8 Love

何事もなく過ぎ去った昨日。

いろいろ覚悟はしていたが想像したようなことが起きることはなく、むしろ由梨と仲良くできて普段より楽しい一日を過ごした気がする。

昨晩はずっと由梨とラインで話した。

大半はアニメの話で、俺の知識の範囲外のマニアックなところまで由梨は話してきて、正直よく理解はできなかったがそれでも楽しかった。

久しぶりに楽しいという感情を認識した。

睡眠はスポーツをする日常には疲れを取るために必要不可欠な行為であった。そこから抜け出し、寝る間を惜しんで作った由梨と話す時間はとても充実した。

終わらなければいいのにと思った。

それは、この現実を心の奥底で描いていたからなのか。ただ、楽しかったからなのか。それとも、根底にある自分の死への恐怖からなのか。

目の前には普段俺が使う机。普段と違うのは、黒ペンと赤ペンで殴り書きの暴言。

そして、その机の上には菊の花。

俺の履く靴は、もう履いてるとは言えない程にボロボロになっていた。

だが、正直そんなことはどうでもよかった。

許せなかったのは、由梨も対象に事に及んだという事実だ。

同じような状況が由梨の机にも施されている。

幸いだったのが、俺が由梨より早く学校に着き、教室に入ったことだろう。

由梨に対しての罪悪感で、顔を上げることができない。

机の横に立ち尽くし、聴覚だけで周りの様子を確認する。だが、わかるはずもない。このような状況でどのような反応をしていいのかも俺には判断できなかった。

ただ、由梨を傷つけたくないという感情が溢れ出し、机を蹴り飛ばして、ドアを乱暴に開け、廊下へ飛び出す。松葉杖をするほどの怪我を負っているにもかかわらず、痛みを感じず、自分の足で進んだ。

二階から一階へ降りる階段に着くと、由梨が登ってきていた。

由梨が顔をゆっくり上げると、目があった。


「おはよ、拓人くん」


その柔らかい笑みと、緩やかで綺麗な声音が俺の心を癒し、突き刺す。


「……由梨、ごめん。なぁ、今日学校サボって遊ばない?」


俺はあの惨状を由梨には絶対に見せたくなかった。

必死そうに見えたのか、辛そうに見えたのか、もしくは本当にサボりたがりの馬鹿に見えたのか……どうかはわからないが由梨はゆっくりと頷いてくれた。






女子を家に入れたのは幼馴染以外いないのではないだろうか。

ベッドに腰掛けると、横に由梨が姿勢良く座る。


「全然気遣わなくていいからな? 自分の部屋だぐらいの気持ちでグダグダしていいから」


由梨は少し困ったよう微笑んで、脚を少し崩した。


「じゃあ、ちょっとのんびりさせてもらおうかな」


少しの間、二人はどこを見るでもなくぼーっとしていた。

だが、なぜか由梨が隣にいると心が落ち着き、楽になった。

でも話さなければならない。今日学校で見たことを。

どう話すべきか迷って、由梨に声をかけた。


「なんかアニメ見る? ビデオあるけど」


「うん、見たい」


何がいいかなと、二人で棚を漁って話していると、不意に目があった。

至近距離で見る由梨は、やっぱり可愛いかった。

少し俯いてから俺は今日のこと、これからのことを口にした。


「なぁ、由梨。たぶん俺と由梨、二人ともいじめを受けることになる……これから……」


由梨は少し天井を見上げた。そして苦笑して、俺を見た。


「実はね、私前から女子の間で少し虐められてたの」


衝撃だった。由梨は性格が良すぎるくらいだと俺は思っているから。

今まで、誰にも言わずに、公衆の面前では可愛らしい笑顔を絶やさなかったのかと思うと、ちっぽけな俺の胸でも痛んだ。


「拓人くんってさ、実は女子の中では人気あるんだ。それでね、拓人くんと少し話すようになっただけで色々言われ始めたの」


俯いて語る由梨の表情はわからなかった。


「なんか、申し訳ない……」


「違うの、拓人くんのせいじゃない。人間は弱いから仕方ないんだと思う。他人にマウントとらないとやっていけない生き物なんだもん。あとね、実は普段ほとんど女子と話さない拓人くんと話せて少し優越感だったり……」


表情はやっぱり見えないが、なんだか少し笑みが溢れたような気がした。

しかし、俺は虐められてる由梨などは見たくない。それが原因で将来が暗くなる由梨も。

それをどうにか言葉で伝えようとして出かかった俺の言葉を、由梨が遮った。


「拓人くんは、何を言っても自分を責めると思う。でも……でもさ……それで拓人くんが私のために何かを犠牲にするなんて絶対嫌だからね……!」


顔を上げた由梨の縋るような表情に、瞳に、喉から情けない声が漏れる。

涙を流し自分の意思を真正面から伝えてきた。普段の由梨からは想像がつかなかった。故に、気持ちもしっかりと伝わってきた。

俺はそんな由梨に偽りなく答えたくて、ごちゃごちゃの頭から言葉を捻り出した。


「……わかった。でも、どうすればいいんだろう、俺は由梨が傷つけられるのは嫌だ。どうすれば元に戻れるんだろう」


由梨は少し俺から視線を逸らし、間を置き、俺に問うた。


「拓人くんは、友達はたくさん欲しい人?」


「いや、俺は浅く広くじゃなくて、極狭で深くの人間だ」


由梨は少し微笑み、前髪に触れ、顔を隠した。


「ねぇ、じゃあさ、唯一無二って欲しい?」


「唯一無二……か、正直言って言葉にするとすごくしっくりくる。俺が今まで求めていたものと」


「じゃあ、私だけを……見てくれないかな……。拓人くんの唯一無二になりたい。二人で支え合って、第三者なんてどうでもいいくらい……うぅ、言葉にできない……」


由梨の言葉に一瞬思考が停止した。だが、すぐ頭は回り、自分の気持ちを見つめ直す。

俺は、由梨とどうなりたいのだろう。いや、それ以前に俺は何をするべきなのだろう。

わからない……けど、残りの人生会は残したくない……。

残りの人生……?!

そうだ、俺の人生、あと一ヶ月もないんだった……。

これを聞いたら由梨はどう思うのだろうか。

いや、由梨は俺に真正面からぶつかってきてくれている。ならば、俺もしっかりぶつからなくてどうするんだ。


「なぁ由梨。信じられないかと思うけど、聞いて欲しい。俺、余命一ヶ月もないんだ」


俺が最後まで言い切る前に由梨が叫ぶように声を上げた。


「関係ない……! それでも……それでも愛させて欲しい! だって……拓人くんといるだけで、こんなに楽しくて、心が踊って、幸せなんだもん……」


最後は、消え入るような声で呟いていた。

まさか、由梨が俺をここまで思ってくれているなんて思わなかった。

予想外の愛に、心が満たされて行くのを感じる。

由梨は呼吸を整えると、姿勢を正し、俺の目をじっと見つめた。


「拓人くん、私に拓人くんを愛する権利をください。私とお付き合いをしてください」


俺も由梨にしっかりと視線を向け、思いを告げた。


「俺からも頼む。残りの人生、由梨と過ごしたい。幸せにしたい。幸せになりたい。由梨を愛したくてしかたがない。俺が死ぬまで短いけど……俺と一緒にいてくれ」


そのとき見せた笑顔は、俺が見た由梨の笑顔の中で三番目に最高の笑顔だった。

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