⑮童貞くんと不可逆性

 夜明け近くなって僕たちはアパートの裏庭に出てみた。数時間かけて降った雪が辺り一面にうっすらと積もっていた。まだ誰も足を踏み入れていない真っ平らな白さが、世界の音を吸い込んで静謐に広がっていた。

 僕たちはそれぞれ小さな背徳感を抱えながら裏庭へと足を踏み出す。靴底が雪を潰す音が、暗い夜の底にかすかに響いた。

 しばらくの間雪を潰して歩き回っていた。駿河が雪玉を作り、中野に投げつけた。生田も投げた。僕も投げた。中野は逃げ回り、途中でこけ、集中砲火を浴びて雪まみれになった。動いて熱くなった駿河が上着を脱げ捨て、上半身の筋肉をさらけだして雪の上に倒れ込んだ。

「俺の筋肉は雪になんて負けない」

 と絞った声で言うので、僕たちは雪をかき集めて彼の上に乗せた。「寒い」と言って雪の中から筋肉男が這いだしてくるまでにそう時間はかからなかった。

 クリスマスの悲しみを雪玉に込めて四方八方へ放り投げた。投げるたびに心が軽くなっていった。近所に配慮して大声は上げなかったけれど、心の中では大いに笑っていた。

 しばらくして駿河の一声で雪だるまを作り始めた。裏庭の全部の雪を掠うくらいの気持ちで雪玉を転がし、大きくしていった。スタンダードな二段式を作るつもりだったのに、駿河が乳を付けたいと主張して止まなかったので僕たちは小さな雪玉を余計に二つ作った。すると今度は生田が「巨乳じゃなきゃ嫌だ」と駄々をこねたため、二つの雪玉を大きくする羽目になった。メロンサイズの乳を駿河が雪だるまに押しつけ、僕と中野で落っこちないように補強した。巨乳戦犯の生田は一番大事な作業を手伝わず、離れたところで別の雪玉をこねていた。乳首を作っているらしかった。

「そんでさあ」

 苺のような形の白い乳首を二つ手にした生田が、中野に向かって言った。

「なんで童貞なわけ?」

 中野がまだ童貞だと告白した直後、その意外さに驚いた僕たちがパニックになってうやむやのまま話が終わっていたのだ。

 なぜ中野幸多郎は半年も恋人がいながら、まだ童貞なのか。

 僕も、駿河も、生田も、この歳まで無垢な心を磨き続けてきたわけだから、当然世間一般のカップルがどれくらいの期間で初セックスに及ぶのかは知らない。しかしどう考えても半年というのは遅くないだろうか? 健全な男女なら一カ月、僕たち性に飢えた童貞なら数日といったところだろう。

「うーん」

 中野は雪だるまの乳を整形しながら苦笑する。

「骨折したときに、階段で転んだからって言ったでしょ?」

 僕たちは頷いた。

「あの話、嘘なんだ」

「嘘?」

「うん、嘘。本当はもっと別の理由があるんだよ」

 中野は生田から乳首を受け取り、乳の先を少し掘り返してその中に埋めた。

「半年ほど前に届いた新人賞の選評に『あなたのセックス描写にはリアリティがないのでまったく興奮出来ません。もしまだ経験がないのでしたら小説を書くより先にパートナーを見つけるなり性風俗に行くなりしてセックスを体験してきて下さい』って書かれてたんだ」

「いつも通りだな」

「うん、いつも通り。でも『小説を書くより先にセックスを体験しなさい』っていう言葉をもらったのは初めてで、それがいつまでも頭を離れなかったんだ」

「だから彼女を作った?」

「ううん、それはもっと後。最初は彼女を作るなんて考えはなかったんだ。セックスをするまでにお金と時間がたくさん必要だし、何よりセックスするために付き合うっていうのが相手に申し訳ないなって思ってさ。かといって風俗に行くほどのお金はないし、風俗で童貞を捨てるのは嫌だった」

