⑬童貞くんと友だちの悲しみ

「──きろ………──ずみ………──和泉!」

 遠くから飛んできたボールが頭に直撃したようなイメージが一瞬浮かび上がり、僕は目を開けた。駿河と生田が僕のことを覗き込んでいて、二人の顔の間から薄汚れた白い天井が見えた。

「あ、ああ。あれ? マオさんたちは?」

「マオさん? 何言ってんだ?」

「え?」

 寝ぼけ眼で駿河の部屋を見渡してみると、そこにマオさんたち三人の姿はなかった。バイブと、コンドームと、千切れたオナホがあるだけだった。

 どうやら眠ってしまったらしい。

 三人はその間に帰ったのだろう。頭の中にはまだマオさんとマーヴィンのキス映像がこびりついている。いっそ単なる夢だったらよかったのにと思った。

「何があったんだよ、いったい」

「話せば長くなるけど──」

 言いかけたところで、

「うぁあああああああ」

 僕の話を遮るように駿河が叫んだ。何ごとかと思って顔を向けると、彼の手にはマーヴィンによって無残に切り裂かれた尻型オナホが握られていた。

「あぁっ……ぁあああああああ! 嘘だぁあああ! ああああ!」

 駿河は両手に握った二つを何度も押し合わせ、元の形に戻そうとしていた。しかし一度分裂した彼の恋人はもう二度と元に戻れない。くっつけたそばからべろりと剥がれるばかりだった。

「なんで……なんでこんなことに……なんで………うぁああああああああああああ! 俺の、俺のぉおおおおおナホォオオオオオ」

 駿河はオナホを抱き締めて床にうずくまる。胸を突かれる男泣きだった。

「なんだっつーんだ」

 生田が困惑した顔で言う。

「──実はね」

 僕は中野がいなくなった辺りから、自分の身に起こった後味の悪い聖夜の一幕を語った。駿河は鼻水と涙で顔を濡らしながら、生田は心ここにあらずといった顔で、僕の話を聞いていた。

「俺の愛しい、尻型オナホは、そのマフィンとか言う黒人野郎にやられたってのか」

「マーヴィンね。きちんと片付けておかなかった僕も悪いんだ、ごめん」

「いいや、どう考えたって悪いのは壊したヤツだ。許せねえ! 同じような目にあわせてやる。ケツに指突っ込んで縦に裂いてやる。俺のオナホが味わった苦しみを同じ思いをしやがれ!」

 そう言って本当に部屋を出ていこうとする駿河の腰に僕は勢いよく飛びついた。

「無理だって駿河。僕は彼らがどこに住んでいるのか知らないし、それに相手はお前より何倍も身体がでかいんだ」

「何のために俺が鍛えてきたと思ってきてんだ。愛した女を守るための筋肉だろうが!」

 駿河は叫んだが、僕が必死の形相でしがみつくとそれ以上動くことはできない様子だった。これがあの英国からの留学生だったらきっと、僕の貧相な身体など枯葉か何かのように振り払ってしまうだろうと思う。彼の身体はそれほど化け物じみていた。同じ人間とは思えなかった。

 床に倒されたあともなお駿河は暴れていたが、生田が加わるとついに観念したように動かなくなった。「ちくしょう」という心からの悲しみは、フローリングに吸い込まれるようにして消えた。

 僕たちはひとまず部屋を片付けた。ひっくり返ったちゃぶ台を元に戻し、散らばったバイブをかき集め、部屋の隅っこまで飛んでいたせいで損壊を免れたAVを本棚に戻した。そうして元の通りの部屋に戻ると、それぞれ適当な位置に腰を落ち着け、向かい合った。

