イデオロギーは悪なのか〈20〉(終)

 マルクスやルソーなどよりもさらにさかのぼって、アルチュセールがイデオロギーを考察するにあたりより強く依拠したのはスピノザであったことは知られているし、すでに本稿において短く取り上げてもいる。

 また、アルチュセールはイデオロギーをけっして「一般論」として語っていたのではないということも、あらためてここで強調しておかなければならない。彼はけっして「漠然とした」テーマでイデオロギーを語っていたわけではない。

 本稿でも多く取り上げてきたアルチュセールによるイデオロギーについての論文、『イデオロギーと国家のイデオロギー装置』と題してまとめられた、いわゆる『パンセ論文』は、彼の生前に刊行されることのなかった大著『再生産について』からの抜粋・要約である。元となったその草稿を読めばこの『パンセ論文』がいかに彼の本来の意図を十分に伝えきれていないかがわかるだろう。

 アルチュセールは、けっしてイデオロギーを「否定」してはいない。むしろ肯定的に捉え、かえってそれを「利用」しようとさえ考えているように思える。なぜなら、彼がこの厖大な草稿をしたためたのは、ありていに言えば可能な限り多くの労働者や一般大衆をプロレタリア階級闘争の主体として「徴募」するという、具体的な目的によるのだから。


 ではなぜアルチュセールは、イデオロギーを「肯定的」に捉えることができたのか?その理由はやはりスピノザであろうと思われる。

 すでに言ったようにアルチュセールは、「イデオロギー一般」(別の言い方では「イデオロギーのイデオロギー」)の構造・機能・形式・様式に不変性・普遍性を見ている。

 一方でスピノザはこういうことを言っているのである。

「…観念の観念(idea ideae)というものは実は観念----その対象との関係を離れて思惟の様態として見られる限りにおいて----の形相〔本質〕にほかならない…。」(※1) 

 アルチュセールは、未完に終わった草稿『再生産について』を「哲学とは何か」という章から始めており、なおかつ遂に書かれることのなかったその第二巻の終盤において、再び哲学を取り上げることを予告していた。ここで彼の言う「哲学」とは「マルクス主義哲学」という、極めて具体的で「イデオロギーの色濃い」ものではあるが、そこで彼が示そうとしたのはむしろ、まさに「観念の学」としての哲学の、その構造・機能・形式・様式の不変性・普遍性、言い換えれば「その対象との関係を離れて思惟の様態として見られる限りにおいての形相=本質」であるというように見ることもできるだろう。


 また、アルチュセールは「プロレタリア・イデオロギーは極めて特殊なイデオロギーである」(※2)と言っている。プロレタリア・イデオロギーすなわち階級闘争のイデオロギーは、言うまでもなくプロレタリア階級の「繁栄と永続」を目指すものではありえず、何よりもまず、階級および階級社会のイデオロギーを「廃絶」することを目指す、とアルチュセールは主張する。つまりプロレタリア階級闘争の勝利は、プロレタリア階級とプロレタリア・イデオロギーの「廃絶=消滅」をもって終わる、ということなのである。

 自分自身の消滅をもって自分自身の勝利とするようなイデオロギーなどというのは、一見してあまりに倒錯的で、たしかに「極めて特殊」であるように思われる。これまで見てきたようにイデオロギーは一般に、自身の「繁栄と永続」が目的の全てであるようなところがある。

 しかし、もしこのような「極めて特殊なイデオロギー」を肯定しうるとしたら、それはその「極めて特殊なイデオロギー」が、イデオロギーの構造・機能・形式・様式の不変性・普遍性、その対象との関係を離れて、思惟の様態として見られる限りにおいての形相=本質の表象「である限りにおいて」であるだろう。

 もしあなたが、このプロレタリア・イデオロギーという「特定の意味・内容を持ったイデオロギー」が気に食わないと思うなら、それは全く正当なのである。むしろ、ここでそのイデオロギーの「意味・内容」は全くどうでもよいのだ。それは、「何でもよい」のである。なぜならこの「極めて特殊なイデオロギーの表象するもの」とは、「イデオロギーの構造・機能・形式・様式の不変性・普遍性、その思惟の様態の形相としての本質」なのだから。

 一部のイデオロギーは、こういった「本質」を開示する機能を持ち、そのイデオロギーの主体はその現実化を役割として担っている。あなたのイデオロギーがまさにそのようなものであればよいのだが。