「ザ・童貞って感じの思考だな」

 生田が小馬鹿にしたように言う。自分だって女の子に財布扱いされた童貞のくせに。

 中野は生田に苦笑いを向けつつ、

「それで最終的に思いついたのが、ナンパ」

「ナンパぁ?」

 僕たち三人はたまらず仰け反った。脳内に誰よりも不可思議な性宇宙が広がっている中野の発想は、やはり一段も二段も違う。どう考えても童貞にはナンパが一番ハードルが高いだろう。

「もちろん自分でもバカげた考えだとは思ったよ」

「バカげたどころじゃねえよ、無茶苦茶だ」

「だけど何が精神衛生上一番安全かってこと考えたら、一夜限りの関係しか思いつかなかったんだ。出会ったその日にするわけだからかかる時間もお金も少なくてすむし、目的がセックスだから相手の女性を傷つけることはないし、風俗とは違うから僕のプライドも保たれる。一石三鳥だよね」

「小石でキングギドラ倒すようなもんだぞそれ」

 僕が言うと、「そうかも」と中野は笑った。

「ともかくナンパしかないと思って、半年前の僕は実行したんだ。その日のために勝負服を一セット購入して、朝には美容院でスタイリングをしてもらって、流行りのDJを何人かチェックしてから渋谷のクラブに行ったんだ。店にやってくる女性を二時間くらい観察して、ついに理想の人を見つけた。背の高いスラッとした美人で、目が合うたびに笑ってくれる愛嬌のある人だった。だから行けると思った。僕は一〇分くらい迷って、思い切って声を掛けてみた」

 僕たちは巨乳雪だるまを作る手を止めて中野の話に聞き入っていた。誰かがゴクリと唾を飲んだ。音は雪に吸い込まれた。

「その女の人は愛想よく僕の誘いに応じてくれた。これはいけるかもって思った。だけどしばらくしたら彼女のところに二人組の男の人がやって来たんだ。邪魔されるのかと思って緊張したけど、実は彼女は一人でそのクラブに来ていたわけじゃなかったんだよ。他の人と待ち合わせてたんだ。その二人組は彼女の友達だったんだ。それから数分の間に一人また一人と人が集まってきた。男の人も、女の人もね。来る人来る人みんなテンションが高くてパリピで、僕が普段絶対に関わらない人たちなんだ。中には不良っぽい人たちもいたし。気がついたら全部で一〇人くらいの大所帯になってて、僕は場違いな人種にも関わらずその中で飲んでた」

「そんな連中に囲まれて飲むなんてすげーな」

「いや、どちらかっていうと飲まされてたって感じだよ。あの人たちは僕が童貞だって分かると、面白がってどんどん飲ませてきたんだ。動物園の猿に餌を与えるような感じでさ。『童貞、飲め!』『セックスできないんだから酒くらい飲め!』とかなんとか散々言われたよ。いつの間にかあだ名が童貞になってたし」

 レーザーライトが幾本も走る薄暗い室内で固まる男女たちを思い浮かべる。あたりには重低音の曲が鳴り響いている。男はみんな駿河みたいにムキムキな上半身を見せつけ、女はみんなギリギリのラインを攻めた露出過多な服を着ている。その集団の真ん中で中野は素っ裸に剥かれ、青白い痩身に酒を浴びせかけられている。

「僕たちの間じゃ童貞であることは常識だけど、あの人たちの中では童貞は貴重な存在だったんだ。天然記念物みたいにさ。気を遣ってか面白がってか、飲ませてくるのは女の人ばっかだから僕も調子に乗ってどんどん飲んじゃって、もしかして与えられたお酒を飲みきったらこの中の誰かとできるんじゃないかって思いもした。それもあって必死に飲んだんだけど、見事に泥酔しただけで終わったよね。立てないくらいフラフラな状態で一人でトイレに行こうとして何もない床で転んで、手のつき方に失敗して骨折したんだ」

