第6話 祭りのあと、湯屋

 西ノ丸に引かれた豊かな源泉は二つに岐れ、一つは城主一家の湯殿へ、一つは使用人たちの共同の湯屋へと引かれて夜昼となくかけ流されている。夜も更けて祭りから帰ったふみたちは彌生の用意した夜食をとったあと、母屋へ戻る多佳と別れて、汗を流そうと湯屋へと向かった。陽の容赦なく照りつける昼とは違って夜は河からの風が涼しいとはいえ、祭りの人混みに当てられた躯はいまも汗ばんでいる。


「寝床のそばに風呂があるなんて便利だね」

 山では温泉に浸かるのに半里も歩かなければならなかったのを思うと狭依には城の生活は極楽のように思える。

「ほら狭依、足下に気をつけな」

 月明かりが頼りの湯屋で、それでも艶やかな色柄のうっすらと闇夜に泛ぶ小袖を脱ぎながらふみが言う。その注意も聞かずに狭依はするりと小袖と帯とを床に落として、小走りに湯へと飛びこんだ。夜の湯屋には狭依たちのほかには誰もおらず、詰めれば数人は同時に使えそうな洗い場は広々としていた。脱衣場から洗い場にかけて簡便な屋根と壁を架けただけの湯屋につづいて、石と木組みでしつらえた湯舟が露天に置かれている。


 脱衣場に対い合う形で湯舟の奥に身を沈めた狭依は、月を見上げながらあとから来るふみと伊吉を待った。と、湯屋の暗がりからいま生れ出たかのようにすうっとふみが月の下に姿をあらわし、うしろにその眷属のような伊吉が寄り添いつづいた。ふみが足の爪尖で湯をかき混ぜ熱さを確かめてから湯舟に浸かると、その長い髪が湯の面に広がり半ば以上を自儘に占める。伊吉は湯に浸かるにはふみの髪を傷つけないよう空いた場所を見つけなければならなかった。


 つづけざまに三人分の躯が埋まったために湯舟からは大量の湯が音を立てて流れ出る。あわてて腰を浮かせた狭依が膝から下だけを湯に浸けて湯舟のへりに尻を乗せた。掌でぴちゃぴちゃと湯を叩いて、湯に泛んだ紅い花殻をふみの胸元へと送ると、湯に揺蕩たゆたう髪に忽ち絡めとられた。

「お祭り、楽しかったね」

「狭依はな」

「姉ちゃだって楽しんでたじゃない」

 指摘されてふみは一瞬朱くなったが、すぐ涼しい顔に戻して掬いとった花殻を月に透かし見た。

「そりゃ少しは楽しむさ。姉ちゃにだって久しぶりの祭りなんだもの。それに」隣の伊吉を見上げて、「眞名にも会えたしね。お前も、今度こそちゃんとさよならを言えたね?」


 ふた月前、糸の切れたように突然倒れた眞名は、ちょうどその日狩りに出ていた伊吉が死に目に遇うことも叶わぬままに息を引き取った。陽が山向こうに沈む頃になって仕留めた猪を引きずり揚々と帰ってきた伊吉は、突然の母の死に身も世もなく狼狽えた。荼毘に付すまでの二日間、巨きな躯で母の遺骸に取りすがって子供のような大声を上げて泣きつづけた。

 実際、伊吉はなりは並みの大人以上の体躯に育ちはしたがその中身と云えば、山暮らしのせいもあってか拾七にもなるのに世間ずれせず未だふみに頼る幼い心柄から幾らも脱していない。そんな子供の伊吉が侍になって戦に出ようなどふみには考えられなかった。


「伊吉は侍になるのかい?」

「姉ちゃはどう思うんだ?」

「ほんと言うと姉ちゃはいやだよ。でも伊吉がなりたいってのなら止められないさ。お前ももう、姉ちゃのことなんか気にしないで、自分の思うようにやっていいんだからね」

「兄ちゃが侍になったら、若殿さまの側に居られるのかな? いいなあ、そうなったら」

「殿さまも若殿さまも関係ない。おれは強くなって、姉ちゃと狭依を守るよ」

 そのとき脱衣場に人の気配がして、誰と思う間もなく彌五郎が洗い場に姿をあらわした。湯舟のなかの先客をさっと見わたした彌五郎は正面の狭依の姿に一瞬目を瞠ったあとすぐに目を伏せ、そそくさと湯に入ると顔を朱くして伊吉の隣に座を占めた。ふたたび湯舟を満たしていた湯は彌五郎の躯の分だけざあっと外に流れ落ちる。

