終章   四月は雪融けの国  令和十年十二月二十日(水) 宮坂航也

令和十年十二月二十日(水) 北海道余市町・西崎山環状列石前


 第一目的地である大慶油田の座標は、緯度も経度も頭に叩き込んだ。第二目的地である遼河油田のものもである。

 行先は、昭和十三年一月……。あまり史実の油田発見まで時間が空くと、また違う世界を産み出してしまう危険性がある。それくらいが落としどころだろうとの判断だ。

 あとは俺の血をこの石器に注いで、遺跡に嵌めるだけ……か。


 昨日のソ連機撃墜事件は、アイヌモシリと日ソの外交関係を一夜にしてひっくり返した。

 結局は亡命を試みた機体だと分かったのだが、それがなおのこと日ソ関係を険悪にしている。

 俺が去った後……『俺達の世界』が保たれたとしても、ソ連の後ろ盾を失った『アイヌモシリ共和国』は遠からず地上から消滅する。そう思わせる情勢だった。


「では、杉原少尉。お世話になりました」

 事情を知る人間は最低限に済ませなければならないので、『遺跡』の前には俺とマヤ、それに杉原少尉の三人しかいない。

「こちらこそ、宜しく頼む。私は必ずあとを追う。あっちで待っていてくれ」

「靖国で会おう、じゃないんですから。縁起が悪いです」

「ふふ、違いない。蝦夷森少尉補も、現地では宮坂の言うことをしっかり聞けよ。こいつは人の上に立つ器だからな」

「はい」

 いや、それはさすがに買い被りだと思うんだが。……と、杉原少尉は大事に取り扱っていた腰の刀を抜いた。

「餞別だ、宮坂。拳銃も持たせたが、これも持っていけ。拵えは軍刀だが中身は会津兼定、甘粕先輩からいただいた良業物だ。彼女の寄る辺に、持っていけ」

「ありがとうございます。では……俺はこの刀を、杉原少尉に贈ります」

「……これは?」

「なかごを見ていないので、銘は分かりません。ですが、南高剣道部に所属していた『アンナ・アレクサンドロヴナ・ベリンスカヤ』の持っていた刀です。少尉の刀を頂かなければ、これを持っていくつもりでいました。彼女の存在を繋ぎとめるために、それはこっちに置いて行ってください」

「承知、つかまつった。では、な――」

「はい」

 石器を置くと正面に正座し、兼定の鯉口を切って鍔元をあらわにする。そこに親指を押し当てるのが、拇印の作法だ。

「っ」

 ぷつりと皮膚が切れたことを確認し、石器に刻まれた文字に血を染み渡らせていく。場所は東経……日時は昭和十三年一月……

 そして、ゴトリと音を立てながら、俺は石器を遺跡のくぼみに嵌め合わせた。

 遺跡に立つ柱が白く輝き、あたりを染めていく。お別れの時間だ。俺はマヤの手を握り、しっかりと光の中に抱き寄せた。

「杉原少尉! お世話に! 本当にお世話になりました!!」

 ともすれば、これが今生の別れになるかもしれない。だから俺は、声を枯らして叫んだ。

「体に気をつけろ! 貴様らは、どこに行っても私の教え子だ!!」

 閃光に目がくらみ、少尉の姿が消え……やがて、声も聞こえなくなってくる。

「門が……門が、開かれた」

 かたわらのマヤに目を向けると、その姿ははっきりと見えた。――と。

「!」

 マヤは気でも狂ったのか、拳銃を取り出して石器に銃口を向けた。

「よ……よせッ!」

 だが、俺の制止は間に合わず。撃ち抜かれた『三日月』は、バラバラに四散してしまっている。

「マヤ……ッ! お前、なんてことを……杉原少尉は、どうやって追いかければいいんだッ!!」

「おめでたいのね、コーヤ」

 俺が聞いたこともないような冷たい声音で、マヤがつぶやく。

「杉原少尉――共和国に殉じて、死ぬ気だったに決まっているじゃない。だから餞別じゃなくて、形見のつもりで軍刀を渡したのよ」

 な――俺がマヤの見立てに驚愕すると同時に光が消え、俺達は寒風吹きすさぶ平原に放り出された。

 想像はしていたが……寒い。一月の満州だ。道内なら旭川くらいの気温だろう。

 混乱する頭で、事態を整理する。時の門が開いている間を狙って、『三日月』はマヤによって破壊されてしまった。つまり、俺達のあとに『歴史修正者』が現れることはありえない。ありえるとしたらそれは俺か、それともマヤかだ。俺ではない以上……今回の一連の犯人『歴史修正者』は、マヤだったということになる。

