⑭童貞くんと友だちの真実
緊張で空気が急速に固まっていく。指で弾けば割れそうなくらいに。
時刻は深夜二時に迫ろうかという頃合いだ。性の六時間ももう残り少ない。多くのプレイが終わりに差し掛かっている。世界は今年も僕たちを置きざりにしていく。涙は出ない。我慢汁さえもない。
「彼女、いるんだろ?」
僕はもう一度言った。今度は呟くような口調ではなく、はっきりと疑問を突き付けるように。
何が僕にそう思わせたのだろう。
この考えは決して論理的に組み上げられたものではなかった。本当に突然、落雷のように頭へ降ってきたのだ。
強いて根拠を上げるなら、彼が取りに来た忘れ物が小説用のネタ帳だったことだろう。肌身離さず持っていないと落ち着かない。命とお金の次に大切な物。それを忘れて部屋を飛び出したと言うことは、それよりも大事な用事があったということだ。僕の貧弱な脳味噌は、それらの要素をすぐに彼女の存在へと直結させた。
「いる、だろ?」
だめ押しの一言でやっと中野は観念したような苦笑いを浮かべ、件のネタ帳を大事そうにポケットへしまって言った。
「そうだね。隠してもしょうがないよね」
ずれた眼鏡を直すと、余っていたクッションの上に体育座りし、
「いるよ、彼女」
と膝の間に顎を埋めた格好で告白した。
その瞬間、僕は駿河を見た。もしも彼がピンの抜かれた手榴弾のようになったら、全身を使って止めに入ろうと思った。けれども駿河は思ったよりも落ち着いた様子で告白を受け入れた。
「そうか」
とだけ言った。僕も生田も同じようなセリフが真っ先に出た。
不思議と感情は荒れなかった。もちろん驚きはあった。だが嫉妬や羨望のようなものはなかった。心は平穏そのものを保っていた。ひょっとすると、祝福する気持ちだってあった。
「なんかそんな気はしてたんだよな」
ぽつりと駿河が言った。
「イタリアンバルに行ったことがあるとか、オナホとパンティを交換したがったとか。今思えばもしかしてって、な」
「失敗したなあ、そこで感づかれたのか」
中野は苦笑した。
「あー、まじかよ。お前が先か。お前が一番乗りか。くっそ!」
生田はバイブの電源を入れ、ブルブルと光りながら震えるそれを中野の乳首の辺りに押しつけようとした。中野は笑ってベッドの上に逃げ、代わりに僕が乳首バイブを食らった。なぜだ。
生田ごとバイブをはね除けながら改めて考えてみる。
中野に、彼女ができた。
心の中で言葉にしてみると奇妙な感覚があった。
自分の友だちの誰かに彼女ができる。生まれて初めての経験だった。
友だちが女子と手を繋ぎ、ともに行動し、仲睦まじく話をする。僕たちに向けるのとは違う表情を見せる。
中野は彼女といるときにどんな顔をするのだろう。どんなことを話すのだろう。どんな仕草をするのだろう。意味のない想像が頭の中に広がっていき、脳のシワが埋まってしまう。
「というか中野、今日は彼女をほったらかしにしてていいの?」
僕が訊ねると、中野はくすぐったそうな笑みを浮かべて首を振った。
「元々合う予定じゃなかったんだ。彼女は社会人でさ、シフト制の仕事だからカレンダー通りにはなかなか休めくてね。それだったらいっそ、混雑するクリスマス当日じゃなくて別の日に会おうってことで話してたわけ」
なんでもない日常の一幕を語っているはずの中野に、なぜだろう、やはり少しだけイラっとしてしまう。
「おい待て、お前の彼女年上なのか?」
生田がバイブに電源を淹れ直して噛みついた。僕は咄嗟に自分の乳首を両手で覆い隠した。
「年上だけど、一歳しか違わないよ。専門学校卒だから、今年から働き出したんだ」
その言葉に童貞たちはざわつく。
「おい専門学校卒って」「大学の人間じゃないのか?」「サークルとかじゃないのか?」「どこで知り合ったんだ?」「てか電話は誰からだったんだ? 彼女か?」「今までどこに行ってたんだ?」
僕たちは頭の中に番えられた質問を片っ端から放っていく。放物線じゃなく、直線でだ。
「まあまあ、落ち着いてよ」
中野は童貞らしくない落ち着いた仕草で僕たちを鎮める。単純な童貞たちはそれだけでサーカスのクマみたいに行儀よくフローリングに整列した。
「さっきの電話は、まあ察しの通り彼女からだったんだけどね」
中野は一人だけベッドの上に座り、下々の童貞たちを見下ろしている。
「昨日の夜から彼女は体調を崩してたんだ。だから今日は仕事は大事を取って欠勤。僕はお見舞いに行こうかって提案したんだけど『大丈夫』ってやんわり断られた。彼女は今日僕が友だちと遊ぶことを知ってたから、迷惑をかけちゃいけないって気を遣ってくれたんだと思う」
「もしかしてお前、猥談百物語のことバラしたのか?」
「そこは伏せたよ」
「よかった」
駿河は大きな手のひらで分厚い胸板を撫で下ろした。
