第8話 千鶴
千鶴と豊相の祝言はこの秋に挙げられると決まっていた。嶋津宗家との絆をますます強固なものとすべく豊相の前に配された許嫁の千鶴は、四年前から西ノ丸に住んでいる。これには複雑な事情があった。
千鶴の生まれ故郷は日向南部は飫肥の堅城、西には杉の美林を従え、東は城の前を流れる河の潤す田畠が海まで開けて、河を下っては油津の湊を押さえる豊かな町だった。この地を巡っては嶋津一門と伊東氏とが百年にもわたって死闘を繰り広げ、時久の父忠親が長年その守将を務めていたが、先年劣勢となるや宗家当主義久は猛将と名高い次弟を派遣して伊東の度重なる侵攻を凌がせた。城下に軍馬の声が絶えないなか生を享けた千鶴の幼年時代は血の記憶に彩られている。
城を囲む敵の大軍の
城に運び込まれる戦傷者の胸の血は真紅の柘榴、敵の手に陥ちようとする櫓から上がる火の手は夏の大手門に揺れる陽炎、千鶴のなかで重なった印象がときおり夢のなかに甦る。
敵軍に逐われ度々城から落ちたときの乳母の慄き、やさしかった祖父が討ち死にしたときの母の慟哭、いつも勇猛であった父の鎧の血と汗の匂い。幼な心に戦は日常生活と溶け合い、殺生も家事も遊戯も渾然一体となって千鶴を育んだ。
四年前に飫肥の地はとうとう伊東の手に陥ち、大叔父の忠親に連れられ千鶴は母とともに時久の城に落ち着いた。父はというと――千鶴の父は飫肥が陥ちるしばらく前から、薩摩、大隅、日向へと忙しく転戦し飫肥の地から離れていた。
その父こそ、嶋津宗家から派遣された猛将忠平。
忠平を迎えるにあたって飫肥の将の忠親は、姪を妻に与えたのだった。もともと飫肥の守りを任せる証のように
宗家当主の信頼篤い忠平の血をひく千鶴は、城に迎え入れられるなり当然のように嫡男豊相の許嫁と定められた。それは嶋津、北郷両家の結束を固める婚姻として誰もが
千鶴は城主の邸内にあって、客人であり家族でありそれでいて、近い将来嫁となってあらためて家に迎え入れられる日を待つ身でもあった。
多佳を訪ねてふみは、城主の邸にも遠慮なく上がりこむようになっている。昔から珍妙な客を連れてくる多佳に馴らされたおかげで、使用人たちは城主一家の権威を歯牙にもかけないふみの振る舞いに最初こそおどろいたものの、日ならずして受け容れた。
「あらふみちゃん、今日も来たの。多佳さまならこの先の客間に居られるよ。今日は狭依ちゃんも一緒だね」
台所を通りしなに中年の飯炊き女に声かけられると
「ありがと、お松。お菓子を招ばれに来たの。今日は美味しそうなのある?」
「新しい南蛮菓子が入ったよ。あたしは恐くって口にしてないけどね」
本来主人の口にしか入らないはずの高級菓子も、台所を預かる女の特権とでも云うのかお松は露見しない範囲の内で少しずつ味見するのが常だったが、南蛮菓子だけは食わず嫌いでほとんど手をつけない。
「そう? なんでも試さなきゃ。まだ若いんだからさ」
からかうでもなく真顔で言うふみに、上の娘を去年嫁にやって近いうち孫もできようかという齢のお松は嬉しそうな顔で否定する。——やだよもう、こんな可愛らしい童に若いなんて言われちゃ照れちまう。両手で顔を覆う真似をしたために掌からうつった煤が頬に斑模様をつくるのを、周りの飯炊き女たちも顔を見合わせて大ぶりの鈴を鳴らすような声で笑いあった。
可愛らしい? お松の言葉に狭依はあらためて、幼い頃から見慣れたふみの姿を見なおした。言われてみれば慥かに、ふみは幼いながらに美しい貌だちをしている。なかでも利発そうに輝く眸と、膝まで届く艶やかな黒髪がひとの目を惹いて、大人になればさぞやと思わせる片鱗を見せていた。だが姉ちゃが大人になる日はいつ来るのだろう?