 しばらくの間会話はなかった。駿河が膝の上に乗せた尻型オナホの残骸を撫でる「ぎゅむぎゅむ」という音だけが、部屋の中にある唯一の音だった。

「はぁ………いいなあ、二人とも」

 僕の口からついそんな言葉が漏れたのは、沈黙が一〇分ほど続いたあとだった。

「いいなあ、って何がだ?」

 生田がじろりと僕を睨みつけた。

「俺的にはお前の方が羨ましいけどな」

「なんでさ」

「だってよ、童顔で巨乳の女子大生とこの部屋で二人きりになったんだろ? そんで谷間とかいろいろ見れたんだろ? 乳も尻も揉んだんだろ?」

「揉んでないって」

「でも谷間とか太ももとか見たんだろ? ヤる直前までいったんだろ?」 

「結局彼氏が現れて目の前であっつーいキスを見せつけられて終わったけどな」

「まあ確かにそれは残念だったかもしれねえけど」

 そう言った生田の声にはわずかに同情の気配が漂っていた。この男がそんな反応を見せるのは珍しい。いつもは他人を見下すための踏み台ばかり探しているというのに。

「生田こそ羨ましいよ、僕は。卒業したんだろう、童貞。あの山下レオナで」

「……」

 返答はなかった。生田は両指をもぞもぞと絡み合わせながら、ちゃぶ台の上に置かれた苺の香りのコンドームを見ていた。

「生田?」

「……しなかったよ」

「しなかった?」

「童貞卒業は、しなかったんだよ!」

 鼻から放たれた荒い息がちゃぶ台の上のコンドームを数センチ移動させた。僕は生田の前髪が乱れたままだということに気がついた。いつだってそこは乱れることを許されていなかった聖域で、今夜だけは何か特別な事情があるのだと髪が物語っていた。

 僕は恐る恐る、暗闇の中に手を入れるようにして訊ねた。

「何が、あったの?」

「何もなかった。何もなかったよ。飯と酒とタクシー代を奢らされて、何も起きずに終わった。俺は一人だけ下北沢に取り残されたんだ」

 生田はポケットを漁り、ついに使われることがなかったコンドームを一包取りだした。チョコの香りを表した毒々しい色合いのパッケージが、蛍光灯の光を反射してギラギラと輝いた。

「サークルの同期に電話で聞いたらよ、レオナちゃんは今日バイトじゃなかったんだってさ。俺とデートの約束をしたあとに、別の男に誘われて、そっちに行くつもりだったらしい。けど直前でキャンセルされたから俺のことを誘い直したんだってよ。レオナちゃんの本命はその別の男で、俺は予備だったってことだ。同期の話じゃ、俺みたいなポジションのヤツはほかに数人いるらしいけど」

 コンドームのパッケージを指先で弾き、生田は笑った。いつになく自虐的な笑みだった。

「レオナちゃんは予備の俺とのセックスなんて眼中になしっつーか想像もしてないわけよ。単純にクリスマスイブが暇なのはプライドが許さないから、適当に俺を誘い直しただけ。だからあのイタリアンは俺の奢りで、その後に行ったバーも俺が全額出した。ホテルに行けると思ったら全然苦じゃなかったけど、タクシー代一万円をねだられたときは困惑したね」

「タクシー代も、渡したのか?」

 生田は両手でつまんだコンドームのパッケージから視線を上げ、バツの悪そうな顔で僕を見る。それからため息混じりに視線を逸らし、言った。

「てっきり二人でタクシーに乗っててホテルまで行くのかと思ったんだよ。そしたらレオナちゃんだけ乗せてタクシー行っちまってよ、ようやく俺は自分が遊ばれてたんだって気が付いたわけさ」

「酷い話だな」

 救いようのない結末にそう返すのがやっとだった。

「最低の話だ」

 生田はコンドームのパッケージをぴりぴりと破り、中身を取り出した。哺乳瓶の口のような形をしたゴムの塊だった。それはやがて彼の手の中で萎んだイチモツの形に成長した。

「それでここに戻ってきたのか?」

 初めて見る生のコンドームをちらちら見つつ僕は訊ねた。

「ああ。ここ以外に夜を過ごす当てはなかったからな。それでふらふら歩いてたら駅前で抜け殻みたいになった駿河に遭遇して、二人で一緒に帰ってきた」

「抜け殻みたいに?」

 僕が意外な視線を向けると、駿河はオナホの亡骸を撫でる手を止めた。その身体はいつもより弱々しく見えた。喪失感で筋肉が萎んでしまったようだ。そこにはオナホを破壊されたこと以外の原因があるように思われた。

「お前も何かあったのか? 念願の北欧美女と、ヤれたんじゃないのか?」

 北欧美女、という言葉に駿河の全身がピクリと反応する。それは彼にとって魔法の言葉であるはずだった。夢を与えてくれる言葉のはずだった。なのに彼の顔には毒りんごを囓ったあとのような悲壮感で一杯だった。

 駿河は手の中のオナホを爪で引っ掻きつつ、重い口を押し開けるようにして言った。

「戦車が、来たんだよ」

「は?」

 意味が分からなかった。

「ホテルの部屋でソワソワしながら待っていた俺のもとに現れたのは、一台の戦車だったんだよ。北欧美女なんて見る影もない、重厚で凶悪な白い戦車さ。縦も横も俺よりでかくて、『おまたせしました、アナスタシアです』ってやけに流暢な日本語で喋りながら、地面を均すみたいに部屋に踏み入ってきた。動く度に床がメキメキ鳴ったんだぜ? 信じられるか?」

 何を言っているのか分からなかった。ホームページに写っていたアナスタシア嬢は妖精のような北欧美女だったはずだ。それが、戦車? いったい駿河は何を目撃したんだ?