「だから僕はこうして駿河くん家に来たわけだけど、やっぱり彼女の『大丈夫』は強がりだったみたいでさ、『どうしても寂しい』って電話してきたんだよ。『迷惑なのは分かってるけど、寂しくて怖くて不安なの。寝るまででいいからそばにいて欲しい』ってそんなこと言われたら無視はできないじゃない?」
最後の疑問形に飛び出しかけた「知るか」という言葉をぐっと喉の奥で止める。
「だから和泉くんには申し訳なかったけど、急いで部屋を出たんだ。幸い彼女の住んでるところは代田橋だからそんなに遠くなくてさ」
なんだろう、胸に沸き起こるこの感覚は。むず痒い。そしてやはり詳細に話を聞いてしまうとやはり妬ましさがせり上がってくる。『寂しいからそばにいて欲しい』だって? 自分の為だけに放たれたそんなセリフを一度でもいいから拝聴してみたいものだ。
狭い心の器からどぼどぼと嫉妬を溢れさせながら僕は言った。
「よし、始末しよう。駿河、ロープはある?」
「縄跳びならある」
「十分だと思う。スコップは?」
「しゃもじでいいか?」
「問題ないな。全員で口裏を合わせよう」
「突っ込まれたらAVを見てたってことにしてシラを切るぞ」
「さすが生田。いいアイディアだ」
先ほどの祝福の気持ちはどこへやら、僕たちは顔を寄せ合って中野幸多朗殺人事件の計画を立て始めたのだが、中野が「あははは」と余裕のある笑みで遮ってきたので萎えた。
僕は気を取り直して訊ねた。
「──で、彼女が寝付くまで側にいてやって、寝たから戻ってきたってわけか」
「うん。でも起きて僕がいなかったら彼女は不安に思うだろうし、しばらくしたら戻るつもり」
そっと微笑んだ中野にはどこか今までとは違う余裕が垣間見えた。
「どれくらい付き合ってるんだ?」
駿河が訊ねた。
「半年くらいかな」
「どこで出会ったんだ?」
と生田。
「病院」
「病院? 看護師、か?」
生田がムッとした声を上げつつ再びバイブのスイッチに指をかけたので、僕は先回りしてそれを取り上げた。乳首は弱いので攻めないで欲しいのである。
「違う違う。彼女も患者で、同じ病院に入院してたんだ」
「病院ってあれか、お前が骨折したときの」
「うん、そう」
中野は左右の手にバイブを持ち、ペン回しの要領でクルクルとそれらを同時に回す。
「骨折して入院してたときにベッドが隣だったんだよ。たまたま同じ本を読んでたから話しかけてきてくれて、それで気になった。もしかして、って思ったんだ」
「まあ話しかけられたら好きになるね」
僕は頷いた。そこには同意だ。
「彼女は喋るのが好きだからさ、僕が黙ってても勝手に会話を広げてくれるんだよね。そしたら自然と僕も話せるようになって、仲良くなった。彼女の方が先に退院したんだけどお見舞いにも来てくれてさ。僕が退院したあとも定期的に会うようになって、それで付き合い始めた」
「そんな気配まったくなかったけどな」
「隠してたわけじゃないんだけど、三人にばれたら面倒だと思って言わないようにしてた」
「面倒なことないだろ別に」
駿河が憮然として腕を組む。
「じゃあ今この瞬間人を殺しても罪に問われないことになりました。最初に誰を殺す?」
「お前」
僕たちは手に手にバイブを握り、満場一致で中野のことを示した。
「あははは」
と中野はまた余裕のある笑みを見せ、「ほらね」と軽やかに言った。
やはりなんだかむかつくのである。
「ところで三人は何があったの?」
今度は僕たちが今宵の顛末を話す番だった。
生田はサークルの同期にたかられた話を切なげに語り、駿河は岩手製の重戦車に果敢に立ち向かっていた話を勇壮に語り、僕は身長二メートルの留学生に殺されかけたことを恐怖感たっぷりに語った。中野は僕たちの話を聞いて同情しつつも、堪えきれずに笑った。僕たちも釣られて笑った。天井を吹っ飛ばすような大笑いだった。
「そういえば一番大事なことを聞き忘れてた」
ひとしきり笑ったあと、駿河が神妙な面持ちで中野を見た。口の中で何度か言葉を転がす様子を見せたあと、彼は言った。
「ど、どう、だった?」
ささやかな間が訪れる。
「どうって、何が?」
「やっぱり気持ちいいのか?」
「気持ちいい?」
僕は何のことか分かったが、中野は左右に首をひねって奇妙な顔をするばかりだった。
駿河はじれったそうに髪を搔き、まるで中学生のように恥ずかしそうにしながら、心底気持ち悪い声音で言った。
「セセセ、セックス、だよ。セックス。やっぱ気持ちよかったのか」
「ああ」
中野はようやく合点がいったように頷き、じっくりと間を揉んでから情けなく笑った。
「実はまだしてないんだよね」
その言葉に、生田がぐいっと身を乗り出す。
「してない? 半年も付き合ってて?」
「うんまだしてない」
「じゃあ……」
中野は戸惑いを浮かべる僕たちを見て頷いた。
「そうだね、僕はまだ童貞だよ」
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