甥で息子で、それから夫で

十八 十二

台所立ち入り禁止令

 井戸の縁に腰掛けて蝉の声に耳を傾ける。姉が恋に落ちた場所だからだろうか、煩い雑音も恋歌に聞こえるから不思議だ。

 木々の隙間から海が見える。茜色の光を弾いている。

 姉や父は元気にしているだろうか。顔が見たいなと思う。

 畑から戻ってきた夫のウガヤが戻ってきた。影が伸びている。

 さあ帰ろうかと縁に手をかけたとき、あたしは血を吸われていた。

 

「よいしょ……あ、蚊」


 手の甲に留まった蚊の腹は血で赤く膨らんで――。


「フンッ!」

 パンッ!


 認めるや否やあたしは掌底を振り下ろした。

 遺骸を確認するために手を退かしたが、そこに蚊の姿はない。


「くっそ。逃がした」


 もう蚊に刺されたところが腫れてきた。爪を立てて痒みを誤摩化す。

 蚊はまだどこかにいる。まだあたしの血を狙っている。絶対に生かしておくまじ。


 耳を澄ませて羽音を探す。雑音が多すぎる。

 ミンミン、ミンミン、ミンミン――。


「蝉うるせえ!」


 これだから夏は嫌いだ。日向は暑いし、影に入れば虫に刺される。いいことなんか一つもない。

 憤慨していると、ザルを抱えたウガヤがあたしの声をかけた。


「せっかく綺麗な夕陽なのに、なんでそんな怒ってるの?」


 苦笑混じりに問う声。彼の後ろに追てきた子供たちも不思議そうな目であたしを見上げている。


「別に、なんでもわ」

「ああ、確かにここは蚊が多いもんね。また刺される前に帰ろっか」


 あたしが無意識で手の甲を掻いているのに気がついたのだろう。ウガヤは微笑を浮かべて歩き始め、あたしも子供の手を引いて家路につく。


「母ちゃん、これから夜ご飯まで台所に入ったら駄目だからね!」


 玄関に入るや子供たちが口々に言う。

 毎年恒例の我が家の行事。今日は子供たちが夕飯を作ってご馳走してくるらしい。


 あたしも適当に返事して子供たちを風呂場に誘導する。

 一日中畑で野菜を収穫していた子供たちはかなり土で汚れている。汗もかいている。このまま食材に触らせるわけにはいかない。


 ウガヤと協力して服を脱がし、湯船に放り投げる。きゃっきゃきゃっきゃと騒ぎ合う声を聞きながらあたしは子供たちとウガヤの着替えを取りにいく。


 ついでに今日はウガヤの誕生日、そしてあたしが母になった日。

 あの日のことはいまでも鮮明に覚えている。

 そう、あれは、姉が嫁いで広くなった部屋で独り、人形を抱っこしてお母さんごっこしていたときのことだった。


−−−−−−−−−−−−−−−

 

「ね〜んね〜ん、ころ〜りよ」

 

 ガラガラガラと玄関が開く音がした。

 お父さんは家にいるはずなのにいったい誰だろうと玄関をのぞくと、お姉ちゃんが立っていた。


「お姉ちゃん!」

 

 そろそろ赤ちゃんが産まれるそうだ、とお父さんから聞いていたから、あたしはてっきり赤ちゃんを見せに帰ってきたんだと思って、お姉ちゃんの許に駆け寄ろうとして、あたしの足は止まった。


 何か変だ。

 お姉ちゃんは俯いていて、眼は泣いたあとのように腫れている。手ぶらで赤ちゃんどころか荷物すら持っていない。でも、大きかったお腹は元通りにへこんでいるから、赤ちゃんは産まれたはず。


 何かあったんだ。

 何があったの?

 訊きたい、でも訊いちゃいけない気がした。だけど結局あたしは我慢できなくて、ためらいがちにお姉ちゃんに声をかけた。


「……赤ちゃんは……?」


 お姉ちゃんの肩がびくんと震えて、顔を見せないように深く俯いた。

 やっぱり訊いちゃいけなかったんだと後悔した。泣いているんじゃないかと、顔を覗きこうとしたけれど、垂れ下がった髪のせいでどんな顔をしているか分からない。


「お父さん呼んできて」


 低くてどんよりした声だった。はじめ誰が言ったのか分からないくらい。

 あたしはすぐにお父さんを呼びにいった。違う。逃げたんだ。お姉ちゃんがお姉ちゃんじゃないような気がして、怖くなったから。


 お父さんがお仕事で使う部屋の襖を走る勢いのまま開け放つと、書き物をしているお父さんの大きな背中があった。


「こらー、仕事中だぞー」

 

