第8話 風呂というのは子供と犬、猫に備わる獣に近い部分を覚醒させる。

 風呂というのは子供と犬、猫に備わる獣に近い部分を覚醒させる。

 逃げようとする一華を抑えて拭くのにはだいぶ慣れた、無駄に大人びているくせに風呂場の蒸気が火照った体に鬱陶しいのかびしょぬれの身体でリビングに走っていこうとするから。犬や猫を拭くのと一緒でまず中腰になって体制を安定させて膝に座らせ、手やもう片方の腿で足を挟んでブロック動きを封じる。それは二人でも一緒、二人に片方ずつ太腿を跨がせるように座らせて片手で二人を拭いていく、多少腰と尻が痛いがまあ許容範囲、逃げられそうになっても手で制して深く座りなおさせればいい、少し手荒だが逃げられてホテルを汚すよりはマシだ。

「髪がからんでいるのですがー」

 と、右太腿で一華が怒る。じゃあ自分で拭けよと言えば黙る。左側の文香は静かだ、けれど股の座りが悪いのか身じろぎして逃げようとする。ふにふにしたマシュマロが腿の上で動き回る。

 髪が絡まっているが乾かすときに解けばいい、短い子育て期間でそう覚えた。ぱぱいたい、と夏凛かりんは抗議しながら俺の乳首を抓った。一里ツマが教えたのか何なのかあいつは俺に何かいう事を聞かせようとするとき決まって乳首を抓った。複雑な気分になったがあれはあれで可愛かった。夏凛は髪が短かった、お姉さんに見られたいからとわざわざ短くしていたでも本当のところ一里みたいな髪型にしてほしかった。そっちの方が似合うから、別にそれで俺が面倒になることもないし、柔らかい髪質だったからあまり絡まなかったし……、けどこいつの髪はよく絡む、よく絡むからどうこうしろとは言わない。ずっと触れ合っていたいから、できるだけ触れていたいからそれでいい。無理にでも、何か理由を付けて夏凛に髪を伸ばさせればよかった。そうすればあの運命も変わったんじゃないか。もっと遅く家を出ていれば、もっと早く家を出ていれば、ずっとあのままあの子が俺を嫌いというまで触れ合っていられたんじゃないか。

 自分の顔が気持ち悪く笑っているのがわかる。

 ああ、俺は何を考えてるんだ。

 まるでロリコンじゃないか。

 でも二人の身体に欲情することはない。膨らみかけの胸にも、いかっぱらにも、誰にも侵されたことのなさそうな秘部にも。

 いや、そういうのじゃないから逆に質が悪いのか?

 そんなことを考えて力の緩んだ隙に逃げようとする二人の本能的な何かに自然な笑みが浮かんだ。けどすぐに、夏凛の姿と重なる。

『ママー』と帰ってきた一里に抱き着く夏凛。消毒液臭い一里は、焦ってフルチンのまま夏凛を追いかける俺を笑う。

『下手ね』と。自分では風呂にも入れたことないのに、何の根拠もなくあいつは笑う。それがムカつくがとても愛おしかった。

 それ以上の事を幾度もしているのに俺は恥ずかしくなって自分でもわかるくらい赤面する。夏凛が寝静まった後それを冷やかされる。その流れで幾度も話した。

『もう一人作ろうか? もう、私が歳だからね』

『まだいけるだろ、俺が高校卒業したらもう一人、俺もまあ中卒の時よりいいところで働けるだろうし』

『いいや、大学まで出ないと、大学までお金だすから』

『そこまでしてもらうのは夫婦として間違ってるだろ』

 12歳年上の世話好きな女は何の悪気もなんの悪意もなく、『勉強がお仕事だから、勉強しなさい』と柔らかな笑みを浮かべる。『それにちゃんと学校に行くっていうのは結婚の条件でしょう』と、本当に変な女だった。

 17歳のガキと結婚して、子供まで作って、実質、子供二人世話しているようなもので、それができるくらいの財力はあって強い女だった。けど弱いところは弱くて、家事はできないし、忙しいと食事もおろそかになる、職場の悩みもそれなりにあった。いつの間にか引っ越しさせられた先の家は人を住まわせる気があるのかと首を傾げるレベルで汚かった。

 そして結婚してから時々聞いてきた。

『私の事本当に好き? こんなおばさんでほんとうによかったの?』

 薄暗いリビングで椅子の上で体育座りして、上目遣いでこっちを見てくる。あんた本当に俺より12も年上なのかよと聞きたくなるくらいに幼いふるまい。

 俺が愛していることなんて確認なんかしなくてもわかる。家族も何もいない俺に、17歳のガキに惚れられて惚れて、結婚までして。けど自信がないのか、まだ19歳で酒も飲めない俺の前でベロベロに酔いながらときどき聞いてきた。

 いくらでも聞く機会はあるのに、もっといい瞬間があるのに、一里は酔わないと言えなかった。

 もっと言っておけばよかった。

『大好きだ、結婚して良かった。世話好きなところも、貧乳なところも、家事ができないところも、俺の言ってることちゃんと聞いて話し合ってくれるところも、どれだけ疲れてても夏凛と遊ぶところも、意外とストレス溜めやすいところも、12も年上なのに俺に話を合わせるため勉強してノートまで作ってたことも、何もかも』