 中野はかじかんだ手を息で溶かしながら、

「これが僕の骨折の真相」

 と話を結んだ。

 僕たち三人は顔を見合わせた。中野も中野で今夜の僕たちと同じような悲惨な目にあっていたと分かり、少しだけ同情の念が湧いた。しかしどうにも腑に落ちない。

「お前が骨折した真相は分かったけどよ」

 生田が思い出したように雪の乳首を雪だるまに埋める。ショートケーキに苺を乗せるような繊細な手つきだった。

「それが今もまだ童貞であることとどう関係してるんだ?」

「まだ泥酔する前に、一緒に飲んでたある男の人に言われたんだ。『俺は童貞が羨ましいよ』って」

「童貞が羨ましい?」

 首を傾げた僕たちを見て、中野は唐突に言った。

「挿入ってどんな感触だと思う?」

「は?」

「僕は暖かいスライムに包まれるような感覚だと思ってる」

 中野は雪だるまの頭にずぶずぶと人差し指を差し込む。僕たちは返答に困りながらもそれぞれの考えを順番に口にした。

「俺は優しい掃除機に吸われる感じだと思う」

「湿ったスポンジで握りしめられるとか?」

「ゼリーに突っ込むみたいな」

 中野は三者三様の答えを聞いて「みんないろいろだね」と微笑み、話を続ける。

「本庄さんが言うには、挿入は『挿入』としか言いようのない感覚なんだってさ。ほかのもので例えるのはすごく難しくて、説明しづらいらしい。だけどはっきり言えるのは、想像していたよりも気持ちよくないってことなんだって」

 童貞三人は慌てた。

「気持ちよくない、のか?」

 駿河が半開きの口で愕然とした表情を見せた。

「気持ちいいには気持ちいいけど、童貞のときに想像していた感覚とはかけ離れてたらしいんだ。童貞はセックスやフェラが宇宙一気持ちいいものだと思ってるけど、本当は想像の百分の一くらいの気持ちよさしかないし、セックスに憧れて自分の息子を扱いているときのほうが百倍楽しいし、百倍気持ちいいんだってさ。あとセックスは疲れるとも言ってた」

「う、嘘つけ! 俺は信じないぞ! セックスよりオナニーの方が気持ちいいなんて、そんな」

「その人が言うには『人生で一番興奮する瞬間は初挿入の一秒前だ』だそうだよ。何が起きるかわからない、何が待っているのかわからない。あと一センチ腰を動かしたら童貞卒業っていう気持ちよさに対する想像が無限に広がったあの瞬間こそが人生で一番興奮するんだって。だけどその人は悲しそうに続けたんだ『あの興奮は人生で一度しか味わえないんだよな』って」

 中野は雪だるまの頭に空けた穴を雪で埋め、ぽんぽんと手で均す。

「『童貞は非童貞になれるけど、非童貞は童貞になれない』」

 囁くように彼は言った。

「その人の言葉だよ。僕はすごく納得した。童貞は一度失ったらもう戻れないって、確かにその通りだなって思った。だけどその言葉を聞いた瞬間、僕は夢を壊されたような気がして不安にもなった」

 中野はコートのポケットに手を突っ込んで小さく身震いする。

「もし本当に童貞の今の方が性に浪漫を持って楽しく生きていけるなら、それを失ってしまうのが怖いんだ。現実を知ることで自分の中にある憧れやロマンが全部消えてしまい、そして二度と元には戻らない。その感覚がすごく怖いんだ。よりよい官能小説を書くための性体験が、もう二度と官能小説を書けなくしてしまうんじゃないかって、怖くなるんだ」

 壊れそうな笑みと一緒に、中野の口から白いため息が細く流れた。

「みんなには申し訳ないけど、僕には今、セックスをする相手がいる。童貞を卒業できるチャンスがある。だけど一度セックスをしてしまったもう戻れなくなる。もう二度と、童貞という人種に戻ることはできなくなる。そうすることで人生で最大の浪漫を永遠に失ってしまうかもしれない。だから僕はこの半年間セックスができなかった。怖くて、不安で」

 中野は俯き、爪先で裏庭の雪を搔いた。

 静寂が、雪とともに裏庭に降り積もっていく。駿河は腕を組んで口を引き結び、生田は冷めた目をしながら前髪をいじり、僕は天を仰いで息を深く吸い込んだ。

「なるほどな」

 そう言って白い息の塊を静かな夜に吐き出すと、僕は中野に向かって大きく足を踏み込み、

「贅沢な悩みだな!」

 そのまま両手で彼の肩を掴んで雪だるまの方に押し倒した。「あっ」という情けない悲鳴が夜に伸び、中野は間抜けに虚空を掻きながら雪だるまともども地面に倒れ込んだ。せっかく作った巨乳の雪だるまは上下に分かれて崩壊し、乳首のついた乳もブサイクに転がっていく。

