カルミラの記憶
──人間の興隆に取り残されれば、カルミラの民はゆるやかに滅びゆくだろう。
──それを回避するため、新たな生存圏を確保しておくべきだ。
アーサーの言葉は正論だとわかっている。彼は間違ったことなどなにも言っていない。
だが、感情が追いつかない。ヴィオレットにとって大切なのは、『未来』ではなく、『現在』だった。平穏な現在がなければ、平穏な未来も訪れ得ない。
今現在起こっている大事を捨て置いて、未来だけを見つめるのは、あまりに愚かしい行為ではないだろうか。
思わずアーサーへ懐疑的な目を向けてしまったが、偉丈夫は決して瞳を揺らがせず、厳めしい面持ちでゆっくりと口を開いた。
「今回、フィリックスとやらが企てていることも、儂は否定せん」
ヴィオレットは絶句し、次いで湧き上がった感情のまま
「奴のしていることは利己的で残虐な行いかもしれぬが、そこには種族を前進させるための意志がある。成果が実らず、いずれ誰かに
「わ、私は決して是としません。多くの同胞も同じでしょう。罪なき人々が犠牲になっているのですから」
「人類史上、無数にあった戦禍で犠牲になった者の数のほうが遥かに多いだろう」
「その通りですが、それとこれとは違います。同胞が犯した罪は、同胞の手で裁くのが道理でしょう」
「ならばお前がやればよい。我が子どもたち、そして
突き放すようなアーサーの言葉に、ヴィオレットはうっと押し黙る。
ヴィオレットは、今回の事件の解決をアーサーに一任し、自分は屋敷に引きこもって安穏と過ごしたかった。それがどんなに身勝手で卑怯な考えかはよくわかっているが、アーサーがひと声上げさえすれば、大勢の同胞が結束するに違いないのだから。
力ある者こそが陣頭指揮をとるべきだ。それがもっとも合理的。
しかし、自ら行動を起こす気のない者が、それを口にしていいはずがない。
ヴィオレットが、『私も精一杯協力します』と言いさえすれば、眼前の偉丈夫を動かすことができるかもしれないが……。
「ところでヴィオレットよ。儂と共にエメルゴに来ぬか?」
白々しいほど唐突に話題を変えたアーサーに、ヴィオレットは深い悲しみを覚えた。
「なにを藪から棒に……」
「
「おじさま……。失礼を承知で申し上げますが、私は
非難がましさを隠さず言うと、なぜかアーサーは口角をぐいっと上げて、さも愉快そうな態度をみせる。
「ヴィオレットよ、それは、お前自身の考えか? それとも、お前の中に在るカルミラの記憶がもたらす感情か?」
突如として突き付けられた問いの意味がわからず、ヴィオレットは眉根を寄せて首をかしげた。
だが、卒然と思い至る。
――この
動揺を隠せず、震えながら口元を押さえる。
ヴィオレットの中には、間違いなく源祖カルミラの記憶がある。それは断片的なものに過ぎなかったが、理解が追い付かないものや強烈なものもあり、戸惑うことは多々あった。しかし、うまく折り合いをつけて生きてきたつもりだ。
けれど、
アーサーの指摘が、心にずしりとのしかかる。
一つだけ、確信していることはあった。ヴィオレットが男性よりも女性を好んで吸血するのは、ヴィオレット自身の嗜好ではなく、カルミラの影響だということを。
ヴィオレットは顔をくしゃくしゃに歪め、血を吐くように答えた。
「確かなことは申せませんが……。カルミラの記憶がもたらす感情である可能性は、あります……」
「そうか……」
アーサーの口元から、挑むような笑みが消えた。打って変わって、哀切を含んだような眼差しをヴィオレットへ向ける。
「残酷な問いかけをして、まことすまなかった。だが、自覚は必要だと思ってな。お前はお前なのだから、カルミラの意思に
「はい……」
アーサーの物言いは優しいものだったが、ヴィオレットは悄然と肩を落とす。そうしながらも、頭の中にあるカルミラの記憶の一部を引っ張り出してみた。それは、とてもとても辛い記憶だった。
「カルミラは博愛主義だったようですね。人間という生物を愛していた……過剰なほどに」
「その通りだ。
「ええ……」
「あの御方にいかに人知を超えた力があったとはいえ、土台無理な話だった。……しかし、あと数千年早くこの地に降臨なされていたのなら、今の世で救世主と仰がれているのはカルミラだったかもしれんな」
アーサーは遠い過去を
「お、おじさま。私はやはり、生まれ育った
「そうかぁ、残念だのぉ」
意を決して思いを伝えると、アーサーは
「おじさま、今一度お願い申し上げます。どうかあなたの偉大なお力で、アルバスをお救いください。ウィルヘルミナがフィリックスの子を身ごもったことはご存知なのでしょう? おじさまにも決して無関係ではないはずです」
「だが儂は決めた。
「取捨選択……」
言葉尻を繰り返しながら、ヴィオレットはきつく目を閉じ、苦悩する。
「どうするヴィオレット。哀れな者たちをすべて救う力は、カルミラにさえなかった。だから、ラウラだけを守って――死んだ。お前はどうする。救国の乙女のように、祖国の同胞を救うか。もしくは、愛しい者だけを守るか」
「それは……」
ただ目先の享楽だけを追い求め、
宵闇の女王は二度目の愛を誤らない~拾った青年に血と寵愛を捧ぐ~ root-M @root-m
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