第2話
彼女との生活は素晴らしいものだった。
今までの人生の中で一番輝いていた時だろう。
最近では私が狩に出た際に、彼女は家の近くに作った畑で野菜を収穫し、帰宅する頃には食事を作って待っている。
まるで普通の夫婦のようだ、などと思っていることは私だけの秘密だ。
記憶は相変わらず戻らないが、ささやかな日常を楽しんでいた。
私たちは時折街におりる。
森で取れた野草、狩りで得た獣の肉や皮などを売り捌くためだ。
そのわずかな収入で日々を暮らしているのだ。
初めて街に向かう際は、身だしなみについて彼女と一悶着あった。
そもそも、彼女の衣服をなんとかしようと思い立ったからなのだが、なんと彼女は私の伸びきった髪やろくに手入れされていない髭を切らせてくれと言い始めたのだ。
巻き毛の茶髪を肩のあたりまで切ってもらい、一束にまとめた。
髭も剃刀ですべて落としてしまうと、彼女はとても驚いた様子で私の顔を見た。
「ごめんなさい…私、もっと歳上の方だと思っていたわ…」
髪と髭でろくに顔が見えなかったのだ。無理もない。
これでも私は三十路前なのだ。
ようやく年相応の外見に落ち着いたところで、ひとまず彼女に外套を着せ、街へ赴いた。
初めて街を見た彼女は、信じられないものを見たような顔をしていた。
「ここにはこんなにたくさんの人が暮らしていたのね…。あれは何?あのお店は?」
街に来ればひょっとして記憶を取り戻すきっかけになるのではないかと思ったが、どうやら見当違いだったようだ。
おそらく彼女はこの街の住人ではない。
では、一体どこからやって来たというのか。
「ねぇ、あの向こうに見えるのは──」
彼女が指差す。
太陽の光を受けてきらきらと輝く海。
それはまさに今、彼女の顔の上できらめく双眸と瓜二つだった。
「海だ。君の瞳と同じ色の」
「うみ…」
まただ。
初めて聞く言葉のように、噛みしめるように反芻する。
「素敵ね。とってもきれい。…私の瞳の色って言った?」
「あ、あぁ。君の海色の瞳も、とても──」
自分は何を言おうとしているのだろう。
彼女の瞳を見つめていると、そのあとは尻すぼみになって言葉にならなかった。
「ありがとう。私もあなたの森の色をした瞳、とても素敵だと思うわ」
彼女がそう言って微笑を浮かべる。
鼓動が跳ね上がった。
そのあと、彼女に合う服を買い、私は帽子を買った。彼女が選んでくれたものだ。
これで二人とも、少しはましな格好になったわけだ。
そのあとは二人で街を見てまわった。余分な物を買うわけではない。ただ、喋りながら、店内を見ながら、ゆっくりと歩いているだけだ。
初めての経験だったが、不思議と穏やかな気持ちになる。
彼女が隣で歩んでくれるのが、こんなにも心が震えるほど嬉しい。
このまま、彼女の記憶が戻らなくてもいい。
そんな傲慢なことさえ考えてしまう。
愚かな自分に辟易する。
彼女の笑顔に微笑みを返しながら、時間の許す限り店をめぐり歩いた。
「赤ちゃんができたの」
共に暮らし初めて一年ほどが過ぎていた。
すっかり二人でいることが自然になった頃、彼女が口を開いたのだ。
私は心から祝福と感謝を送った。
まったく夢のようだった。
まさか自分が親になる日がこようとは。
この頃が私たちにとって一番幸せな時期だった。
そんな日々を過ごしている中、彼女は窓の外に見える塔を、ぼうっと眺めている時間が増えた。
どうかしたのかと問うてみても、なんでもないと答えるばかりだ。
出産が不安なのだろうか。
一時が過ぎればいつも通りに振る舞うため、そんな風に考えていた。
もちろん、こんな経験は初めてだから、なにをしてやればいいのかさっぱりだ。
ただ、無事に生まれてくれるのを願うのみだった。
あっという間に時が過ぎ、彼女のお腹が目立ってきた頃、彼女は私を連れて丘の上の塔へとやってきた。
森が途切れ、開けた広場に建つ白い塔の外壁は草や蔦に覆われている。
入り口はくり抜きになっていて扉などの類は付いていない。中の広さは大の大人が十人ほど入ればいっぱいになってしまう。
塔というより大きな煙突のようなそれの床には、よくわからない紋章が黒く印されていた。
彼女は大きくなった腹部を険しい顔で撫で──おそらくそれは重さのためではなく、これから伝える言葉のためだ──私を真っ直ぐに見つめた。
「あなたに言わなければならないことがあるの」
重々しく口を開いた彼女は、一つ深呼吸をして震えを抑えようとした。
「私は、もうあなたと居られないの」
「何を…言っている…?」
突然のことに呆然とするしかない。
身動きできなくなった私に追い討ちをかけるかのように彼女が言葉を続ける。
「──私は…
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