僕の散策姫

小川

第1話 LOVE LETTER

 ひんやりとした秋の薫りが心地よい。甲高い鹿の鳴き声が、早朝の奈良公園にのびのびと響いた。

 朝が早いために観光客の姿はまだなかった。そんな奈良公園が、僕にはどこか異世界めいて見えた。

 小高い丘のようにも見える若草山が陽光に染まりとても綺麗だった。鳥の鳴く声が聞こえる。

 僕は待ち合わせの場所へ向かった。左側に軒を連ねる土産物店は、まだどこもシャッターが閉まっていた。右側に林立した松の木は石畳の上にかかるように斜に伸びており、大きな松の木の向こうにさらに大きな南大門が見えた。

 奈良公園を訪れる人の多くは本尊のある大仏殿に向かうのだが、必ずと言って良いほど、この南大門をくぐることになる。観光客がいないと石畳を踏む自分の足音がよく聞こえた。

 南大門で僕を待つ彼女は遠くからでもよく見えた。彼女以外に誰もいなかったから。雲一つない秋空を気持ち良く染め出した朝日は、凜と佇む彼女の背中を美しく照らしていた。その人は門の脇に立つ仁王像の一体、阿形に背を向け、阿形の真向かいに立つ仁王像のもう一体、吽形と同じ顔をして僕を待っていた。近づくと向こうがこちらに小さく手を振ってきた。白色のブラウスにチェック柄のワイドパンツを合わせ、上から薄手のコートを羽織る彼女は、全体的にブラウンカラーで統一され、とても秋らしい装いをしていた。

「おはよう」

 ベレー帽の下で生駒いこま紫園しおんの長い睫がひらりと踊ると、目尻がやや下がった大きな瞳がこちらを見据える。今朝のようなあまりに整い過ぎた舞台の中にいれば、ますます彼女は文学的な女性だと思ってしまうのはなぜだろうか。

 好奇心や快活さが見て取れる割にはしとやかさを纏ったいつもの目は矛盾しているようだ。彼女の瞳から受けるそんな印象は、その丸みや大きさからというよりも、もっと内包的な人柄から来るものだろう。大学は違うが同じ一回生の彼女は、一応化粧はしているが薄らと塗っているだけだった。だからと言ってお洒落に気を遣っていないかと言えばそういうわけでもなく、彼女の服装や手入れの行き届いた軽くパーマの当てられた流れる茶髪は彼女のお洒落好きを物語っている。そこも矛盾だ。要するに彼女は随所に矛盾という二項対立を浮かび上がらせては、不思議と他人を引き付ける魅力を備えた人なのだ。こうして彼女の様相を活写すれば必ず文学的な女性になってしまう。

「ごめんな、しっかり用事も言わんと呼び出して」と生駒は謝る。

「よくあることだから気にしてない」

「良かった。早速やけど、これ見て欲しいねん」

 良かった……? と思いながら生駒が見せてきた紙ペラを僕は手に取った。B5程の大きさのその紙には手書きの文字が並んでいた。


 あなたはとてもかわいい。私はあなたに夢中です。大変恐縮ではありますが、私と会って頂けませんか。わたしは待ちます。護国寺の仁王像の前で。私には時間がない。月曜日の午前八時にわたしは待っています。


「この手紙がな、お店の投函口に入れてあったんやって。昨日バイトに行ったら犬神さんが渡してくれた」

「なるほど」

「ほんでな、犬神古書店の従業員は犬神さんだけやし、バイトも女子はウチだけやんか」

「そうだね」

「となると、この『かわいい』ってウチのことやん」

「安直だね」

「はあ?」

「ごめんね」

「というわけやから、ウチはラブレターのお返事に行かなあかんようになりました」

「一人で行けよ」

「はあ?」

「ごめんね」

「これなあ、読んだんやけど、どこに行ったらええか分からんねん」

 と言われ手紙を読み返したが待ち合わせ場所なら書いてある。

「書いてあるじゃん。護国寺の仁王像の前って」

「翔路君、あんた大丈夫?」 

 と訊ねる生駒の顔は僕を試しているようだった。そうだ、僕はきっと大丈夫じゃない。俗に言う「大丈夫な人」ならこんな朝早くから東大寺なんかに来ないだろう。大学で水産学を専攻する僕はどうもこういう文章読解の話になると、英文科の彼女よりも劣る。そもそもこれが単純な文章ではなく特別な「読解」を要するものだと今生駒に指摘されて気づいたくらいだ。