 全然かっこよくないダラダラした声がこのときだけは嬉しくて安心できた。


「お父さん、お姉ちゃんが帰ってきたの」

「何!?」

 

 それからビックリするぐらい俊敏な動きになった。よっこいしょも言わず、スパッと立ち上がり、スタッと部屋を出て、あたしの後ろついてくる。山のように大きくて強いお父さんがそばにいると、だんだん怖さもなくなってくる。


 でも、居間で俯きながら座っていたお姉ちゃんを見たとき、胸の中にモヤモヤしたものがグルグルと渦を巻くような、そんな気持ちになった。


 お父さんがお姉ちゃんの隣にあぐらをかいた。あたしは近づけなかった。

 

「どうしたんだ、豊玉」


 顔を上げたお姉ちゃんの目は潤んでいた。お父さんの大きなお姉ちゃんの頭を包み込むように撫でたとき、お姉ちゃんの目から大粒の涙が零れた。お父さんがお姉ちゃんの頭を胸に抱きしめてあげると、嗚咽が聞こえた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」

 

 何度も謝るその声は、この前まで毎日聞いていたお姉ちゃんの声、だった。

 まだあたしの胸には、モヤモヤが渦を巻いていたけれど、氷のように固まった足が溶けたみたいに軽くなる。知らずに流れた涙は温かく、あたしはお姉ちゃんに抱きついた。すると、お姉ちゃんも優しく抱き返してくれる。

 耳元で聞こえた「怖がらせてごめん」という声も匂いもちゃんとお姉ちゃんだ。その上からお父さんの腕があたしたちを包み込んでくれる。


「何があったんだ」

 

 お姉ちゃんの涙が止まったころ、お父さんがもう一度優しい声で訊いた。


「見られたの、この姿を」


 涙を拭いながらお姉ちゃんがそう言った。

 この姿というのは、海の中での姿のことだ。あたしたち海の神は地上で暮らす神々とは異なった姿をとっている。えらがあってヒレがあって水かきがある。地上の方々から言わせれば、半魚人だろうか。

 お姉ちゃんは産屋に入る前に交わした夫のホヲリさんとの会話を教えてくれた。


「……出産中、私は人の姿を保てなくなる。だからホヲリさんと約束したの。出産中の私を見ないことって」


 お姉ちゃんは地上の神と結婚した。

 お相手のホヲリさんは、ニニギノミコト様とコノハナサクヤヒメ様を両親に持つ。ニニギ様はアマテラス様のお孫様で、サクヤ様はお父さんの親友のヤマツミ様の娘さんだ。血筋には何の問題もないどころか凄すぎる。


 結婚が決まったときは海の神皆を集めて連日宴会を催すくらいの騒ぎになった。お姉ちゃんが家を出て地上で暮らしたいと言ったときも、寂しかったけれど、そうするべきだとあたしも理解した。


 そうしてお姉ちゃんは家を出た。地上で息ができるようにえらを失くして、地面を歩けるようにヒレを足に変えて、物を掴みやすいように水かきを失くして。地上で暮らす神と同じ姿になって。


 でも出産中はその姿を保つ余裕はなくなる、らしい。それくらい痛くて苦しいんだとお姉ちゃんが言った。あたしにはどのくらい大変なのか分からない。

 

 あたしは自分の右手に視線を落とし、指の間の水かきを一瞬で消して、皮を指が白くなるくらいつねってみた。凄く痛いけれど右手は元の姿を保てている。つまり赤ちゃんを産むというのはこれよりも痛い思いをするのか。

 あたしが密かに驚愕していると、お姉ちゃんが言葉を続けた。


「でもあの人は約束を破って、それで、あの人、私を見て、悲鳴を上げて逃げた……!」


 お姉ちゃんが歯を食いしばっている。きつく閉じた目の端から涙がこぼれ落ちた。

 あたしはお姉ちゃんの気持ちを考えると悲しくなった。

 お姉ちゃんが一番傷ついたのは、約束を破られたでも、本当の姿を見られたからでもない。大好きな人が自分の本当の姿を怖がって逃げたことなんだ。


「それで独りで産んだのか」


 両手で顔を覆ったお姉ちゃんが頷いた。


「赤ん坊は」

「……陸の姿だった」


 あたしは息を呑んだ。お父さんが頭を抱えた。

 赤ちゃんは姿を変えられない。お姉ちゃんが赤ちゃんの姿を変えて海に連れてくることもできるけれど、もし赤ちゃんが何かの拍子に元の地上の姿に戻ってしまったら、そう考えるととてもできることじゃない。


