⑯童貞くんとクリスマスの夜

 今なら流星群に街を更地にされたって構わなかった。

 クリスマスがあと一時間ほどで終わろうかというバイト終わりのことである。

 聖夜にやってくる客はカップルや家族連ればかりだった。夕食を食べ損ねたサラリーマンややかましい学生の姿はほとんどなかった。ピークタイムの目まぐるしさは平時の比ではなく、おまけにそこへ妬みと嫉みが塗されるのだからストレスは計り知れない。特別な夜とあってお客様の心は穏やかなのか、クレーマーが皆無だったのが救いだった。一方でいっそ理不尽なクレーマーがそこらのカップルと意味もなく一悶着起こしてくれればいいのになんて思いもした。  

 早とちりで引き受ける羽目になったそんなクリスマスのシフトを大きなトラブルなく乗り切って、僕はホットコーヒーを片手に暗い夜道をとぼとぼと歩いていた。

 そう、僕なのだ。

 今日は隣に稲田さんはいない。恐らく今後も稲田さんが僕の隣を歩くことはないだろう。彼女が「一緒に帰りましょう」と誘ってきても、いや誘われる前に、僕は空気のように一人で帰路に着く。彼氏持ちの人間に手を出そうとしたらどうなるのか、身を以て学んだからだ。

 コーヒーカップの縁に口を付けてずずっと啜る。熱々の苦みが喉をじわりと通り抜け、チキンを相手にして疲れた身体に染み渡っていく。

 六時ごろに生田が来た。

 前髪をいじりながら「メリークリスマス」と言って一人分のセットメニューを購入し、二階の隅の席でもそもそと食べていた。二階と一階とを繋ぐ空席確認用のモニタがちょうど生田の席の辺りを映していたので手が空いたときに暇つぶしに見ていたが、彼が三人掛け席の真ん中を陣取っていたがために撤退を余儀なくされるカップルがたくさんいた。それを目撃するたびに口の端が緩んでいた僕はだから童貞なんだろうなと冷静に思った。

 七時ごろに中野が来た。

 隣にはマスクを付けた茶髪の女性が立っていた。「僕の彼女のユカ。こっちは友だちの和泉くん」と中野はレジの前で僕と彼女を互いに紹介した。中野の彼女の身長は中野と同じくらいで、全体的にほっそりとしていた。少し色抜けした髪は肩の辺りでふわっと膨らみ、目は綺麗なアーモンド型だった。マスクを外したらブスであることを心の隅で願ったが、きっと変わらずに美人なのだろうと予想できた。昨晩は病床の身だった彼女も今日の昼頃に体調が回復し、せっかくのクリスマスだということで僕が働くフライドチキン屋を冷やかしに来たという。彼らは仲睦まじく二階へ行ったが、ほかの幾組のカップルと同じく生田の背中に拒まれていた。

 生田と中野たちが帰ったあと、九時ごろになって生田がやって来た。

 ジム帰りだったようで、上下スウェットというあまりにもクリスマスからかけ離れた服装をしていた。彼はコンビニで買ったらしいプロテインドリンクを片手に「今日はチートデイだ」と言って、独り身にも関わらず四人前のパーティセットを注文した。しかもそれをものの三〇分ほどで平らげたので、一緒にシフトに入っていたバンドマンの後輩は「あのひとやべーっすね」と驚いていた。同感だった。あいつはやばい。駿河が帰るとき、僕は彼がアダルトショップのビニール袋を提げているのに気がついた。多分、新しいシリコンの恋人が入っていたのだろう。

 僕は駅に到着しても、いつものようにすぐ改札の中に入ろうとはしなかった。

 近くのガードレールに腰掛け、まだ温かいコーヒーに口をつけながら駅から吐き出されてくる人の流れをぼんやりと見つめていた。

 せっかくだからクリスマスの息の根が止まる瞬間を見届けてやろうと思っていた。改札のすぐ上にある電光掲示板にはアナログ時計も備えられていて、ちょうど午後一一時五〇分を示していた。憎きクリスマスはあと一〇分で終わる。