 少し考えた。そしたら存外単純なことだった。

「仁王像はここにあるけど、ここは護国寺じゃないな」

 僕がそう言うと生駒は満足そうに頷いた。心なしか見上げた阿形が彼女の背後で笑っているように見えた。さらに今日の僕は冴えていた。きっと爽やかな秋風と早起きのおかげだ。

「これってもしかして『夢十夜』に出てきたアレか?」

 この発言には生駒も驚きを隠せないようだった。高校の現文の時間にやった小説なんてよく思い出せたと自分でも驚いたわけだが、それは高校一年の秋頃にやった単元だったからだと思う。秋の匂いが忘れかけていた当時の記憶を思い出させてくれた。

「翔路君、冴えてるんやんか! そうやで。これは夏目漱石の『夢十夜』の『第六夜』に出てくる言い回しや。

《運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるという評判だから、散歩ながら行ってみると、自分よりさきにもうおおぜい集まって、しきりに下馬評をやっていた》っていう冒頭の文章に出てくるやつや。

 要するになあ、ウチのことめっちゃ好きになってしまったその人は、ウチが本好きや言うのをよお分かっとって、Romanticismロマンティシズム なお誘いをしてきはったわけや!」

 ロマンティシズムの発音がやたらと良かった。流暢な英語が唐突に出るのは、英文科の彼女が至極興奮している証拠である。変わった人だ。

「じゃあ、その護国寺はどこにあんの?」

「東京」

「トーキョー? 今から行くの? 行ったって、八時には間に合わないでしょ」

 僕はスマホの時計を確認する。六時五十八分。

「行くわけないやん」

「じゃあ、これからどうすんの」

「それを解決してもらうために翔路君は呼ばれたんやで」

「それで『おう、まかせとけ』とはならないよね」

「一応言っておくと、近くに護国神社っていうのはあるで」

「でも護国寺は『寺』で護国神社は『神社』でしょ。ちなみに護国神社に仁王像は」

「いてません」

 生駒はキッパリと言った。ここで僕たちの会話は途絶えた。

 ……要するに。

「暗号めいたラブレターの謎を解いて、その人に会いに行く手伝いをせよと……」

「そやっ。ほな、頼むでっ」

「『頼むでっ』じゃねえよ」 

 僕が呆れると、生駒は笑った。とても無邪気な笑顔だった。まるで修学旅行に来た中学生を見ているようだった。

 頭を掻く。それから南大門の仁王像を左右交互に見る。正直僕は大学に来てからこの奈良公園には通い詰めていたため、この南大門をくぐる際にはもうこの像なんてノールックだった。改めて見るとやはり迫力がある。まるで生きているようだ。人間の形に掘られてはいるが、当然現実的な人のスケールからしたら規格外で、まるで人間とは思えないはずなのに、生きた人間のように見える。特別な知識のない僕はこれについて高尚な評価ができるわけではないが、とにかくカッコイイと思った。

 しかし同時に僕は思った。あまりにも迫力がありすぎて、僕の感覚からすればここを好きな人との待ち合わせ場所にするのは少し違う気がする。やはりもう少しラブレターの中には直接に書かれていない文意を読み取る必要がありそうだ。

「とりあえず『夢十夜』を読み直したい。さすがにこんなことにもなれば、文庫本の一冊くらい持ってるでしょ。貸してよ」

「今は持ってへん」

「どこに行けばあんの?」

「犬神古書店」

「じゃあ今から行って、ちょっと読ませてもらおう」

「えっ?」と突然生駒が目を丸くした。

「えっ?」

 僕も思わず同じような顔をしてしまった。すると彼女は悪戯っぽく笑った。その時の僕には彼女が何を考えているのかさっぱり分からなかった。



 奈良公園から少し離れた町の商店街の一角に犬神古書店はある。離れていると言っても十分徒歩圏内で、商店街には観光客も少なくないため、その店には時々外国からのお客さんもやって来る。背の高い書棚が並ぶ古書店にはまだ客の姿はなかった。時刻は朝七時三十分になろうとしている。

「おおきに。それ最後の一冊やねん」

 丸い眼鏡の奥で、もじゃもじゃとした灰色がかった白髪が印象的な犬神さんの優しい瞳が笑った。僕も笑顔で品物を受け取る。僕は別に客になるつもりはなかったのだが、店主と笑顔で売買契約を結んでしまった。生駒紫園というアルバイト学生は非常にちゃっかりしている。僕に本を買わせた。別に高い買い物というわけでもなかったし、高校以来読んでいなかった『夢十夜』をもう一度ゆっくり読み直したいという気持ちもあったので、今回は大目に見ることにした。

