⑪童貞くんと覚悟

「えっ……ちょっ」

 僕は慌てた。哮り狂っていたイチモツが急速に小さくなっていった。

 女の人に泣かれるのは初めての経験である。そもそも女の人の涙を目にするほど深く女の人と関わったことがないのも原因だったがそれは今は関係ない。

 頭の中で小さな自分を右往左往させながら、僕はこれまでの行動を改めて振り返った。コンビニで拾い、部屋に連れて来て、寝かせて、乳を揉もうとした。揉もうとしただけだ。未遂に終わっている。それ以外にやましいことはない。無理なことは言っていないし、やっていない。この部屋に連れ込んだのだって下心は皆無であり、断じて皆無であり、あくまで慈善的行為だ。寒空に女性を放り出して氷漬けにしてしまうことに耐えかねた己の温かいハートがやり遂げたことだ。そこには当然、我が股の間の些末なイチモツが介在する余地はなかった。だから泣かれるいわれはどこにもない、のだが。

「あの、」

「ふぇあ………ぇあ………ぇん」

 指の隙間から漏れる嗚咽はか細く、なぜ泣いているのかと深く追及するのを躊躇うほどに弱々しかった。

「マーちゃんのばかぁ………! ひぃいん」

「えーっと………えーっと」

 僕は泣き続ける彼女の目の前で、犬のように何度もぐるぐるとその場を回りまくり、とりあえず鼻をかむ用のティッシュを渡した。

「ぅう……ずびぃっ!」

 ラーメンを啜り上げるような豪快な音で鼻をかみ、彼女はそれを僕に渡し返してきた。めしあがれということかと思いきや、捨ててくれということらしい。

 彼女は指で目を擦りながら言った。

「おみず」

 僕は立ち上がり、駿河の冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、コップに注いで彼女に渡した。彼女はそれをぐびっと一息で飲み干し、

「おかわり」

 計三回おかわりした。そうしてようやく少し気分が落ち着いたのか、「ふぅ」とため息を吐き、

「ここどこぉ? きみだれぇ?」

 と改めて訊ねてきた。

 彼女をコンビニからこの部屋に運び込むまでの経緯について説明したのち、僕たちは互いに軽く自己紹介をした。この童顔巨乳美人の名前はマオさんといい、二十二歳の大学三年生だった。

「マーちゃんと喧嘩したの」

 とマオさんは涙のにじむ声で切り出した。酔いの赤に泣き腫らしの赤が加わって、彼女の顔はリンゴみたいになっていた。

「折角のクリスマスなのにスマホばっかしいじってるから、横から覗いたらずっと誰かとLINEやってるの。怪しいなぁって思って、マーちゃんがトイレ行ってるときに調べようと思ったんだけど、ほら、鍵かかってるじゃん? だから全然開かなくて、そしたらマーちゃんが戻って来ちゃって。『勝手に開けるな! 見るな!』ってすごい大きな声で怒られたの。もう絶対女の人とLINEしてるって思ったから」

 そこで彼女は当時の状況を思い出したのか、嗚咽を強めた。非童貞ならここで背中でもさすって慰めてあげるのだろうけど、僕にそんなスマートなことはできない。お行儀よく正座をしたまま、膝の上で拳を握っていることしかできない。

「──女の人とLINEしてるって思ったから、私も怒ったの。だけどマーちゃんは絶対そんなことしないって言うの。絶対嘘じゃん? そんなの。友だちだって言い張ってたけど、でも友だちだったら正直に言えばいいじゃん? なのに言わないの。絶対怪しいもん。しかもさ、彼女との初めてのクリスマスだよ? それなのにずーっとLINEしてるってそもそもそれがおかしいよね」

 マオさんは泣き腫らした顔で僕に詰め寄った。たわわな乳が千切れそうなほどに揺れて、襟元から危うく零れてくれない。僕は理性に頬をぶたれるようにして顔を背け、仕方なくフローリングの隅に転がっていた駿河のパンツに目を向ける。プリントされたリアル調の猿が、歯茎を向き出しにして笑っていた。

