第3話 城の住人たち(2)

 翌る朝、まだ陽差しが強くならないうち庭に出た多佳は池の脇にふみと狭依を見つけた。昨日の様子が嘘だったようにふたりは装いをあらため、狭依の着る若草色に藤の花を散らした小袖と、ふみの朱と茶の格子縞の小袖が二つ並んで池の水にあでやかに映えている。

「ふたりとも見違えたわ、似合うじゃない。そうしてるとどこかの姫君みたいよ」声をかける多佳にふみが、

「姫君はあんたじゃないの。おどろいたよ、彌生から聞いたときは。あたし姫様ってお城の奥から出て来ないもんだと思ってたわ」

「でもあたし多佳ちゃんみたいなお姫様の方が好きよ――あ! 昨日のお侍さんって、じゃあ若殿様になるの⁉」急に顔を朱くして狭依が両手を頬に当てる。

「いま頃思い当たったのかい? 狭依はかわいいねえ」頭で狭依の胸をこづいてふみがからかうと、狭依は薔薇色の頬を両手で覆ったまま首を左右に振った。「……どうしよう。そんな雲の上のひとだったなんて」

「どうしようもなにもあるもんか。あいつらがいじめるんならおれが守ってやる。守れなさそうならほかの町に逃げるさ」三人の頭上、くすの枝から伊吉が声をかけた。

伊吉ひとりは昨日と同じまま穴のあいた衣を着て、樟の巨木から伸びた枝にまたがり好奇心の赴くまま城内の様子を眺めている。

「そんな心配してるんじゃないんだよ、ねえ狭依」

「なにあんなのがいいの、狭依?」物好きな、とでも言いたげな目で見る多佳の視線に狭依はますます顔を朱くしうつむいて、ふみの肩を小さく押した。

「姉ちゃのばか!」


 いま多佳たちがいるのは西ノ丸、堅固な平山城の奥の院とも云うべきその一画は城主一家の居館に宛てられていた。その城域は最奥の一族累代を祀った祠に始まり、神域との境に柊を備えた手前には低木の果樹が植わって段々に下り、下った先東側には城主の母屋と従者たちの長屋を配して、西側は畠を兼ねた庭園となって大淀河から水を引いた池に接する。

 本丸とは空堀を挟んで相対し、両つの城を結ぶ橋には櫓が設けられて戦となればここから放たれる矢弾が城主と一族とを守る結構となっている。尤も丘の上に並び立つふたつの城域は周囲を二ノ丸、三ノ丸と幾つかの出城に護られ、百年つづく戦乱の世にも一度として敵の侵入を許していなかった。


 樟の樹上の伊吉からはその橋の向こうに本丸と二ノ丸が見渡せ、さらにその先には南国の陽に生命を充溢させる田畠の緑が一面に広がる。折しも豊相が本丸から西ノ丸へと結ぶ橋を渡るのが伊吉の目に映ったのは、頬を朱くした狭依がふみをなじったときだった。


 櫓門をくぐった豊相は池の端に多佳の姿を認めると、あわてて茶ノ木の陰に姿を隠そうとしたが叶わなかった。茶ノ木はひと月ほど前に葉を摘んだのがふたたび芽を気儘に伸ばして二度目の茶摘みどきを迎えようとしていたが、娘たちが楽に摘めるよう低く手入れされた一群の茶ノ木は咄嗟に腰をかがめた豊相の身を隠すには丈が足りない。近々摘まれることも知らずに夏の陽を思うまま浴びる若葉が淡く緑に映えるなかに青の直垂がこそこそと動くのを見て、多佳が鋭く呼び止めた。

「豊! わたしから逃げようとしたね! こっちに来なさい!」有無を言わせぬ姉の声に豊相が渋々池の方へ顔を向けると、多佳の隣にいるのが侍女や小姓ではなく昨日の童女たちであることに気づいた。一緒にいた少年はどこかと見まわしたとき、樟の木から伊吉が飛び降りるのが目に入る。

 何かあればふたりを守ろうと伊吉が身構えるのを横からふみが、

「止めな伊吉、話をややこしくするんじゃないよ」

 そのふみの背に狭依がこそこそと隠れるが、狭依の方が背が高いので朱くなった顔を隠すことはできない。豊相が近づいてくるほどにますます身を縮めてふみの肩にしがみつく。



 気の進まぬ顔でやって来た豊相を、多佳は目の前に立たせた。

「なにか疚しいことがあるのね、豊。ゆうべは城に帰らなかったでしょう? お前も齢頃の男だから煩いことは言わないけど、城の跡取りとしてみっともない醜態は晒すんじゃないわよ」

「姉上こそ、おれを跡取りと思うなら領民の前で叱るのはやめてくださいよ」ふみたちには目もくれず豊相は言い返した。

「あたしたちなら心配いらないよ、領民じゃないから」

 会話に割って入ったふみを豊相は邪魔そうに見たが、その目つきをふみは気にもせず明るく続けた。

「ああ昨日はごめんね、つい頭に血が上っちゃってさ。もう皆の前であんなこと言いはしないよ」

「姉ちゃ、姉ちゃ」

「なによ」うしろから袖を引っ張る狭依にふみが低声で訊く。

「姉ちゃが仲直りしようとしてるのは判るけど、そんな言い方じゃ仲直りしようにも、ますます仲が悪くなりそうよ」狭依は元よりかぼそい声をいっそう低くして、おずおずとふみのうしろから豊相に声をかけた。

「あの、姉ちゃがこんなでご免なさい。あたしたち町に来たの初めてで、たぶん知らずに失礼なこと沢山してるかも知れないけれど、悪気は本当にないんです」豊相と視線を合わせられず胸の帯のあたりを見ながら、「どうか気を悪くしないで。しばらくしたらあたしたち出て行くから」


 いまにも泣きそうな頼りない声で言う狭依を不思議そうに見た豊相は、その若草色の衣が以前多佳の着ていたものだと気づいた。

「姉上の小袖ではないですか、なつかしい」

「あげたのよ。妾はもう着ないから」

「それは。この者どもには分を過ぎて果報な」

 おどろいて狭依をよく見ると、昨日肌にこびりついていた埃は湯に洗い流されて、下から現れた白桃のような頬が夏の若葉の前に匂う。

 おや、と豊相は思った。昨日の市庭では山猿の仔のような風体だったが、今朝は装いの異なるせいかよほど印象が違う。案外、磨けば二三年後には佳い女になっているかもしれない。


「面を上げよ。泣くことはない」いよいよ身を固くしてうつむく狭依へと歩み寄って、顎に手をかけると貌を上へ向けさせ凝っと見つめた。「姉上の客人だ、追い出しはしない。心配しなくてよいぞ、昨日のことならもう怒っていない」

「はい……はい。ありがとう」

 豊相に見つめられて、狭依は頬を朱くしてやっとそれだけを言った。その狭依の反応を豊相は好もしく思った。だが多佳の冷ややかな視線を感じるとあわてて狭依から手を離し、多佳に暇乞いをして母屋へと去っていった。夜徹し遊んだ豊相はいまから寝るのだろう。


 夢心地で豊相を見送る狭依に多佳が言う。

「まあ良かったね。でもあいつ、女好きだから気をつけなさい。それに」

 ここまで言ったところで多佳は、狭依の上気した表情を見てつづくべき言葉を呑み込んだ。豊相はこの秋に、嶋津宗家の血を引く姫君と祝言を上げることが決まっている。

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