最終話
殺虫剤があるならもう怖いものはない。
しかし、その前に確認したい。
「そんなけったいな服、どっから持ってきたん?」
先に母がその質問を父にぶつけた。防護服越しで顔が見づらい父だが、どこか機嫌良さげに答えてくれた。
「さっきホームセンターで買ってきた。もちろん殺虫剤もね」
「ああ、それで。下からテレビの音も何の音もせんと思ったら」
父は父で考えて動いてくれたらしかった。防護服まで買うのは予想外だったが。
「本当は駆除業者を呼ぼうか悩んだけど、それまで蜂に居座られるのもお父ちゃん嫌だったからさ」
「蜂一匹で駆除業者はやりすぎやって!?」
私に言えた義理ではないかもだが、小心すぎな父もある意味ぶっ飛んでいる。
「まぁ、でもこれで刺される心配はないからお父ちゃんが蜂を追い出すよ」
防護服で真っ白な父は殺虫剤が入った袋を見せびらかすように掲げてくる。
あれほどビビってたのにと思いはしたが、申し出自体は心の底からありがたかったので、私と母は譲るようにドアの前を退いた。
だって、さっきは刺されても本当におかしくなかったのだから。
「じゃあ行ってくる」
頼もしい言葉を残して父は部屋に突入する。しかし数秒も経たないうちにドアが開かれ、父が戻ってくる。
「なんか入った瞬間、蜂が顎をカチカチ鳴らしたんだけど、あれすごく怒ってない?」
若干青褪めてる父に、なんのために防護服を買ったの?という問いかけをしたくなったが流石に喉奥にしまいこむ。蜂を怒らせた原因に心当たりがありすぎた。
「防護服やし別に大丈夫やないの?」
「ああ、そっか。そういえば大丈夫か」
「お父ちゃん抜けてんなぁ。今度こそしっかりなぁ」
「おう、頑張る」
母の声援を受けた父、ドアノブを握って勢いよく回す。そして一時停止して、ほんの僅かな隙間を開けて中を覗き込もうとする。
それから動かない。
「あとちょっとだけ心の準備していい?」
こちらを振り返った父、完全に萎縮しちゃっているようだった。
数十秒後、部屋に父が慎重に侵入する。
刺激しないことを念頭に、ゆっくりした動きで蜂がいる天井の付近へ近付いていく。その様子を私は母と一緒に若干開いたドアの隙間から眺めながら応援していた。
蜂はじわりと近づく父を認識したようで、威嚇するように羽根を鳴らす。
スローな動きの父の緊張が伝わってきて、私の心臓も鼓動が早い。
一度、殺虫剤が振りまかれれば、部屋の中は瞬時に危険地帯と化すだろう。
そうなればもう見守る私たちにはもう手助けのしようがない。だが勇気を振り絞った雄姿を見届けようと決めていた。
毒針で以て襲いかかる黄色と黒の暴虫をいかに安全に仕留められるか、追い払えられるかは全て短時間の奮闘にかかっている。
そして遂に父が殺虫スプレーの射程に蜂が入る位置まで辿り着いた。
「お父ちゃん大丈夫なんかな」
「やるときはやる人やからちゃんと見とき」
母の自信に後押しされるように父がこちらを振り返り、力強く頷いてみせる。ついに交戦するときが来たらしかった。
父が素早く防護手袋に包まれた手をビニール袋に突っ込み、殺虫スプレーを掴み取る。
即座に噴射口を目標に向け、狙いを固定。
そのまま放たれるジェット噴射が蜂に襲いかかる。
「「「…………」」」
はずだった。
「あれ?」
不発のスプレーを確認する父。新品の殺虫剤にはまだ包装ビニールが付いていた。
「やらかすときはやらかす人やからなぁ、お父ちゃん」
「そんな場合やない!」
袋の中身ちゃんと確認しとけば良かったなんて思いながら私は部屋に飛び込む。
今の父の防護手袋じゃあの包装は破けない。蜂が動き出す前に噴射させなきゃと思考がいっぱいだった。
ちなみに父を廊下まで戻らせて仕切り直させたほうが断然安全なのだが、このときは一切気が付けなかった。
「杏子、戻っとけ!? 危ないぞ!」
慌てたように父が言う。その時すでに私はビニールを裂き始めていたが、迫る虫の羽音に気付いて我に返る。
蜂が一直線に飛んできていた。
「あっ」
刺される。
身の危険にやけに冴えた頭が無情な結論を下す。黄と黒の縞模様の後端にある毒針が一瞬煌めいたような気がした。
「……」
真っ直ぐ飛んだ蜂は、障害物である私を避け、部屋を一周旋回したあと、何事もなかったかのように窓の外へ逃げ出してしまった。
「……へ?」
思わず足から力が抜けて床にへたり込むまで、私は何が起きたのか理解することができなかった。
パタンと窓が閉められる。
「あー、良かったな。蜂は逃げてったよ」
「ほんま運ええわぁ。一瞬、杏子が刺されたかと思うて、ヒヤッとしたわぁ」
なんか平然と普段通りに戻っている父と母。えっ、そんなんでいいのと思うくらいあっさり片付けを始めちゃっている。
なんだろうかこの無常感。感傷やら達成感やらが尽く無視されたかのような理不尽感が私の胸で渦巻いていた。
「杏子、学校の宿題終わったん? もうすぐ日が暮れるからはよしいよ」
「わかっとるよ!」
そして例えようもない敗北感。どうしてだろう。嫌いな蜂は去ったというのに、もう刺される恐怖に怯えなくても良いというのに。
コレジャナイ感が強かった。
「お母ちゃん、晩御飯の支度、急がんとなぁ」
「じゃあお父ちゃんが防護服とかいろいろ片付けておくから杏子は勉強な」
「……はぁーい」
返事に無意識に溜息が混ざる。とにかく一つ分かったことがある。
私の休日の貴重な半日は、蜂という一匹の虫に散々弄ばれた挙げ句、潰されてしまったということだ。
ちくしょう……
――蜂なんか大っ嫌いだ!
部屋に蜂がいる! 瀬岩ノワラ @seiwanowara
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