 アスファルトの上にしぶとく残った昨晩の雪を足で揉みながら、僕は今年のクリスマスをのんびりと振り返った。猥談百物語から始まって、生田の抜け駆け、駿河の裏切り、中野の逃走、それから僕の出会いと各々の人生の転換点とも呼ぶべき出来事が立て続けに起こった聖夜。中野以外は尽く轟沈の憂き目にあって散々な結末を迎えたが、しかし今になって思えば悪くない一晩だった。結局今年も今年とて何一つ肝心なことは起こらないクリスマスだったけれど、人生で最も学びのある一日だったようにも思う。

 どこか強迫観念めいたものに背中を押されるようにして童貞卒業に奔走した僕たちは、全員が全員とも失敗した。生田は財布にされ、駿河は戦車に轢き殺され、僕は間男扱いされた。何が悪かったのだろうと殊勝に反省の姿勢を見せてみてもきっと正確なところは分からない。

 ただきっと、僕たちは焦りすぎたのだだろう。

 性欲や見栄や世間体に突き動かされ、肝心なものを見落としたまま先走ってしまったのだ。童貞を捨てるということだけに重きを置いたから失敗したのだ。

 童貞卒業は終わりではなく、一つの過程なのだ。一つの教育課程の修了が、次の教育課程への過程であるように、童貞卒業もまた人として新たな段階に進むための過程なのだ。

 男はいつか童貞を捨てなければならない。自分の中に確固たるプライドや誇りがあろうとも、次の段階に進むためには必ず童貞と別れを告げなければならない。

 だが焦る必要はない。

 中野が知り合った非童貞が言っていたように、童貞は一度失えば二度と元には戻らぬ不可逆的な生き物なのだから、必要以上に焦って捨てることだけに躍起になってはならない。過程を目的にしてはならない。いつか催されるかもしれない卒業式のため、ファッションに気を使うなりコミュニケーション能力を磨くなり資格を取得するなりして準備を怠らなければいいだけである。そして童貞の間は童貞だけが持ちうる無限の浪漫を存分に楽しむべきなのだ。そうすればきっといつか、思いがけないタイミングで童貞と別れる日がやってくるだろうから。

「………っし」

 僕は反動をつけてガードレールから立ち上がった。改札のところのアナログ時計はちょうど午前〇時に至る所だった。もうまもなく、今年のクリスマスの心臓が止まる。

 飲みかけのコーヒーのカップを片手に改札へと歩き出す。バイト中に店内でずっと流れていたクリスマスヒットを鼻で奏でながら、帰路に着く足はどこか軽やかだった。

 改札を通るためのICカードを構えたところで、足早に僕の前を歩いていた女性が残高不足で引っかかる。彼女は相当慌てていたらしく、恐ろしい速度で回れ右をして改札を逆走した。

 もちろん彼女の後ろでは僕が順番を待っていた。

 予期せぬ衝撃に僕は足を縺れさせて転び、ぶつかってきた彼女の方も体格差に負けて弾き飛ばされた。僕らは互いに改札の前でひっくり返ってしまった。

 一瞬何が起こったのか分からなかったが、体当たりを食らったのだということを理解すると小さく舌打ちが漏れる。とにかく立ち上がろうとしてついた手の平が、温い何かに触れた。

「えっ……」

 血かと思って動転しかけたが、何てことはない飲みかけのホットコーヒーだった。ほっと安心し、期せずして空っぽになってしまったカップを拾いながら立ち上がると、

「す、すみません、すみませんすみません!」

 慌てふためいたハイトーンボイスが駆け寄って来た。見れば先ほど逆走してきた女性である。彼女は僕を助け起こそうとオロオロしながら、アスファルトに広がった黒い池を見て「ぎゃーっ」と悲鳴を上げた。

