 自分の無茶は棚に上げて伊吉を責め、その右掌の傷に目を落とした。


「さあうちにおいで、傷を放って悪くしちゃいけないわ」多佳は童の手をとって城へ足を向けると、豊とその連れに声をかける。

「お前たちも、祭りだからって浮かれていつまでもほっつき歩いてんじゃないわよ。あんまり豊に悪い遊びを教えないでちょうだい」


 見物人どもを背に、童の手を引いて歩きだす多佳を侍女が追い、伊吉と狭依とがつづく後ろを小姓がつき従って、一行は多佳の両親が住まう城へと向かった。梅雨明けの太陽に鎮守の杜の緑が眩しい午下がり、遠く城の向こうには七日ぶりの噴煙が黒く風に流されてくるのが見える。

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