 犬神さんが小さな丸椅子を二脚用意してくれた。僕たちは狭い店内の角にスペースを見つけて座った。犬神さんは特等席のレジに座って、早速うつらうつらとしはじめた。僕たちの足下に滑らかな茶色い毛が綺麗な猫がやって来た。慣れた具合にぴょんっと生駒の膝に乗る。

「まちゃー、おはよー」

 生駒はまさに猫撫で声を出した。僕はパラパラと手元の文庫本を捲る。例の節が出てくる『第六夜』を読む。店の外で風の吹く音がする。ついでに風鈴の音もする。いわゆる一年中片付けられない風鈴の音。

 うん。そうか。なるほど。つまり……

「はい、はい、はい、はいっ!」

「何か分かったん?」

「いや、なにも」

「なんやねん」

 第六夜は頁数で言うと三頁にも満たない量なのですぐに二、三度精読することはできたが、どうやら物語の内容と手紙の内容とは関係ないように思えた。

「きっと物語の内容とは関係ないよ。そもそも文庫本片手に読まないといけないラブレターってどんなだよ。もしそうだとしたら、よっぽど自分の知性をひけらかしたいんだよ、そいつは。そんな奴に好かれたってしょうがないでしょ」

「別に好かれたいなんて思ってへんし」

「じゃあ、もし会えたらどうすんだよ」

「そのために翔路君を連れてくやん」

「はあ?」

「それより、他に何か分かったことないん?」

「手紙の内容ばかり気にしていて、スルーしてたけどむしろ筆跡の方が色々なことを物語っているような気はするね」

「正味、綺麗な字とちゃうよな」

 生駒の言う通り、手紙の筆跡はとても綺麗とは言えなかった。ボールペンで丁寧に書いてはいるが、その割には本来あるべき箇所に跳ねがなかったり、またその逆で不自然な払いがあったりする。

「賢い人やったら、もっと綺麗な字を書けそうやな」

「案外、賢い人って字が汚いよ。ほら、僕の字も汚いでしょ」

「ああ、一気に説得力なくなったわあ」

 その時僕はもう少しで何かに気がつきそうだった。

 開けっぱなしの扉から、BGMのような街の雑踏が聞こえてくる。何の音なのか判然としない空気の微動が脳細胞に恒常的な刺激を与えてくる。あともう少しで仮説が立つ……。

 店内に秋風が迷い込んだ。古書の薫りがふわりと立って、遅れて香水の良い香りがした。一瞬生駒が香水でも着け始めたのかと思ったが、すぐに違うと気がついた。――これは欧米人特有の香り。

 ふと顔を上げると古書店の入り口にブロンドの外国人女性が立っていた。背は百六十センチ後半といったところだろうか。少なくとも生駒よりは高いように見える。

「いらっしゃいませ」

 いつもの癖なのか、生駒がまちゃを抱きかかえたまま立ち上がり挨拶をした。その女性は日本人らしく頭を小さく下げ、それからぐるりを見回した。彼女は一瞬こちらの方を見た。すかさず生駒が“May I help you?"と声をかける。その若い白人女性は“Thanks, but no thanks"と丁寧に断り、こちらに微笑みかけた。

 暫く店内を見て回った彼女はもう一度こちらの方を向き、笑顔で頭を下げて出て行った。去り際、生駒の言葉に便乗して僕も“Have a good day"と言っておいた。

「あれ、どないしてん? 翔路君あの人のことめっちゃ見るやん! 確かに若くて綺麗な人やったけど、あんまりお客さんのこと見てたらここで働かれへんで」

「だから働くつもりはないって」

 確かに彼女のことを凝視してしまったことは否定しないが、だからと言って生駒が想像するようなことは考えていない。第一、古書店にそんなにアルバイトはいらないだろう。ここはただでさえ狭いのだ。

「あの人、また来たねえ」

犬神さんがボソッと呟いた。

「えっ、そうなの?」

僕は露骨に驚いてしまった。犬神さんの記憶力の良さは前から知っていたが、僕が驚いたのは、あの外国人女性が以前に来たことがあるという事実に大きな意味があるように思えたからだ。

「この間来たとき、あの人が『夢十夜』を探してるって言うから、外国人さんが珍しいなあって思ったんや」

「えっ、これ?」僕は手に持っていた文庫本を掲げた。

「そう、だからその本は、あのお嬢さんに言われて最近私の本棚から持ってきて並べたばっかなんや」

「えっ、じゃあ……」

僕はなんとなく生駒の方を見た。すると生駒は膝の上にまちゃをのっけたまま、

「走れ!」

と、にこやかに店の外を指差した。

 僕は言われるがままに走ったが、結局彼女は見つからず、それから数分後店に戻ると、あの外国人の女性と入れ違いになるようにして一人の若い男性が入って来た。その人のことはよく知っている。僕の大学の一年先輩でもあり、かつ生駒のバイトの先輩でもある大学二回生の世耕せこうたがやすさんだ。長身の世耕さんは短髪でキリッとした眉毛が印象的な人だ。寡黙だが喋ってみれば、中々機知に富んだ面白いことを言う。一つ年が違うだけなのに、もしスーツなんかを着たらずっと年上の社会人にしか見えないだろう。今日はこれからシフトに入るらしい。

