⑫童貞くんと夢の終わり
逃げるべきか、この部屋にとどまるべきか。
僕はフローリングの上を落ち尽きなくぐるぐるぐると回っていた。床に落ちたバイブを蹴散らしては拾い、蹴散らしては拾う。意味もなく自分のバッグの中身を確認したり、本棚の天板に置かれたカプセルフィギュアを触ったりしてみる。マオさんはベッドに座ったまま、壁により掛かってスマホをいじっている。
窓を開けてベランダに出てみると、真冬の寒さが肌を刺した。見上げた先に星はなく、暗幕のような空が住宅街の上に被さっていた。隣の部屋のカップルはもう寝たらしい。静まりかえった夜に僕の心臓の鼓動だけが聞こえていた。
マーちゃんが来るのだという。マオさんの彼氏が、この部屋にやってくるのだという。
何のために?
僕は手のひらをこすりながら部屋の中に戻り、マオさんに訊ねてみた。
「迎えに来るってさぁ。私にも言いたいことがあるんだってぇ」
マオさんはスマホをいじりながらのんびりと答えた。体育座りをしているせいで剥き出しになっている彼女の太腿の付け根に、今では恐怖しか覚えなかった。
「ぼ、僕のことって伝えました?」
「君のこと?」
「は、はい。僕が一緒にいるってこと、伝えました?」
「ううん。伝えてないよ」
それは、安堵してもいいことなのだろうか。
伝えていないから逃げてもばれないと考えることもできるし、伝えていないからいざ鉢合わせたときに相手が怒り出す確率が高くなるとも考えられる。
逃げるにせよ留まるにせよ、決断のための時間はそんなに残されていないだろう。とうに終電もなくなったこの時間帯に迎えに来るということは、マオさんの彼氏はこの近くに住んでいるはずだ。下手をすればあと数分でやってくるということもありえる。さてどうすればいい。僕はどうするべきなんだ。逃げるべきか、留まるべきか。逃げれば安全だろうが、逃げてどうするというのだ? 見ず知らずの他人に駿河の部屋を明け渡すことになるぞ。それは道徳的にどうなんだ? 許されるのか? いくら友情より北欧美人を優先した駿河だとは言え、一応は僕の友人だ。蔑ろにはできない。そうだ。よし、決めた。この部屋にいよう。非童貞とはいえまさか化け物が来るなんてことはあるまい。同じ人間なのだから話は通じるはずだ。話せばきっと僕の事情も分かってくれる。よし。そうしよう。
チャイムが鳴った。
僕はその音に撃たれたみたいに身体を震わせ、玄関の方を向いた。
「マーちゃんかな?」
マオさんは顔を上げてスマホをベッドの上に置く。その表情は少しだけ嬉しそうだった。
「出て、みます」
僕は覚悟を決め、足音を忍ばせながら玄関扉に近付いた。ひんやりとした三和土に靴下のまま踏み出して、針の穴みたいな覗き窓にそっと目をあてる。
赤と白のサンタクロース衣装に身を包んだ金髪の男が、顔を横に背けて立っていた。
「も、もしもし」
僕はできる限り平静を装って呼びかけた。
「あ?」
男は場末の暴走族みたいな濁点付きの声を上げてこちらを向く。一重まぶたの鋭い眼光に覗き窓越しに睨みつけられ、僕の平静はたちまち崩された。
「あ、えと」
「誰? え、男? あれ? 間違えた?」
「ああ、あの、マオ、さん、の件、ですか?」
「あ、そこにマオちゃんいるん?」
「え、と、その」
「マオちゃん。いるん?」
「あ、は、はい。います、マオさん」
「開けてくんない? 迎えに来たんだわ」
「いいい今開けます」
僕は遠慮の欠片もない物言いに気圧されていそいそと扉の鍵を開け、金髪男を部屋の中へ迎え入れた。
敷居を挟んで相対してみて、覗き窓越しには分からなかった金髪男の体格のよさに思わず怯んでしまう。頭一つ分高い位置から見下ろすような眼差しには、間抜けさの残る格好を補って余りある威圧感が宿っていた。
「うーっす、さーせん。お邪魔しますわ」
金髪男は我が物顔で靴を脱ぎ、部屋の中に入ってくる。僕はそんな彼にほとんどしがみつくような格好で必死の弁解を始めた。
「ち、違うんですよ! 違うんです! 僕は別にやましいことは何もしていなくて、あの、マオさんが、その、コンビニで、ですね、酔っ払っていらして。ビールのロング缶を片手に、こう、うずくまってね? でそこの店長だか分からないですけど変なもさいおっさんに『その女の人あんた連れでしょ? 早くどこかに行ってよ』って感じで急かされちゃったからどうしようもなくて。ほら、寒いじゃないですか。今。クリスマスだし。それなのに夜空の下に女の人を放置しておくのは男として、というか人間としてどうなんだっていう結論にいたりまして、で、やむを得ずこの部屋に………」