「な、なにするのさ」

 口の中に入った雪を吐き出しながら抗議してくる中野を僕は鼻で笑った。

「贅沢だ、贅沢だよ。贅沢すぎるぞ中野。そんな悩みを打ち明けられて、僕たちがお前に同情すると思ってるのか。同情するわけないだろ、こっちは純度一○○パーセントの童貞だぞ!」

 僕は雪だるまからこぼれ落ちた乳を拾い上げ、中野に向かって投げつけた。メロン大の冷たい乳は、中野の肩に当たって砕け散った。

「そうだそうだ」

 生田と駿河もそれぞれ雪の塊を中野に投げつけ、彼はあっという間に再び雪まみれになった。

 僕はかじかんだ手に再び雪の塊を握りしめ、泣き崩れた乙女のように座り込んだ中野のことを見下ろした。

「先に行けよ、中野。行っちまえ。二度と戻ってくるな」

「そ、そんな」

 駿河が中野を押さえつけ、生田が中野のコートを捲り上げ、僕がそこへ雪の塊をねじ込んだ。乙女のような悲鳴が、白み始めた東の空に細く昇っていく。コートの中から必死に雪を搔きだしている中野を見て僕たちは笑った。

 すべての雪を搔きだしたあと、中野は疲れ果てたように雪の上に倒れ込んだ。激しく上下する胸にあわせて、マンガの吹き出しみたいな息の塊が空へと吐き出される。

「──中野」

 僕は半ば放心状態の友に手を差し延べながら言う。

「お前はきっと近いうちにその一歳年上の彼女とセックスをするだろうさ。お前が望むと望まざるとに関わらず、きっと自然の成り行きでそうなる。そうなってしまう。それがいかに贅沢なのことなのかをじっくり噛みしめろ」

 僕たちの中に非童貞が誕生する。それは悔しくて、悲しくて、そして非常に妬ましい未来だ。

 だからといって僕はもう中野を止めようとは思わない。邪魔も、説得もしようとは思わない。散々雪をぶつけたのでおしまいだ。あとは嫉妬を腹の底で煮詰めながら、今まで通りにやっていくだけだ。

 生田も中野に手を差し延べる。

「非童貞になれるならなるべきだろうが。非童貞になれずに苦しんでいる俺たちの息子のためにも、お前には先陣を切って非童貞になってもらうぞ。そんで交友関係を広げ、いつの日か、俺たちに可愛い女の子を紹介してくれよ」

 駿河も中野に手を差し延べる。

「一度失った童貞がもう二度と戻らないなら、俺は、俺たちは、童貞を失うその日までアクセルを全開にして妄想の限りを尽くしてやる。一日十回シコってやる。童貞というヤツを、海綿体の随まで楽しみ尽くしてやるぜ」

 三人の顔を順番に眺め、やがて中野は呆れたような笑みを浮かべた。

「それ、なら」

 僕たちに手を掴まれてよろよろと立ち上がると、ずれた眼鏡を直し、髪についた雪を払った。

「僕は先に行くよ。怖れずに前に進むよ」

「おう。のんびり追いかけていくから待ってろよ」

 住宅街の向こうに顔を出した朝日が、僕たちをぱっと横から照らし出す。

 クリスマスの朝がやってきた。

 だが、何も起こらないただの休日になるだろう。

 家に帰って眠り、昼くらいに起きて、ゲームやオナニーをしてだらだらと過ごし、夜になったら稲田さんの代わりにバイトに行く。いつもと変わらないただの一日だ。

 足下では雑草たちが雪解けを待っている。焦らず、慌てず、そこでじっくり待っている。暖かな陽を浴びるを日を夢に見ながらも、今はただ雪の冷たさを楽しんでいる。

 僕のイチモツもそうありたい。

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