 僕たちは世耕さんに手紙のことを話した。何か知恵を貰おうと思った。しかし今日の世耕さんはいつにも増してやけに無口だった。僕たちの話を聞き、手紙を一読するとそれ以上何かを言おうとはしなかった。

 しかし、その反応も僕には想定内だった。この時にはもう何となくことの真相が読めていた。

「待って! 気づいたら八時までもうあと十分しかないで!」

 さっきからソワソワしていた生駒は遂に目に見えて慌てだした。

 まあ、落ち着くと良い。

「じゃあ、会いに行こうか」僕は言った。

「えっ!?」喜びとも驚きとも取れる生駒の素っ頓狂な声がした。

「で、どこ行ったらええの?」

「そりゃあ、もちろん護国寺の仁王像の前だよ」

 僕がそう言うと、生駒はもちろん、世耕さんも僕の方をじっくりと見てきた。


 僕たちは小走りで待ち合わせ場所まで向かっていた。生駒の揺れる髪が秋風に流れる。なんだかんだで生駒とこうやって走ることは多い。しかし今回は世耕さんも一緒に走っているのが面白い。

「で、なんでその人はそこで待ってんの?」

 少しだけ乱れた呼吸の間隙から明瞭な生駒の声がする。

 僕は手紙の内容を暗唱する。

 ――あなたはとてもかわいい。私はあなたに夢中です。大変恐縮ではありますが、私と会って頂けませんか。わたしは待ちます。護国寺の仁王像の前で。私には時間がない。月曜日の午前八時にわたしは待っています――

「よお覚えたな」

「まあ、英語と対応させて覚えたからね」

「英語?」

「英語訳してみなよ。まず――あなたはとても可愛い」

「You're so pretty」

「それをもう一度日本語に直してみなよ」

「なんでや? そんなん『あなたはとてもかわいい』やろ」

「他の訳し方もできるんじゃない?」

 さすが生駒は英文学が専攻なだけあった。

「あっ、そうか! “pretty”って英語圏やったら可愛いって意味だけやない。そやから“You're so pretty”は『あなたはめっちゃカッコイイ』って意味にもなるなあ!」

「そうつまりあれは必ずしも『かわいい女性』に対して向けられた表現とは限らない。そしてあの手紙の筆跡からは、外国人が書いたという可能性がいくつか読み取れた。

 まずあの手紙の筆跡が乱れていたのは、普段日本語を書き慣れない人物が見よう見まねで書いたものだったから。そして手紙の原文は英語だった。だから『あなたはイケメンだ』と言う意味で“You're so pretty”とスマホのアプリか何かで通訳検索したところ『あなたはとてもかわいい』というポピュラーな日本語訳が出てしまった。『私はあなたに夢中です』なんて表現も、いかにも欧米人って感じじゃないか。

 それから漢字や文体に一貫性がない。『大変恐縮ではありますが』なんていう堅い表現もある一方で、急に文末の敬体が常体になったりしている。そして『わたし』という字が漢字になったり平仮名になったりしていた。きっと日本語訳をしている最中に通訳のアプリやサイトを変えてみたりしたんだと思う。目に見えて変な訳だと思ったときに、翻訳アプリを変えることは誰でもよくやることでしょ。だから表記に一貫性がなかったんだ。日本語の文法をよく理解していたら、漢字もしくは平仮名で統一することもできただろうけど、よく日本語が分かっていなかったら、この文章では漢字だけどこっちの文章では平仮名で書くのかな、みたいな可能性を考えてしまったんだと思う。

 そして待ち合わせ場所の『護国寺の仁王像』は本人も間違えた」

「えっ?」

 生駒は抑揚がかった変な声を出した。正直僕もここの推理にはあまり自信がなかった。しかし、来日するほど日本に興味があって、でも日本語を理解していない外国人ならやりそうなミスだった。日本人の僕でさえやりかけたミスなのだから。