 プリントの猿と睨めっこをしながら一つ分かったことがある。

 マオさんが先ほどから口にしている『マーちゃん』は、どうやら彼女の恋人らしい。

 猿を見みつめる僕の脳裏に、マオさんのたゆむ乳と、肉感のある太腿と、ぷりっと上を向いた尻が浮かび上がる。マーちゃんは、それらをすべて自由自在にできるのだ。僕が今こうして目の前にしていながらどうすることもできない至宝の数々に、好きなように触れることができるのだ。お門違いは承知だが、胸を小さな棘で突かれるような妬ましさが溢れて止まない。

「ねえ、ちゃんと聞いてよぉ」

「あ、はい」

 呼ばれて向き直ると、鼻先数センチのところまで迫っているマオさんの顔。

「──っ!」

 不可抗力で一瞬下がってしまった目線がIの字の谷間を捉え、心臓が飛び散りそうになった。

「おかしいと思うよね? 思うよねぇ?」

 酒に染まった頬が軽く膨らんでいる。

「お、思います、思います」

 僕は胸を見たと気付かれないように必死に首を縦に振った。

「彼女とクリスマスを過ごすのにずっとLINEやっててさぁ、しかもその相手が誰だか教えたくないって変だよね?」

「で、ですね」

「だから私はかっとなってさぁ、部屋の飾り付けとかぜんぶ壊してさぁ、マーちゃんに投げつけてさぁ。クリスマスパーティーやるために二人でいろいろ飾り付けしたけどもう意味なくなったからさぁ。リースとかツリーとかぜーんぶ滅茶苦茶にしたの。それでね、私は言ってやったの『別の女のところに行けばいいじゃん』『私より大事だからずーっとLINEしてるんでしょ』『私なんて遊びでしょ!』って」

 マオさんの言葉に「ぃっく」しゃっくりが混じる。

「マーちゃんはなんか言ってたけど、何言ってるか分からないし、言い訳なんか聞きたくなかったからこの格好のまま家を飛び出してきたってわけ」

「そ、それで、あのコンビニに?」

「うん。むかついてむかついて仕方なかったから、コンビニでお酒を買って一気飲みしたの。ああいうのをヤケ酒っていうのかな? 普段あんまりお酒飲まないんだけどぉ、ぃひゃっく。あまりにむかついたからビールのロング缶を二本買ってぐびぐびぃって。そしたら酔っ払っちゃった。ビールって苦いし、まずいし、なんであんなの飲むんだろねみんな」

 と言ってマオさんはふにゃふにゃとした笑顔を浮かべた。表情筋が解けきったようなその笑顔を見る限り、どうやら彼女はまだ酔いから覚めていないらしい。

「私、お酒弱いんだよねぇ」

「ははは」

 僕はふにゃふにゃとした言葉に愛想笑いを返しながら、これが最後のチャンスだと思った。

 マオさんには彼氏がいる。だけど彼氏とは喧嘩をしている。彼女は傷ついている。彼女は温もりを求めている。優しさを求めている。今この場で彼女にそれらを与えられるのは僕だけだ。

 彼女が完全に酔いを覚ますまでが、童貞を捨てる最後のチャンスだ。

 僕は童貞で、したがって過去二〇年間でこういった場に至った経験は一度もない。せいぜいAVのナンパ物を見て日々使えそうなワードをメモしているだけだ。そんな僕が今この場でマオさんに迫るのは、教習所で座学だけ履修していきなり公道を運転するようなものである。必ず事故るとは限らないが、ほかの人よりは確実に事故る可能性が高い。

 しかしもし今この場を逃したら童貞を卒業する機会は永遠に訪れないかもしれない。

 寝込みを襲うわけではないのだから犯罪にはならないはずだ。合意の上でやれば大丈夫のはずだ。結末は、やれるか、断られるかのどっちかだろう。法廷が顔を出す余地はないはずだ。

「うーぃ………ぃっく」

 とろんとした眼でこちらを見るマオさん。一瞬、僕は目線を下げる。胸の谷間がくっきりと開いている。おまけに体育座りをした彼女の足の付け根に、ちらりと黒い布の切れ端のようなものが見えた。ショートパンツの裏地か、あるいは。

「……」

 自分の股間を見下ろした。身体中を巡っている血液が再びそこへ集結していくのを感じる。いつになく張り切った心臓の声が聞こえる。全身がどくどくと脈打っている。ズボンの中で己の分身が徐々に目を覚ましていく。身体はもう答えを出しているのだ。