「悪いけど、油田は発見させない。コーヤを監禁してでも、それはさせない。そうしないと、あたしたちアイヌ民族が幸せになる世界線がなくなっちゃうから。ね、コーヤ? お金はあるんだし、戦争が終わるまでどこかであたしと一緒に、静かに暮らそ?」

「……言ってることは分かる。俺達が今いるこの『元の世界』にも、アイヌ民族はいる。そして元の歴史では、二十世紀の末から解放が始まっていく。俺達の世界でアイヌモシリ共和国がソ連の後ろ盾を失った以上、アイヌ民族の自決権確立は絶望的だろう。お前にだって、アイヌ民族の先住権を掲げる正義はある」

 俺はそう告げると、杉原少尉からもらった刀を抜き、中段セイガンに構えた。

「動かないでッ!」

 手にしていた拳銃を、マヤはそのまま俺に向けてくる。

「お前がしようとしていることは、確かに『元の世界』の論理では正しい! だが『俺達の世界』の論理では、大勢の人を犠牲にしてしまう! だから!!」

 ……今いるこの世界で誰よりも殺したくないが、死んでもらう。そう告げるのも忘れ、俺は刃を振るった。

 初撃の突きを喉に突き入れ、刀身ごと左足を後ろに引き、右上段に構えなおして頭部を斜めに叩き斬った。かつて杉原少尉に教わった、両手軍刀術の技だ。声を立てる間もなく、マヤはその場で息を引き取った。


「……ついに、一人か」


 皆、本当に皆いなくなっちまった。高山が切腹し、甘粕さんもアーニャも消えた。杉原少尉とは別れを済ませたし、そしてマヤも……


「いかんな、泣いてちゃ」


 血振りをして刀を納め、マヤの墓穴を掘りながら、そうつぶやく。

 俺は人生の中で、これほど寂しいときはなかった。『俺達の世界』ではアーニャも甘粕さんも消えなかったことになるかもしれないが、俺からそれを『観測』することはできない。

 俺は……俺にできることを、やるしかない。

 インゴットはある。ここは戸籍のない満州国、なんとか現金に変えることはできるだろう。そして商業登記簿と同じ日に、『大日本帝国石油』を作る。油田を必ず掘り当ててみせる。

「マヤ。痛かっただろうな。辛かっただろうな。ごめんなぁ……っ。俺はお前の死を、絶対に無駄にしない。だから、安心して眠ってくれ……っ」

 鼻水と涙を垂らしながら温みが残るマヤの体を持ち上げ、墓穴に入れる。手を合わせながら読む経は、ただひたすらに侘しく荒野を流れていったのだった。


       ◆◆◆


「あれから、もう一年半近くになりますわね」

「はい」

 アンナ・アレクサンドロヴナ・ベリンスカヤ。そして、甘粕真琴。

 宮坂航也の恋人と保護者だった彼女たちはある日『消滅』し、そして『出現』した。

 二人にしてみれば時空を飛び越えたとしか言いようのない現象だったのだが、事情を伝える役として残った杉原たかねが、二人にすべてを説明したのだった。

 宮坂航也が昭和十三年に向かった日から、一年半近くが過ぎた。『アイヌモシリ共和国』は既に崩壊し、榎本大統領を含む首脳部の一部はアメリカで亡命政権を樹立。今の北海道では、戦後処理の真っ最中だ。『歴史改変罪』の話は、もちろん影も形もなく流れてしまった。

 共和派に所属していた杉原たかねは北川小五郎防衛大臣が戦死するに至って、『もはやこれまで』と敵陣に斬り込みをかけた。その後の消息は、現在に至るも不明である。

 君主派に所属していた甘粕真琴は軍法会議で形式的に在宅起訴となったが、執行猶予のついたごくごく軽い判決で終わった。

 そして。これだけの歳月が過ぎた今でも、宮坂航也が帰ってくる気配はない。歴史の中でどういう役割を果たしたのかも、分からないままだった。

 しかし彼が『この世界』にいたことは、まぎれもない事実だ。

 人が死ぬのは医学的に死んだ時ではなく、すべての人から忘れられた時だと言われる。そういう意味で、彼はまだ消えていない。

 ベリンスカヤと甘粕は遺跡の前に並び、三日月形の溝の前に花束を供える。全てが眠りにつく冬を惜しむように、雪融けの国の扉が開く季節だ。本州より遅い名残なごんの桜が頭上に咲く中、さわやかな風が吹いた。

 その二人の背中に、声が飛ぶ。


「ただいま、二人とも」


 たとしえもなく、懐かしい声であった。その快活さは、記憶の中といささかも変っていない。

 後ろを振り返るまでもなく、声の主が誰なのかを彼女たちは知っていた。 [了]

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イナゴ身重く横たわる 東福如楓 @MIYAGAWA_Waya

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