「大好きだ……」

 気を抜いた瞬間に出てしまった一言、一華が俺を見上げる。

「大好きなの? なんで悲しそうなの?」

 と、文香が首を傾げる。

 どう取り繕うか。

 湯気も消えて水が垂れる音が大きくなったお風呂場に沈黙が響く。

「わたしと文香が可愛すぎて感動してるんだよ。田中はロリコンだから」

「たなかさんはイエスロリータノータッチのひとじゃないんだ……」

「ちげえよ黙れ」

 おしゃべり幼女二人の顔面から頭を鷲掴みするようにして水滴を拭きとる。ワッシャワッシャと、小ぶりな頭が揺れる。口は達者なくせに頭はこんなにもちいさいのだと実感する、そういえば夏凛むすめもそうだったな、と。よく喋るくせに体も頭も小さくて人間の脳味噌の神秘を感じた。よくよく考えれば一里つまも頭は小さかったかもしれない。

 何かが頬を伝った。

 馬鹿だな俺、何考えてるんだ。


     ◇


「おいぃ、おめえよぉ、俺より年下なんだから自己紹介しやがれ、ルールだろうが!」

「キャラ変わりすぎではあぁ!?」

 すると田中の隣で当然のようにつまみを貪る一華がもちゃもちゃしてから喋りだす。

「田中は酔うと自分がされたパワハラを他人にやり返す癖があるから」

 隣り合ったベッドの淵に腰を掛ける酔っぱらい。これが好夫の酔っぱらい初体験になる。

 好夫の初めての酔っぱらいは傷心の男、それもかなり自分が苦手なタイプの酔っぱらい方だ。酔っぱらい方のレパートリーなど知らないが、ドラマやアニメ、漫画、小説、数々のメディアで見てきた酔っぱらいの中で一番面倒くさいタイプの、どうあしらったらよいか分からないタイプの酔っぱらいによっしーは戸惑った。

「何その負の連鎖!?」

 戸惑ったというよりも混乱している。


 いいから自己紹介しろやーと、面倒くさい酔っぱらいはキレ散らかす。うんうん、そうだねぇ、とまるでぼけ老人でもあやすかのように一華は田中を宥める。

「まあでもよっしーのことも文香のこともよく知らないし自己紹介するのもいいんじゃない? こんごの事もあるし、のーりょくについてもう少しおしえてほしい」

 と、そんな流れだった。

 できるだけ細かく、数年前にした就職の面接のようにこまごまと自分の事を話す。その話を振った本人は空になったビール缶と共に床で果てているが。

 自身の名前は勿論、苦手なことや、得意なこと、『今後』に生かせそうなことは事細かく話す。文香にも話すように促すが恥ずかしがってあまり自分の事を話したがらない。おにいちゃんが言ってよ、と好夫の服を強く握るばかり。


 だからそんなふうに目の前にいる少女と男は自分と同じだと思っていた。というよりも、好夫は自分が主人公だと思っていた。


「能力の代償がない……?」

「いまのところね、だからいつか何かの拍子につらいのがどーんとこないか心配だな」

 文香もついさっきまで眠そうにもたれかかってきていたのに今ではすっかり目を見開いている。

「で、でもそんなことあり得ない……」

 いつものゆっくりと小さな声ではなく、今まで聞いたことのないしっかりとした口調だった。

「ありえてる」

 もうそれ以上言うな。その言葉にはそういう意思が込められていた。

「おかしいことなんてないよ」

 彼女の手は田中の頭を撫でた。

「だからなーんにもいわないで」


 おかしいことなんてない、だからこの人にはそれをおかしいなんておもわせないで。

 そういって彼女は田中を撫でる、慈しむように、聖母のように。

 子供のような振る舞いは演技だったのだろうか。いや、きっと演技だ。演技にきまっている。


「やくそくだよ」


 耳に入ってきたのは子供の声、けれども子供らしくない感情を孕まないその言葉に腹の底がスッと冷えた。

 一瞬で分かってしまった、田中が主人公だ。

 そして自分は何か無駄なことをしたらすぐに殺されるモブ。

 文香は俯く、文香がそうなってしまったからにはどうしようもない。自分よりも物を知っている文香が黙ったのだ。自分が何か言っても潰されて終わるだけだ。

 ここはもうただ従う、それだけが正解。

 一華の膝の上では何も知らない田中がぐっすりと眠っている。よく見れば田中と少女は似ている。顔が似ているとかそういうものではなく、雰囲気が似ている。


 眠る田中に向けて微笑む一華、その表情には微笑んでいるというのに一切の温かみを感じない。

「よかった、本当に」

 何が良かったのか、自分にはわからない。

 能力の代償がないことが『よかった』のか、それとも何か違う『よかった』なのか。

 好夫も詳しいことはわからない。

 けれど文香に教えられた『何かを得るのにその代償が必要である、車を動かすためのエンジン然り、だからその現代科学では説明のつかない力を行使するために代償が必要である』ということには妙に納得ができていた。

 実際、好夫も自身を増殖させることで血液が必要になるということを、身をもって実感している。


 じゃあおやすみ、そういうと彼女は田中を揺り起こし布団へ入ることを促す。見た目と同じ無邪気な声。無邪気な表情、先ほどまでとは全く違う。

 好夫は生まれて初めて感じるような気味の悪さと恐怖を感じた。文香も不安そうに好夫を見つめた。自分が得体の知れない化け物に首輪を着けられリードを握られているということだけははっきりと理解した。

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無敵の人と少女たち。 無敵之人 @ichiikun_ginjyou

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