 若草山が見えてきた。鹿に餌をやる中国人観光客も現れはじめた。鹿はよほど人慣れしているのだろう。こうやって僕たちが走っていても、全然驚く様子もない。

「きっとその外国人は英語版の『夢十夜』を読んで仁王像のことを知った。そして実は護国寺が東京にあるものだなんて想像もせず、小説の額面そのままに意味を受け取ったんだ。護国寺は奈良公園ナラパークの別称くらいに思ってたんじゃないかな。それが間違えだと訂正したり、気づかせたりしてくれる友達がいなかったとことを考えると、もしかしたらその人は一人で日本に来ているかもしれない」

 南大門に向かう真っ直ぐ延びる最後の直線にさしかかった。石畳が延びる歩道の脇には土産物店や露天が並ぶ。時計を見ると午前八時。待ち合わせの時刻になってしまった。まだまだ観光客も多くない。僕たちはさらに足を速めた。

「そして手紙の差出人は『私には時間がない』と書いている。これは――」

「飛行機の時間」

 生駒が僕の言葉を継いだところで、僕たちの足はゆっくりと止まった。両脇に仁王像を構える東大寺南大門の中央にその女性は佇んでいた。その人が手紙の差出人であることはすぐに分かった。カールしたブロンドが美しいその白人女性は僕たちの方――世耕さんを見つめると、ほっと相好を崩した。その女性はさっき犬神古書店に来た彼女だった。


 日が高くなり、奈良公園も活気を帯びてきた。僕たちはその外国人の女性と少し言葉を交わした後、世耕さんとその女性を二人だけにしてその場を離れた。ベンチに座る二人を遠くから見る僕と生駒には、二人の間になされている会話が分からなかった。

「あの人、さっき世耕さんに会いに犬神古書まで来たんやって。すごい勇気だと思わへん? めっちゃドキドキしたと思うで」

 そう言って生駒は美味しそうにチョコレートソフトを一口食べた。

「僕には分かりかねます」

 本当に分からなかった。寂しい大学生だと自嘲したくなる。僕は遠慮したが、生駒がソフトクリームを食べる様子を見ていると僕も無性に食べたくなってきた。

「食べたいうたって、あげんで」

「別にいらん」

「あっそう」

「残念だったね。紫園ちゃんのことがだーいすきな人からのラブレターじゃなくて」

「ぜーんぜんっ。はじめっから期待なんかしてへんし」

 ここで英語を話せる生駒が数分前にあの外国人と生駒たちとの間で交わされた会話の内容を教えてくれた。あの外国人は観光で奈良に来ていて、以前祖国で読んだことのあった『夢十夜』の本を捜して、ふらっと犬神古書店に立ち寄ったそうだ。そしてバイトをしていた世耕さんに一目惚れをしてしまい、話しかけようとしたのだが、そこで日本の女性はということを思い出したらしい。積極的に話しかけることは避けつつ、かつ自分の気持ちを伝える誠実な方法を考えたところ、それがラブレターだったようだ。

 と、ここまで聞いたところで僕は世耕さんの元へ駆け寄った。そして渡すものを渡し、再び生駒の隣に戻って来た。

「本を渡すなんて、ええことするやん」

「まあ、安かったしね。おっ、世耕さんたち連絡先交換してるじゃん!」

「わあ、ほんまやあ」

「世耕さんのくせに生意気だな」

「あんたがな」

「生駒はあそこでイケメン外国人と連絡先を交換したかったかい」

「あんなあ、ウチのことをいくらだいすきーな人でも、ウチは連絡先を教えるつもりもなかったし、ノーと言うつもりでもおったわ」

「あんなにノリノリだったのに?」

「言うたやん。翔路君を連れてくって」

「だからそれどういうこと」

「そやからあ――わっ」

 生駒が何かを言いかけたところで背後から鹿がやって来た。ベンチに座る僕たちと鹿の目線は丁度同じくらいの高さになる。僕たち二人はベンチからパッと立ち上がった。鹿はどこで覚えたのか(勿論ここでだが)、餌欲しさに激しく会釈をしてくる。確かにそうやって餌をせがんでくる鹿は可愛いが、さすがにアイスはあげられない。生駒はごめんなあと仕切りに謝っていた。

 丁度その頃、世耕さんたちも話が終わったようで、僕はベンチから立ち上がった。世耕さんと外国人のその女性は互いに会釈をして、世耕さんは僕の渡した漱石の短編集を彼女に手渡した。何度も頭を下げるその女性の姿が、隣で生駒に向かって何度も餌をせがむ鹿の姿と重なった。

 二つの会釈の意味はは滑稽なほど違っていたのに、世耕さんも生駒もとても良い顔をしていた。それがまた滑稽だった。

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僕の散策姫 小川 @0729ogawa

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