 ならお姉ちゃんがまた変身して陸に行けば、と考えたけれどヒルコという昔聞かされた話を思い出せいて、だめだと気づいた。神の約束はただの約束じゃないから。


「母親役を誰かに頼まんとな」


 お父さんの一言で、お姉ちゃんの顔つきが変わった。

 ヤマツミに頼もう、アマテラス様に相談しよう、と真剣に話し合っている。

 置いてけぼりになったあたしはうんと考えた。そして閃いた。


「あたしが赤ちゃんのお世話する!」


 お父さんとお姉ちゃんがぽかんとした顔であたしを見る。そして二人とも優しい笑顔であたしの頭を撫でた。本気にされてないなと悟った。

 慰めたくていったんじゃない。笑わせたくていたんじゃない。あたしは本気だ。


「あたしに赤ちゃんのお世話やさせて!」


 お姉ちゃんが首を振った。もう一回言っても、あんたは子供だからって。また言っても、無理だ、できないって。


 そこからできるできないの言い合いになった。

 そのとき、何か考え込んでいたお父さんがパン! と一つ手を打った。


「よし、やってみろ!」

「ちょっと、お父さん!?」

「やったー!」

 

 お父さんが良いって言えば、お姉ちゃんはこれ以上何もいえない。

 あたしは喜んで、出発の支度をした。

 家を出るとき、お姉ちゃんがあたしを抱きしめてくれた。


「玉依、わたしのウガヤをお願い」

「任せて、お姉ちゃん!」


 あたしは海を出た。


−−−−−−−−−−−−−−−


 そして育てた甥っ子とまさか結婚することになるとはなあ。

 あたしはタンスから着替えを出しながら、変な笑みが零れた。


 どうして父が許しを出したのか。それは将来、この地をらす現人神の権威を強めるためと、それからあたしたちの海を蔑ろにさせないためという打算からだと、父はあとになって教えてくれた。つまりあのとき全然あたしを信じたなかったというわけだ。

 これを聞いたとき、酒の勢いに任せてあたしは父の禿頭を打ち、不毛の大地に真っ赤な紅葉を植えてやったときはスカッとした。


「母ちゃーん、着替えはー」


 子供たちの声が風呂場から聞こえた。

 もう上がったのかと思いながら、着替えを持っていくと、男四人が脱衣所の足拭き用の布の上で窮屈そうに着替えと湯浴み用の手ぬぐいを待っていた。

 床を濡らすなという言いつけを守っているようでとても偉い。


 三男坊のミケヌを拭いてやりながら髪の匂いを嗅ぐと確かに石鹸の匂いするから、洗ってはいるみたいだ。

 着替えを済ませると、ウガヤは子供たちを連れて台所へ入った。ここから先はあたしは入っていけない。


「かあちゃんは、はいっちゃだめ!」


 ミケヌが両手を広げた。


「ミケヌはお母さんを居間に連れ言って、見張っておいて」


 ウガヤがミケヌに仕事を与え、長男のイツセと次男のイナヒもウガヤに続いて見張り番を任せると言った。張り切ったミケヌに手を引かれ、ミケヌが指定して場所に腰を下ろした。好きな場所に座るのも駄目らしい。


 あたしは居間から台所に目を向けた。

 イツセは今日始めて野菜を切る。ウガヤに渡された包丁を握るその顔は緊張で強張っている。

 トン、トン、と切るその後ろ姿をハラハラしながら見守っていると、ぬっとミケヌの顔が視線を遮った。


「みちゃだめ」

「見るのも駄目なの? お父さんはあたしが台所を見るのも邪魔しなさいって言ったかしら」

「う、ううん。言ってない」

「じゃあ見てもいいわね」

「……うん、いいよ」


 ミケヌは唇と尖らせて俯き、上着の裾を引っ張った。いじけたときの癖だ。台所が心配で少し言い方がキツかったかもしれない。


「よーし、もっと近くで見て来ようっと」


 あたしはちゃぶ台を支えにして立ち上がって台所に向かうふりをした。するとミケヌが大きな声であたしに注意する。その声に気づいてウガヤが振り返って褒めると、ミケヌが笑顔を取り戻した。


 あたしは何度か台所に行くふりをして遊んだ。毎回全力で引き止めていたミケヌは、とうとうあたしの腰に抱きついて立てないようにした。そしてそのうちミケヌはあたしのお腹に耳を当てたまま寝てしまった。