「おう、マオちゃん」
金髪男は僕の言葉を聞いているのかいないのか、のんびりとした様子でマオさんに向かって片手を挙げた。
「あ、りょーくん」
「りょーくん?」
僕は弁解する口を止め、金髪男を見上げた。
「おう、りょーくんだよ。戸山凉介。大学三年」
彼がぶっきらぼうな口調で答えたので、僕は事態が飲み込めずに混乱してしまう。
「つーかあんた誰? なに? なんでマオちゃんと一緒にいるん?」
「あ、えと、僕は、和泉、というもので、はい」
「あっそ。で? なんでマオちゃんと?」
必死に説明してなかったのに聞いてなかったのかよ、という言葉で喉を詰まらせつつ僕がもう一度説明しようとしたところで、
ごんっ。と鈍い音が玄関の方から聞こえてきた。驚いてそちらに首を向けると、開けっ放しだった玄関扉の向こうに、夜を背負って何かが立っているのが見えた。人の形をした壁のようだった。
「まーたぶつけたのかよ。気をつけろよマーヴィン」
「イタタタタ」
暗がりの向こうから太い声が返ってくる。
僕は生温かい唾の塊を呑み込んだ。酷く喉ごしの悪い唾で、息が詰まりかけた。
鴨居をくぐるようにして居間の中に入ってきたのは、今にも頭が天井に擦ろうかというくらいに背の高い、アフリカ系の男だった。肩はロボットのように角張り、腕なんて鉄骨を生やしているみたいだ。鍛え抜かれた駿河の身体が針金細工に見えるほど筋骨隆々であり、首なんて僕の腰くらいの太さがあった。
「あー、そうそう。こいつはマーちゃん。マオちゃんの彼氏の、マーヴィンだ」
戸山が言った。
「イギリスからの留学生なんだが、まだ日本に来て間もないからあんま日本語喋れなくてな。俺は付き添い兼通訳」
僕は口をあんぐり開けたまま立ち尽くしていた。
「で、何がどうなってるわけ?」
と戸山は言いつつ、マーヴィンとともに駿河の部屋を見渡した。
その瞬間、僕は激しく後悔することになる。
なぜあれこれ考えている間に部屋を片付けなかったのだろう。バイブや、コンドームや、パンティやらを、どうして人目につかないところに閉まっておかなかったのだろう。それにマオさんには寝癖を直してもらうべきだったし、パーカーのジッパーも上げてもらうべきだった。性具が出しっぱなしの部屋の中で、乱れた格好をした自分の彼女が男と二人きりでいたら、彼氏はいったい何を考えるだろう。世間話でもしていたんだろうな、とは露ほども思うまい。
「こりゃあ……」
戸山はそれ以上何も言えず、金髪に指を搔き入れ、苦い顔をした。
その隣ではマーヴィンが、世にも恐ろしい形相をしていた。見開かれた目と、食いしばられた歯は刃物が光っているようにさえ見えた。黒々とした腕に浮き出た血管は、大木に巻き付く蔓植物を思わせるくらい太く膨れていた。
マオさんだけが状況を今ひとつ分かっていない顔で僕たちのことを見つめていた。
「あ、あの──」
「………Yo!」
マーヴィンが吠える。その圧だけで僕は壁際まで吹っ飛びそうになった。
「ち、ちちちちちちが」
「#$%&$%&&%$#$%&!」
胸ぐらを勢いよく掴まれて僕の身体は数センチ近く宙に浮いた。比喩ではなく本当に浮いたのだ。ばたつかせた足の爪先はフローリングの上を掠めることさえしなかった。
「&%$#$&%&&%&&&%$%&&%$%$%&$$%!!!!」
ギャング映画でしか聞かないようなスラングのオンパレードが耳を突き抜ける。僕は言葉どころか声すら失ってただ高圧シャワーのように降り注ぐマーヴィンの悪態を浴びていた。
「%&&&%%#%#&&#&%&#%%#&!!!!!」
腰から下の感覚がなくなって、少しでも気を緩めれば小便を漏らしてしまいそうだった。
「ちょっ、ちょっ、マーちゃん?」
さすがに慌てたマオさんがマーヴィンを止めてくれたので、僕はそのまま床に落とされる。
「%$%$%$%$$$%%$$##%! FUCK!」
マーヴィンの罵声に弾かれて僕は窓ぎわまで逃げた。腰が抜けて立ち上がれなかったので芋虫みたいに這ってである。「FUCK」という単語だけ聞き取れたことになぜか異様に安堵した。