台所を抜けた先、客間に多佳は長く客人と話していたところだった。
客は忠平からの遣いである。ゆうべ嵐に打たれながら真幸院から馬を飛ばしてきた使者は、伊東との戦の近況を知るにはこれ以上ない情報源だった。根掘り葉掘り訊いたうえにその場で答えられないことには、つぎ城に来るときまでに調べておくよう求めさえする多佳に、使者は内心悲鳴を上げていた。
尋常の女人ではないと聞いてはいたが、これでは城主の時久や主君忠平と比べてさえも詮索が
そそくさと席を立つ使者と入れ違いに部屋に入ったふたりは、そこにもう一人女が座っていることに気づいた。部屋を出る前に使者はその女へ向かって、ではまた、祝言の日までには忠平さまよりお祝いの品を届けると言付かっております、恙なくお過ごし下され、と丁寧に頭を下げたのだった。
以前一度邸のなかで会ったその女は、血のつながらない妹の千鶴だと多佳から紹介されていた。
「祝言? 結婚するんだ千鶴。いつ? 相手はあたしの知ってる人?」
「この秋。相手は豊さまよ」あっと思った多佳が止める間もなく、千鶴は無邪気にふみへ答えていた。
さっと狭依へ視線をうつすと狭依は蒼白な顔をして、もう目に涙が泛んでいる。多佳より一瞬遅れて千鶴の答えの意味を理解したふみがあわてて狭依の手を握ると、狭依はその場に崩折れて泣きだした……。
そんな睨まないでよふみちゃん。妾が決めたわけでも、豊さまが決めたわけでもないのよ。だから、豊さまが妾を愛してるってわけでもないわ。
ふみの膝に顔を埋めて泣きつづける狭依の髪を撫でながら千鶴をきっと見るふみに、千鶴は困ったような顔をしてわらいかけた。かたい顔を崩さないふみににじり寄って、うつむいたままの狭依の頬に手を添える。
「狭依ちゃんは豊さまが好きなのね? 泣かないでいいのよ。妾に委せてちょうだい、豊さまとの仲を取りもってあげる。ほら顔を上げて」
千鶴が頬から顎に手を
「ほんとう? 豊相さまと仲良くなれる?」まだ目から涙を零しながら小さな声で訊く狭依の頬をつまんで、
「ほんとよ。さあ笑ってちょうだい、泣いてちゃ可愛いお貌が台無しよ」
狭依が目を上げると千鶴は微笑んだ。——そうそういい子ね。じゃあ豊さまと仲良くなる手立てを考えましょ、千鶴が言う間に狭依の涙は止まって微かな咲みさえ頬に泛ぶ。
「どういうつもり? あんた豊相の許嫁じゃないの?」妙な方向に話が進もうとするのをふみが割って入る。「結婚をやめて、狭依に譲るっていうの?」
千鶴はゆっくりと
「結婚はするの。だってそうと決まっているんだもの、妾も豊さまも、それを止めるなんて出来ないのよ」
「あんた、なんだか自分の意思なんてないみたいに言って。豊相と
「いや……? そんなことないと思うわ。でも妾にも分かんないの。妾に分かるのは、狭依ちゃんが咲ってくれたら妾もうれしいだろうなってだけ。そうねえ、ふみちゃんも一緒に咲ってくれたら、きっともっとうれしいわ」
ふみの目を見て話すあいだも千鶴は狭依の頬をつねって、そのうち狭依がほとんど無意識のうちにその手をとり弄びだすのに委せていた。泣き止んだ狭依の心はだが未だ落ち着かず、まるで猫の仔のように掌中にある千鶴の手指を誰のものとも覚えないままおもちゃにしている。
いつしか狭依は畳の上に起き上がっていた。ふみと千鶴の間に坐り直すのを、ふみが袖で頬の涙を拭ってやる。
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