 あとはただ一抹の勇気のみ。

「あ………あのぉ!」

 僕はついに意を決し、声を裏返らせながら言った。一世一代の勇気を詰めこんだ一声だった。きっとこれは非童貞にとっては小さな一歩だろう。だが、童貞にとっては大きな一歩なのだ。

「なぁに?」

 視線が交錯する。触れあい、絡みつき、やがて一つの糸になる。ような気がする。

 世界の外へ飛び出したかのような沈黙が訪れる。この部屋の中だけ時間の流れが変わったような感覚がある。

 いいのか? この沈黙は、いいのか?

「どうしたのぉ?」

 ぷるんとした桜色の唇に呑み込まれそうになる。顔が、未知の引力に吸い寄せられていく。

 呼吸が荒い。心臓が爆速でポンプ運動を繰り返し、目まぐるしい勢いで血液が全身を巡る。

「あ、あ、あ、」

 震える手を彼女の方に伸ばしかけたところで、テーブルが震えた。

 僕は狙撃でもされたみたいに大袈裟に飛び退き、マオさんの身体から離れた。弾みでちゃぶ台がひっくり返り、隠してあったバイブやオナホがあちこちに散らばる。

 震源地はマオさんのスマホだった。

 ちゃぶ台から落ちた彼女のスマホが、床の上でブーブーブーブー鳴っていた。

「で、電話みたいですね!」

 僕はオナホやバイブを背中で隠しながら取り繕うように言った。

「ほんとだ。誰からだろぉ」

 彼女はベッドの縁に座ったまま、上半身を折り曲げて床のスマホに手を伸ばした。尻を覆うショートパンツの布がぴっちりと張り詰め、胸元からは乳の片鱗がわずかにはみ出す。

「はぁい、もしもしぃ? ──あ、──え? ──うん──うん──だってさぁ────うん、それは、うん──けどさぁ──」

 あともう少しだったのにと舌打ちをしつつも、電話が来たことにほんの少しだけ安堵している自分に気がついた。あのままでは海綿体が怒涛のごとき勢いの血流に血管が耐えきれなくなって爆散していたかもしれない。

「──ん、ん──んー、だって──え?──なのぉ──うん………──」

 マオさんの電話が終わったら、どうやって誘おうか。しっかりシミュレートしておかなければ。確実にマオさんが乗ってくれるような誘い文句を考えなければ。考えろ。下手な言葉では乗ってくれないし、迂闊なことを言ってしまえばこれまでの覚悟が水の泡になってしまう可能性だってある。油断をしてはならない。

「ねぇ」

 まずは軽くキス、だろうか。というかキスってどうやるんだ? 腰に手を回して、そっと顔を近づけて、唇に優しく触れる。それだけでいいのか? いや、キスよりも先にペッティングをすべきなのか? するとしたらまずどこに触るべきだろうか。上から、それとも下が先? 服はいつ脱がせばいいんだ? くそ、何も分からない。最近見たAVではどちらが先だっただろう? 思い出せ、思い出──

「ちょっと、いい?」

 視界の端でマオさんがぽんぽんとベッドの縁を叩いているのを見て、彼女が電話の向こうの相手ではなく僕に向かって話しかけているのだと気がついた。

「は、はい!」

 僕は思い描いていたシミュレーション風景を一旦脇に置き、マオさんの方を向いた。

「あのさぁ、ここの住所って分かる?」

「住所?」

「そぉ」

 僕は急いで部屋の中を見渡し、本棚の上に駿河宛の郵便物が置かれているのを見つけた。

「えっと……東京都、世田谷区、北沢、四の十四の八、ハイツ河合三○二号室です」

 マオさんは僕が言った住所を電話口に向かって繰り返すと、そのまま通話を切った。

「……なんで住所を?」

「今から来るんだってぇ」

 マオさんはスマホを適当にスワイプしながら言う。

「来る? 誰か来るんですか?」

「うん」

 必要なスワイプが終わったのか、彼女はそのままスマホをパーカーのポケットにしまった。

「マーちゃんが今からここに来るってさ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る