「あら、彌五郎も汗流しに来たの? 今日は暑かったもんね」

 湯煙の向こう、月影に泛ぶ狭依が声をかけるのにこわごわ目を向け、「姉さんが」と言いかけて彌五郎は止めた。


 多佳の腹心の侍女として長く仕えているばかりに彌生は嫁する機会を延ばし延ばしにしていたが、女ざかりの彌生に言い寄る男は次から次へとあらわれ、長屋に通う男は絶えなかった。同室の彌五郎はそのたび部屋から遁れて、当てもなく西ノ丸のなかを歩きまわるのが習いになっていた。

 今夜も姉の許へ男が通ってくるのを見て部屋を抜け出た彌五郎は、池の端を廻って長屋の手前まで戻ったところを湯屋から人声のするのに誘われ、手頃な時間潰しのつもりで湯屋に寄ったのだった。


 湯を使っているのが狭依たち兄妹であろうと予想し期待もしていた彌五郎だったが、いざ湯舟に三人が裸で入っているのを目の前にすると急に気羞ずかしさがこみ上げた。殊更に狭依を視界から外してふみに対いながらも、ちらちらと狭依へと視線を向けてしまうのを自ら制することができない。狭依は彌五郎の視線にも気づかず、見上げた夜空に星の流れるのを待ちながら裸の上半身を無邪気に晒していた。

 罪を知らない狭依の躯は、白い月の光を浴びて闇に仄かに泛びあがっている。まださして膨らんでもいない双つの乳は、それでも狭依が慥かに女であることを彌五郎に思い知らせた。


「狭依、こっちおいで」

 彌五郎の視線を察したふみが、狭依を湯のなかへと誘ってその躯を彌五郎の目から隠した。湯を慎みなく揺らしながら側に来た狭依の頭を押さえて肩まで湯に浸からせると、ふみはその押さえた頭に湯をかけ髪を指で梳いてやる。

「だいぶん荒れちゃったね。ほら、ここもこっちも縺れちゃって。お前の髪は繊細なんだから」そう言うふみの髪は狭依よりよほど長く豊かなのに艶と柔らかさをどこまでも失わず湯の上に広がっている。

「彌五郎は侍になるのか?」突然訊ねる伊吉に、はっと狭依から視線をうつして彌五郎は伊吉を見上げた。

「当り前だ。というより、おれは現に侍だ」

 元服前とはいえ、城に上がって小姓を務める彌五郎には、慥かに武将への道が敷かれていた。上に二人いる兄は既に元服して大隅、日向を転戦している。それは彼らの父祖が重代の家臣として北郷に仕えてきた歴史からも当然のことで、彌五郎が虎之介や歳二郎たちと列んでいずれ豊相の周囲を固める側近となることを疑う者はいない。


「侍になると、何をすればいいんだろうな?」

「そんなもの。ただ敵を斬ればいいのだ、斬って殿の進む道を拓けばよいのだ。もし城が砦が立ちふさがるならば、火をかけ陥せばよいのだ。もし殿に敵の手が迫るならば、命に換えてお守りすればいいのだ」

 侍の家に生まれ育った彌五郎の答えは明快だ。「やはり侍になるのか?良いと思うぞ。虎之介さまもああ言われたんだ、取り立ててくださるだろう」




 それにしても祭りのあと城への帰りしな、森で見たものは夢か幻だったんだろうか? とふみは思い返した。


 参道を歩いていたとき森との境に少年がひとり立つのにふみが目を留めたのだった。小柄で狭依よりもまだ幼く見えたが、夜祭りで誰か連れとはぐれたにしては不安とも寂しさとも無縁な落ち着いた様子を不思議と思ってつい凝っと見入った。路傍に立って退屈そうに道行く人びとの顔を眺めていた少年は、ふみが自分を見つめるのに気づくと足音も立てずにすうっと近づき、すれ違いざま耳元で言った。

「きみがふみだね。見つけた」

 少年の小さな声はふみにしか届かなかったらしい。すぐ前を行く多佳は狭依と話したまま不思議にも思わない。伊吉だけは、急にふみに近づいてきた少年を警戒して見た。その伊吉を見上げてにっとわらうと少年は踵を返し、そのまま森のなかへと消えた。

 ふみは呆気にとられてなにも言い返せないまま、少年が消えた森をしばらく見つめるだけだった。



「なんなのよ、あいつ? 見つけたって、どういうことよ、いったい」

 湯に浸かったいま頃になって闇へ向かって声に出した。不思議そうな顔をして狭依が振り返ると、ふみを異界へ連れ去ってしまいそうな深い霧が湯煙と溶け合って濃紺の夜空へと続いている。

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