「大丈夫ですか──ってああ! 終電! じゃなくて、すみません、弁償します、それ。弁償しますのですみません──ああ終電ん」

 時計を見上げて、財布を出して、また時計を見上げる彼女は実に忙しない。顔に掛けた丸メガネが飛んで行きそうな勢いで慌ただしく首を動かしている彼女を見ていると、ぶつかられた苛立ちはどこかへ消えてしまった。別に相手が可愛らしい女性だったからではない。断じて。

「だ、大丈夫です、から」

 僕は少しだけ緊張した声音で答えつつ立ち上がった。

「コーヒーもほとんど飲みきってたので、全然、平気です」

「そう、ですか? ならよかったですけど………」

 彼女はほっと息をついてコートで覆われた胸元に手をやった。そんな彼女を見ていると会話を広げてみたい衝動が不意に沸き起こり、僕は意識するよりも先に口を開いていた。

「そ、そちらこそ、ケガ、は?」

「い、いえ! いえいえ! とんでもない! 私のケガなんてどーでもいいですよ! 私これでも柔道やってたんで受け身上手いんですよ!」

「あ、そ、そうなんですか」

「はい、そうなんです」

 やり取りが呆気なく終了する。話を広げられる余地はいくらでもあったはずなのに、相づちが下手すぎて折角の会話を殺してしまった。

「ほんとにすみませんでした。それでは、あの、これで私は……」

 彼女は身体を九十度折り曲げて頭を下げると、改札に入ろうと踵を返しかけ、立ち止まった。

「あー、終電! 行っちゃったぁ!」

 マンガみたいに頭を両手で抱え込み、空を見上げて彼女は叫ぶ。僕は空のカップを握りしめて、そんな彼女の後ろ姿を眺めていた。

「……」

 どうやら困っているらしい。終電がなくなったのだろうか。何か声を掛けてあげた方がいいのだろうか。僕にできることがあるのだろうか。それとも黙っていた方がいいのだろうか。すでにやり取りが終わって過去の男となった僕が彼女に声を掛けて変質者扱いされないだろうか。たかが一度ぶつかったくらいで馴れ馴れしく話しかけられるのは気持ち悪くないだろうか。

 だけど、どうしてかは分からないが、ほとんど本能的に、僕は頭の中を巡って止まないそんないかにも童貞的な思考を思いきってかなぐり捨てた。そして喉を震わせて声を張った。

「あのっ!」

 仮にこの女性に声を掛けて邪険にされても、稲田さんやマオさんを相手にしたときのような痛みは訪れないはずだと無意識に感じていたのだろう。

「ど、どうきゃっ、しましたか?」

 勢いよく発した声は夜気に凍えるように震えていて、おまけに嚙んだ。だけど言った。声をかけた。見ず知らずの女の人に、自分から、声をかけたのだ。

 女性はすがるような目を引いて僕の方を振り向いた。それから迷いがちな足取りでゆっくりこちらへ歩み寄ってきて、心の底から罪悪感に苛まれているような声でこう言った。

「あの、ほんとうに、言いづらいことなのですが……」

 彼女は胸の前で指を絡ませながら言う。

「断られるのはもちろん承知なのですが、その、お願いがありまして……お、お金を貸していただけないでしょうか!」

「お、お金?」

「たった今終電がなくなっちゃたんです………明日は朝から大事な用事があるのでどうしても今日中に家に帰らなくちゃいけないんですけど、お財布を家に忘れてきてしまったんです」

「はあ……」

「三千円! 三千円あればタクシーで家に帰れるので!」

 彼女は指を三本立て、今にも土下座をしかねないような深さまで頭を下げた。僕は一拍の間を置いてから慌ただしく財布を取り出し、ポイントカードやレシートをこぼしながら千円札を三枚彼女に差し出した。