 台所ではウガヤはちゃんと子供たちを見ている。多分大丈夫だろう。

 週に一度は包丁を握るウガヤだが、初めて料理をしたのは八歳のときだった。


 ウガヤは外で走り回るような活発な子供ではなかった。どちらかというと独りで過ごすのが好きな大人しい子。赤ん坊のころからあまり泣かず、めったに感情を表に出さず、わがままも少なかった。


 そんなウガヤがあたしに、台所立ち入り禁止令を出したのは八歳の誕生日のときだった。

 意味が分からないことを言わないウガヤが自身の誕生日にこのようなことを言ったものだから、当時のあたしはずいぶんと動揺した。本当の母親でないあたしを拒絶しているのではと。


 物心ついたあたりからだったろう。それまであたしを母と呼んでいたウガヤがある日突然「姉さん」と呼ぶようになった。


 後から分かったことだが、呼び名を変えたのは将来結婚を申し込むためだったらしいのだけど、そんなことと露ほども知らなかった当時のあたしは、彼なりの拒絶反応だと勘違いしてひどく落ち込んだ。


 台所立ち入り禁止令も一から料理してあたしに振る舞いたかったウガヤが、口うるさいあたしを台所から追い出すためだったのだけれど。


 落ち込んだあたしに初めて振るまってくれた料理は野菜炒めだった。使われた材料もウガヤが種から育てた野菜。だから、一からではなくゼロから作った料理と言えるかも。


 そして、彼は言った。

「僕の母になってくれてありがとう、姉さん」と。

 いま思えば、「伯母さん」じゃなくて良かった。


 昔の思い出に浸っていると、子供たちの料理が完成したみたいだ。

 ミケヌを起こしてあげて、皿を並べる仕事をさせて上げる。これくらいなら小さなミケヌもできる。

 食卓に子供たちの力作が並んだ。子供たちが丹誠込めて育てた野菜を使った野菜炒め。


「すごく美味しそうね。こんなに料理上手なんて、お母さんびっくりだわ」


 素直に褒めると、嬉しそうにイツセとイナヒが笑った。その横でミケヌが唇を尖らせる。独りだけ何もしていないと疎外感を覚えたのだろう。けれど、ウガヤがすかさず声をかけてくれた。


「ミケヌがちゃんと見張ってくれたおかげで、お母さんをびっくりさせられた。よくやったぞ」


 尖った唇が綻んで、弧を描いた。

 これでみんなが笑顔になった。

 あたしはウガヤを真っ直ぐ見て。


「誕生日おめでとう、お父さん」

「こちらこそ育ててくれてありがとう。愛してるよ玉依」

「あ、母ちゃん顔赤い!」

「うるさい。ウガヤも急にそんな言わないでよ!」

「今日くらい許してよ、結婚記念日なんだし」

 

 甥で息子で、それから夫で。

 叔母で母で、それから妻で。

 あたしとウガヤの関係は端から見れば複雑に見えるかもしれない。


「母ちゃん、早く食べてみて」


 子供たちのキラキラした可愛い笑顔と、美味しいご飯の前ではどうでもいいことだった。


「さ、早く食べましょう。待ちきれないわ」


 手を合わせようとしたとき、四人目の赤ちゃんがお腹を蹴った。


「お、今この子が蹴ったわ」

「赤ちゃんにも美味しそうな匂いが伝わったのかもしれないね」

「赤ちゃーん、オレたちがつくったんぞ―」


 子供たちがわらわらと集まってお腹の中の赤ちゃんに声をかけた。その様子を見守っていたウガヤがぽつりと呟いた。


「そろそろ名前を考えないと」

「あたし、一つ考えたの」


 お腹に耳を当てていた子供たちが顔を上げた。ウガヤも期待のこもった眼差しを向ける。あたしは赤ちゃんに語りかけるように、名前を呼んだ。


「お姉ちゃんの名前から一文字もらって、豊御毛沼命トヨミケヌノミコトってどうかしら」

「母さんの字か。凄くいいと思う」

「おわ! 母ちゃん、また赤ちゃん蹴ったよね」

「蹴ったわね」


 お腹の中の弟が反応してくれるのがよっぽど嬉しかったのか、子供たちが食卓のまわりを踊り始めた。その無茶苦茶な踊りを見てウガヤが珍しく大笑する。


「冷めないうちに食べましょう」


 あたしはみんなが手を合わせたのを見てから、家族全員、声を合わせて。


「いただきます!」

 

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