「!!!!!!!!!!!!!!」
マーヴィンはもはや英語ですらない謎の怒声を叫びながら、床に落ちていた二万円の尻型オナホールを手に取った。
「なっ………ちょっ!」
僕が声を上げるも間に合わず、彼は疑似膣の中に指を突っ込むと、力の限りを尽くして真横に引き裂いた。生々しい悲鳴を上げながら尻は割れ目に沿って真っ二つになる。マーヴィンはその片方を僕へ投げつけた。半分になったオナホは背後の窓に鈍い音とともに一瞬張り付き、ゆっくり剥がれ落ちた。
僕は氷のように冷たい窓へ力なく寄りかかりながら、床の上で無残な姿に成り果てたオナホを呆然と眺めることしかできなかった。
「マオチャン!」
マーヴィンは野太い声を上げ、隣に立っていたマオさんを激しく抱き締めた。
「ま、マーちゃん? ちょっとぉ………苦しいよぉ」
「ダイジョブ? ケガ、ナイ?」
「ないない、大丈夫だよ」
「アア、ソレハヨカッタ!」
「私のために来てくれたの?」
「ウン、キタ」
「ふふ、ありがと」
マオさんは微笑み、細い腕をマーヴィンの広い背中へと回して熱く抱擁した。力を込めた彼女の手の甲に青白い血管がうっすらと浮き上がる。細い指の間にマーヴィンが来ているシャツがひだを作る。彼女が手を動かすとその皺は生き物の様に彼の服の上を移動していく。
二人の抱擁は三〇秒近く続いた。
「………」
僕は何を見せられているのだろう。同じ部屋の中にいるというのに別の場所にいるような感覚がした。下らない映画を鑑賞しているみたいに、目の前の光景に現実味がなかった。
「マオチャン、アノ、エト、ソノ……」
上手く日本語で表現出来ないらしいマーヴィンに代わって、二人の隣に立つ金髪頭が説明を始めた。
「とりあえずさ、誤解なんだよ」
「誤解?」
マオさんは首を傾げた。
「そう、誤解。マーヴィンがずっとLINEをしてた相手は俺なの。別の女ってのはマオちゃんの勘違い。なんで俺がLINEをしてたかっていうと」
「りょーくんがマーちゃんの浮気相手、なの?」
「違うわアホ」
戸山はマオさんの頭を拳で軽く叩く。あまりにも自然なボディータッチだった。
「まあこの際だから洗いざらい話すけど、マーヴィンは今日マオちゃんにサプライズを企画してたんだよね。サンタクロース姿の俺が家を訪れてプレゼントを渡すっていう。なんで俺が他人の恋路のために身体張んなきゃなんねーんだって思ったけど、まあ二人のためだし、承諾してやったのよ。んで家に行くタイミングを計るために、ギリギリまでマーヴィンとLINEをしてたわけ。こいつが頑なにLINEを見せたがらなかったのは、サプライズがばれたくなかったからってことよ」
「そう、だったの」
口元を手で覆ったマオさんのことを、マーヴィンはその巨体を目一杯使って抱き締める。「オレ、マオチャン、オドロカス、シタカッタ」
マーヴィンはマオさんの耳元にそっと囁いた。カタコトながらも熱い思いを持った言葉だった。
「だから許してやってよ、マオちゃん」
戸山が笑いながら言うと、マオさんは目の端にビーズのような涙をたっぷり溜めて何度も頷いた。そして「私こそごめんね。ごめんね、マーちゃん」と鼻をすすりながら何度も謝っていた。
「マオチャン、スキダヨ。アイシテルヨ。I love you. I will never cheat on you」
「私も好きだよマーちゃん。大好き」
それから二人は一瞬見つめ合うと、どちらからともなく顔を近づけて唇を重ねた。たっぷり一〇秒間は重ね合わせた。一○秒の間に徐々に唇の動きは加速していって、最後の最後には二人の間に舌と唾液の架け橋が見えた。傍らに立った戸山は冷やかすように口笛を吹いていた。僕は壊れた人形のように力なく座り込みながら、永遠とも思える一〇秒間のキスを眺めていた。戯れに触れたオナホに温もりはなく、ぶよぶよと不快に指に張り付いた。
窓の外を見ると、いつの間にか雪が降り出していた。風に煽られて部屋の窓にくっついた透明な雪の欠片は、たちまち溶けて水になり涙のように流れていく。
部屋の中ではまだマオさんとマーヴィンが唇を貪り合っている。
僕のクリスマスはこうして夢の欠片だけを残して静かに幕を閉じたのだった。
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