第3話


 翼人よくじん──背中に羽の生えている、空の上に住むといわれる種族。かつては地上の人間と共存していたが、争いを境にその縁を隔てた。

 人間は地上で暮らし、翼人は空へ還った。


 それがこの世界に伝わる伝説だった。

 彼女は誤って空から転落したのだと言う。


「よく…じん…だって?そんなばかな…。それは伝説上の話だろう?それに君の背中には…」


「地上に降りると羽は背中に隠れるみたいなの」


 彼女は自分の背中の方を見やる。

 愕然としながらも、私はある事実に気づいた。


「それじゃあ君は、記憶を取り戻していたのか…?」


「つい最近。この塔を見るたびに、とても、なにか大切なことを思い出さなくちゃいけないってずっと思っていたの」


 彼女の瞳は嘘をついているようには見えない。

 苦しそうな表情はそれが真実だと訴えているようだ。


「私は在るべき所へ帰らなければ。…だから、あなたとはもう居られません」


「そ、そんな…!子供は!子供はどうするんだ!もうすぐ生まれるんだろう?!」


 真っ直ぐに私を見つめていた海色が、初めてそらされた。


「この子は翼人の子。地上に居てはいけない」


「それはおかしい。その子は私たちの子だ。人間と、翼人の」


 彼女の瞳が揺れる。

 それを見て、私はなんとか留まるように説得し続けた。

 しかし、どれだけ言葉を、想いを伝えてみても、彼女の意思は揺るがない。


「この塔は『道』と呼ばれるもの。その名の通り、空と地上を繋ぐ道なの。私たち翼人は決っして近づいてはならないと教わってきた…」


 背後にそびえ立つ塔──『道』を振り仰ぎながら彼女は続ける。


「私たちは本来、出会ってはいけなかったのよ」


「そんなことがあるものか!私はこの奇跡のような出会いに心底感謝しているというのに!」


 憤然と声を荒げた。

 それに呼応するように、彼女の瞳が揺らめいているように見えた。

 寄せては返す波のように。

 その波が溢れ落ちないよう、彼女も声を大きくして答えた。


「それは私も同じだわ!だからこの子が存在するの!」


 私たちはしばし互いの瞳を見つめ合った。

 まるで、この時が止まってしまえばいいとばかりに。


 それから彼女は語った。翼人が地上にいることでどんな危険が起こるかを。

 伝説の翼人として見世物にされる可能性、子供が羽を生やしたまま生まれてしまう可能性、翼人の存在により、再び世界に争いが起こる可能性。


 すべて可能性に過ぎない。しかし、だからと言ってこのまま翼人と、さらに人間と血を分けた子供が地上で暮らすのは危険だということは理解できた。

 なにより、彼女の答えはもう出ているのだ。

 気がつけば私は彼女を子供ごと抱きしめていた。


「忘れない。君のことを…ずっと」


「私も…ずっと、ずっと──忘れないわ」


 ゆっくりと身体を離し、もう一度見つめ合う。

 眩い金の髪に海のように青い、青い瞳。

 目に焼き付けるように記憶する。


 私は、彼女を、忘れない。

 生涯、忘れることなどできないだろう。


 やがて彼女は塔へと歩いてゆく。

 その入り口の前で、最後に振り返った。


「この子が生まれたら、あなたの名前をつけるわ。いいでしょう?」


 こんな場合だったが、思わず苦笑した。


「女の子だったらどうするんだ」


「いいえ。男の子よ。…そんな気がするの」


 愛おしげに腹部を撫でる彼女の微笑みを胸に刻む。それはもう、母親の表情だった。


「元気な子を産んでくれ。そして、君も」


「ええ。もちろん。あなたも」


 元気で、とお互いに告げる。


 そして、細い身体が塔の中へと消えた。

 その直後、強烈な光が塔から大空へとほとばしった。

 あまりの眩しさに目を開けていられない。


 ようやく光が収まった頃には、彼女の姿はどこにも見えなくなっていた。




 ***




 人里離れた森の中の自宅から、特に用もないのに歩いて街へおりる。

 それが最近の私の日課になっていた。

 いい運動になるのである。


 すっかり乏しくなった頭に、古ぼけた帽子を被る。どんなにぼろぼろになろうと、これだけは手放せなかった。


 何をするでもなく、ゆっくりと街を見てまわる。

 こんな風に眺めて歩くのも悪くはないと感じるようになっていた。


 ふと、目に止まった子供服を売っている店の前で立ち止まる。


 あのまま暮らせていたら、どんな子供が生まれていただろう。どんな生活をしていただろう。

 ひょっとしたら孫もいる頃かもしれない。


 などと、取り止めもないことを考えていると、女性が私の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 聞き覚えのない声に疑問に思いながら振り返ろうとして、同じく隣で子供服を見ていた若い男性と目が合った。


 心臓が止まったかと思った。

 若き日の自分が、そこにいた。

 いや、よく見れば髪は金に近い明るい茶髪だし、瞳の色だって違う。

 しかし、その癖のある髪は鏡に映るかつての私のようだった。


 その男性も、青い瞳を見張って私を見つめていた。

 深い、深い海のような青い瞳を。


 固まった私たちを尻目に、女性がもう一度名前を呼ぶ。

 今度は男性の方がちゃんと返事を返した。


「すみません。あなたの名前でしたか」


 軽く頭を下げてみせると、若者は気にしない、というように微笑を浮かべた。

 その微笑みを残しながら、彼は黒髪を長く伸ばした女性の元へ歩いてゆく。

 私はしばし、若い二人の後ろ姿を見つめていた。

 いつかの自分たちを思い出しながら。


 人混みに二人の姿が消えると、私も自宅へと歩き始めた。

 若者の微笑みを、空の彼方の彼女に重ねて──

 案外、彼女の予想は当たっていたのかもしれない、と一人ほくそ笑んだ。




 <終>

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翼人物語 marushi SK @marushi-sk

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