 アルチュセールが言うところの「極めて特殊なイデオロギー」は、すなわち「イデオロギーの構造・機能・形式・様式の不変性・普遍性、その思惟の様態の形相としての本質」を開示する役割を担ったイデオロギーは、そのイデオロギーの外部から、まさにそのイデオロギーの外部を表象することになるだろう。人間はそれによって、それまで自分たちが従ってきたのはそのイデオロギーの「意味・内容」ではなく、そのイデオロギーの「形式」であったことを知るだろう。そして、今まで従ってきたイデオロギーの意味・内容が、何ら本質に影響をもたらさないならば、もはやどのような「特定の」イデオロギーに従うことも、何らの意味をなさないことを知るだろう。

 こういったことを人間にくまなく知らしめたならば、そのイデオロギーは自らの役割を終え、イデオロギーのその構造・機能・形式・様式の不変性・普遍性、その思惟の様態の形相としての本質の「中」で消滅することになるだろう。これによって、そのイデオロギーの「歴史」は終わりを告げることになるだろう。

 しかし、その後に、一体何が残るのか。


 ここであらためてスピノザの言葉を聞こう。

「…人間は、自分の本性よりはるかに力強い或る人間本性を考え、同時にそうした本性を獲得することを全然不可能と認めないから、この完全性〔本性〕へ自らを導く手段を求めるように駆られる。そしてそれに到達する手段となり得るものがすべて真の善と呼ばれるのである。最高の善とはしかし、出来る限り、他の人々と共にこうした本性を享受するようになることである。ところで、この本性がどんな種類のものであるかは(…中略…)言うまでもなくそれは、精神と全自然との合一性の認識(cognito unionis quam mens cum tota Natura habet)である。…」(※3)

 精神と全自然との合一性の認識、そのような認識に人間の思惟を導くのは、一体何か。それは言うまでもなく「哲学」である、ということになる。「構造・機能・形式・様式としての不変性・普遍性を有する、人間のその思惟の様態の形相としての本質」の学としての「哲学」ということである。

 イデオロギーとわれわれが「関係する」ときに、われわれにとって必要であり注意すべきなのは、われわれ人間が「思惟しているもの=イデオロギー」は「思惟の一様態」にすぎないということを、その「思惟しているただなか」においてもしっかりと知っておくことだ。それを知ってさえいれば、「同一事物でも異なった関係に応じては善いとも悪いとも呼ばれ得る」(※4)ようなものを「本質」と取り違えずに済むだろう。「ただ認識の欠陥からのみそうしたものとして考察される、われわれに思惟の本質について何ごとをも教え得ない、虚偽あるいは虚構の観念」(※5)にも騙されずに済むだろう。しかし一方でそれらを「悪」として斥け、「別の」観念に乗り換えて、それがあたかも「善」であるかのように澄ました顔をするような勘違いもまた起こらないことだろう。


 「何を」思惟するかは、その都度で変わる。その思惟する環境によっても変わるし、たとえ環境は同一でもその思惟する時期によっても変わることもある。変わるということは、あったりなかったりするということであり、もしそうであれば、そのようなものを「本質」と考えることがあるとすれば、それはやはり虚偽なのである。

 しかし、そのいずれの場合においても、「思惟するということの形式」は変わらない。これを変えてしまったら、われわれは思惟することさえできない。いや、「思惟することさえできない」ということを知ることさえ、われわれにはできない。

 だから、「…それが存すればこれらも必然的に存し、それが除去されればこれらすべてもまた除去されるところの、共通な或るもの…」(※6)としての思惟する「形式」は、われわれ人間の「能力として本質的なもの」として、われわれ人間の思惟を絶えず支えている。その認識をわれわれ人間が絶えず思惟する限りで、われわれは「あったりなかったりするもの」としてのあらゆる「思惟=イデオロギー」から自由でいられる。「自由」もまた、環境や状況によってあったりなかったりするようなものではない。自由もまた絶えず「必然的に存在するもの」としてわれわれを絶えず支えている。

 その認識に到るためにわれわれの思惟を支え導くのが、思惟の構造・機能・形式・様式の不変性・普遍性としての観念の観念、あるいはイデオロギーのイデオロギーの学、すなわち「哲学」なのである。

〈了〉


◎引用・参照

(※1)スピノザ「エチカ」 畠中尚志訳 

(※2)アルチュセール「再生産について」

(※3)スピノザ「知性改善論」 畠中尚志訳

(※4)スピノザ「知性改善論」

(※5)スピノザ「知性改善論」

(※6)スピノザ「知性改善論」 畠中尚志訳


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イデオロギーは悪なのか ササキ・シゲロー @sigeros1969

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