「俺はベッドがある部屋の真ん中まで後退りした。嬢は扉をギリギリ通り抜けて侵攻してくると、開口一番『あたしマッチョって好きじゃないんですよ』だ。俺は何も言えなかったね。開いた口が塞がらないってのは本当にあるんだって驚いたよ」

 調度品を蹴散らしながらやってくるアナスタシア嬢を想像した。キャタピラ音の代わりに地鳴りを響かせ、そっと腰掛けたはずのベッドは大きくくの字に折れ曲がる。首は砲塔のごとく回転し、大きく開かれた口の奥には想像もできないパワーワードが装填されている。

「嬢が俺の前に立って服を脱ぎ始めてからの記憶は曖昧なんだ。生存本能なのか知らないが、俺の頭が現実を受け入れるの拒否したみたいだ。覚えてるのは溶けたろうそくみたいな肉付きと、ヘチマみたいな乳、四角い尻、座布団サイズのパンツ、途中で外れた金髪のウィッグ」

「ウィッグ?」

「そう、ウィッグだ! ウィッグなんだよ!」

 駿河は固く握った拳をちゃぶ台に叩きつけた。電池の切れたバイブと萎びたコンドームがびっくりしたように跳ねる。

「北欧美女なんて嘘だったんだ。肌は白いがよく見りゃ顔は日本人だし、日本語だってぺらぺらだった。怖くなったんで話を聞いてみたら出身はロシアなんかじゃなかった! 岩手だってよ、岩手! 生まれも育ちも岩手! ロシアどころか国外に出たことすらないってよ!」

「いわ、て」

「そんで抗議したら、『よくHP読みなよ。どこにも北欧なんて書いないでしょ』って言うんだよ。慌ててスマホを開いて確認したら、確かに『北欧』なんてどこにも書いてねえ。『ホクオウ』なんだよ、『ホクオウ』。『欧州』のオウじゃなくて、『奥州』のオウなんだってよ。なんだよ、それ。なんだよ北奥って! 狼狽する俺にあの女は『そったなこど気にしねぁーで楽しむべーよ。ほら、とっとど服脱ぐべー』って方言丸出しで言ってきたんだ。それが決定打になって、俺はもうダメになった。女体に触れるのを夢見て鍛錬を重ねてきたチンコが、アナスタシアの裸体を前にして急速に縮んでいったんだ。自分のチンコが萎えていくのを初めて観察したよ。空気が抜けるみたいだった」

 三人の視線が全部生田の股間に集まる。ズボンのせいで分からないが、きっとその奥ではイチモツが雨に濡れた子犬のように悲しげに頭を垂れているのだろう。

「だから俺も童貞卒業はできなかった。おまけに家に帰ってきたら見知らぬ外国人に大切なオナホを壊されてた。散々なクリスマスだぜ。ああ、くそったれ」

 駿河は毒づき、手に握っていたオナホをちゃぶ台の上に載せた。手の中では見事に元の形を維持ししていた彼女だが、ちゃぶ台の上で一人になると力尽きるように二つに分かれた。なんとも言えない哀愁に、僕と生田はうつむいてしまう。

「そういえば中野は?」

 生田が話題を変えるように言った。

「分かんない。かかってきた電話に出てそのままどっか行った」

「へえ。なんかあったんかね」

「さあ」

 と言っていると、インターホンが鳴った。

「中野かな?」

「どうだろう」

 家主がふらふらと立ち上がり、玄関に出た。親しげな話し声が聞こえた。駿河に連れられて部屋に入ってきたのは、案の定中野だった。

「おう」

「あ、みんな」

 温度差で曇った眼鏡を拭いつつ中野は言う。くるくるの頭やコートを着込んだ肩には雪がうっすら乗っていた。

「どこ行ってたんだよ」

「ごめん和泉くん、いきなり出て行っちゃって」

「別にいいけどさ。用事はすんだの?」

「ひとまずはね。でもまたしばらくしたら戻ろうと思ってる。忘れ物を取りに来たんだ」

「忘れ物?」

「うん」

 と言って中野はテーブルの上に置いてあった小説用のネタ帳を手にとった。それをパラパラと捲りつつ、僕たちの沈鬱な気配に気がついたように、

「何かあった?」

 と訊いてきた。

 その瞬間、僕の頭の中に一つの考えが降りてきた。ほとんど直感のようなものだったが、なぜか間違ってはいないだろうと思えた。

「中野……」

 気がついた時にはもう僕はそれを口にしてしまっていた。

「お前、彼女いるだろ」

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