「ど、どうぞ。よかったら、使って下さい」

「へ?」

 風に吹かれて揺らめく英世を見つめ、彼女は間抜けな声を上げた。本当に貸してもらえるとは思ってもなかったらしい。

「いいん、ですか?」

「はい、あの、どうぞ。いいですよ」

「あ、あり……ありがとうございます! そしたら、あの、ちょっと待って下さい」

 彼女は決して逃さないように三千円をコートのポケットの奥深くにねじ込み、ぱんぱんとおまじないでも掛けるようにポケットを外側から叩く。そして手に持っていた鞄の中から取り出した手帳に何かをいそいそと書き込み、ページを千切って僕に渡してきた。

『海藤花鈴 東京都○○市××*‐**‐** 三○一号 080‐****‐****』

 連絡先だった。

「これ渡しておきますので明日の夕方にでも連絡下さい! ダッシュでお金返しに行きます!」

 と彼女が言ったちょうどそのとき、駅のロータリーにタクシーが一台滑り込んできた。

「ヘイ、タクシー!」

 海藤花梨は甲高い声とともに両手を上げてその一台を呼び止めると、底の高いブーツを履いた足を鳴らして駆けていく。

 最後、乗車の直前で彼女はこちらを振り向き、

「お金、ありがとうございます!」

 と大手を振りながら礼を叫んだ。

 僕は恥ずかしさを覚えつつ会釈で返事をしてみて、ふと気がついた。

 タクシーで家まで帰るなら別に僕がお金を渡さなくてもよかったのでは? 家の前で運転手に待ってもらい、財布を取って戻ってくればいいのだから。

 とはいえもう遅い。彼女を乗せたタクシーのテールランプは、ちょうど角を曲がって行くところだった。

 諦めて手元のメモ用紙に目を落とす。少なくとも連絡先をくれたのだから新手のカツアゲというわけではないだろう。そう思いつつじっくりとメモ用紙を読み直す。紙面の真ん中にちんまりと書かれた丸文字は、この寒さを少しだけ忘れさせてくれる暖かみを帯びていた。

「かいとう、かりん、さん」

 ぼそっと名前を呼んでみて妙なむず痒さを覚えた。

「こんな」

 こんなコテコテのラブロマンス映画のオープニングシーンみたいな出来事が、現実世界で、起きるというのか。頭の奧で醸成された童貞が「ワンチャン、ワンチャン」と粘っこい声で囁く。僕はそれを振り落とすように何度も首を振った。焦ってはいけない、舞い上がってはいけない。困っているところを助けられたからお礼をする。人間として当たり前のことだ。そこに特別な意味はない。勘違いをしてはいけない、けれども。

 連絡先の紙を丁寧に四つ折りにし、絶対になくさないように、ポケットの奧へしまう。

 明日の夕方、彼女に電話をしよう。特別な意味などない、ただのやり取りだ。それにしても可愛かったなあの人。貸したお金を返してもらうだけの事務的なやり取り。眼鏡のせいで文学的な雰囲気を醸し出していたのにまさかの柔道家だものな。もしかしたらちょっとした世間話があるかもしれない。小さいけどパワフルとか美人なのに嘔吐とか文学的なのに体育会系とか。僕はそう言うギャップに弱いのだろうな。世間話をしたらそれで終わりになるだろう。無理に引き延ばそうとすれば空気を腐らせてしまう。思い切ってお茶にでも誘ってみようか? そんなことできるのか。そもそもお金を返してもらう以前に電話の時点で鬼門だ。二〇年生きてきて家族とコールセンター以外の女性と電話で話したことなどないのだ。野郎と女の子とで電話のマナーは違って来るのだろうか。明日の夕方までまだ十四時間近くあるのに緊張してきた。お腹が痛くなってきた。けど明日が待ち遠しくもあった。

 見上げた空に星はなく、ただ真っ暗な東京の夜が広がっているだけだった。

 僕は身体を横に向け、見えないバットを握りしめた。今日は流星群はやってこないのだろうか。今ならどんな流星群が降り注いできたって、銀河の彼方まで打ち返せそうな気がするのに。

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不可逆的な生き物たちの夜 桜田一門 @sakurada

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