⑩童貞くんと葛藤

 いやいやいやいやいやいやいやいや!

 まずいでしょう。さすがに。だめでしょう。いけないでしょう。法律的にも、倫理的にも。

 据え膳を置いてベランダに飛び出した。サンダルを履くのももどかしく、アルミの手摺りに抱きつくようにしてすり寄る。

 振り返った部屋の中には女性が一人、無防備な格好で寝息を立てているのが見えた。

 顔をベランダに戻し、冷気に当てられて氷のようになったアルミの手摺りに思い切り額を押しつけた。肉が焼けるような音が聞こえてきそうだった。熱くなった僕の頭は溶解寸前だった。

 額を手摺りに押しつけたまま深呼吸を数回繰り返し、自分に言い聞かせるように口を開いた。

「冷静になれ……よく考えろ……落ち着け……落ち着け、和泉一正」

 ベランダの隅に生えた雑草のシルエットが夜風に揺れるのを見つめる。

「確かにあの女性は魅力的だ………あの乳は暴力的だ………あの太腿は破壊的だ……だけど落ち着くんだ………一時の欲望に身を任せちゃいけない………」

 再び部屋を振り返り、乱れた息をどうにか整えようと試みながら、ベッドの上に寝転がるあの女性の姿が見える位置に身体を動かす。しかし顔はすぐに反らした。クソ、畜生……理性め。

「揉み……あああああダメだダメだダメだ!」

 頭を掻きむしった。

「酔って眠っている女性に手を出すなんて……そんなの、卑劣だぞ………でも彼女は僕のおかげで………難を逃れたわけで………」

 顔を部屋の中に向けながら、目線は微妙に女性の姿を逃している。誰が見ているわけでもないのに、自分は紳士であると周囲にアピールしている。

「そもそもお前はあの女性と数分前に出会ったばかりだろうが………彼女のことなど何も知らないだろうが………太腿の色と、腰の柔らかさと、胸の谷間の深さくらいしか………」

 顔に両手を押しつけて意味もなくもみくちゃにする。ううっ、とか、ぐぁっ、とかいう声が指の隙間からしたたり落ちる。

「お前は彼女のことを何も知らない………どこに住んでて、何歳で、なんて名前なのか………まったく知らないんだぞ………」

 そんなの関係あるか、と欲望が声を荒げる。密室。性欲を漲らせた男と無防備な女。二人きり。深夜。クリスマス。『ミシュラン三つ星イタリアンのフルコースが飲み放題つき一九八〇円』くらいの据え膳だろう。食わない男がどこにいる。それはもはや恥ではなく罪だ。やれ。

 僕は理性と欲望の間で呻き、顔の肉を全力で握った。にやけているのか毅然としているのか分からなくしようとした。

 そんなときだった。

『あっ──んっ』

 喘ぎのような声を耳にし、僕は思わず立ち上がる。窓は閉めてあるので、部屋の中にいる女性の声が聞こえるわけがない。聞こえるとすれば相当大きな声を出しているはずで、まさか寝入った彼女がそんなことをするとは思えなかった。空耳だろうか。欲望が生み出した幻聴か?

『あぁっ──んあっ──んぅ!』

 また聞こえた。住宅街を満たす澄んだ空気を、甲高い喘ぎが貫く。

 聞き間違えではなかった。そして部屋の彼女の寝言でもなかった。彼女はベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めていた。あれでは綺麗な喘ぎ声は漏らせまい。

『あぅ──あぅ──ぉんっ──いぃいっ──いいのぉ!』

『──いいよ──ううっ──すげえ──いい』

 男の声も聞こえた。

 僕は声のする方へとベランダを移動する。窓に向かって右隣の部屋のようだった。心臓が喉元へせり上がってくるような緊張を覚えながら耳を澄ませた。

『いいっ──すごいっ──んぅ──あ』

『ふぅう──ああっ──あみっ、好きだっ、愛してるっ、あみ、あみっ』

『うんっ、うんっ──アタシも、たくやくんっ、すきぃっ』

 かなり盛り上がっている。

 部屋の様子は分からないが、激しく交じり合う声の調子に、二人の間で燃える炎の勢いをはっきりと感じた。今日で冬を終わらせようとするかのごとき熱量だった。

 他人のセックスというものを初めて生身に感じた。

 AVを見ているときには決して湧かない感情を掻き立てられている気がする。自分の手の届くところで、自分には手の届かないことが行われている。自分が除け者にされているような疎外感と嫉妬と、濃縮された興奮。

 こんな寒空の下で使うかどうか分からないままイチモツを研ぎ澄ませている僕のすぐ側で、まさに今それを使いこなしている人間がいるという理不尽な現実。心が泣く声が聞こえた。

 いや。

 どこの誰とも知らないカップルの喘ぎ声を振り切るようにして部屋の中に顔を向けた。僕が助けたあの女性がベッドの上で寝返りを打った。ショートパンツに包まれた丸尻と目線が合う。布切れ一枚の向こうに清らかな割れ目を想像し呼吸が止まった。

 部屋の中にぼんやりと幻影が浮かび上がった。

 ちゃぶ台の側で全裸の生田が山下レオナに覆い被さっていた。さかんに腰を振りながらも前髪の崩れを気にしていた。フローリングには駿河の幻影が現れた。彼は何やら複雑な体位でアナスタシア嬢を攻め立て、二人ボリショイサーカス状態である。玄関から幻影の中野が入ってきた。隣に見知らぬ女性を連れていた。二人は部屋の入り口で立ち止まると、互いが互いを貪り食うような濃厚なキスを交わし始めた。そしてベッドの上では稲田さんの幻影が、ウサギの尻尾のように結ばれた後ろ髪を乱しながら、背中をエビのように反らしていた。

 僕は靴下越しに伝わるベランダの冷たさも忘れ、幻影に見入っていた。

 僕だって。僕だって。僕だって。僕だって!

 扉を開けて部屋の中に戻ると幻影たちは煙のように消え、ベッドの上の女性だけが残った。

 彼女は眠りこけている。知らない男の部屋で、胸を半分近くさらけだしながら眠りこけている。頬は火照り、小さな寝息にはかすかにビールの匂いが混じっている。

「助けて、あげたんだ」

 唾を飲み、彼女を見下ろすように立った。

「僕があなたを助けてあげたんですよ……助けなければあなたは今ごろ……」

 膝をつき、ベッドへにじり寄る。震える両手を彼女の胸へと近づける。助けてあげたんだから乳の一つや二つくらい、揉んだって、いいじゃないか。一揉み。一揉みだけだ。左右の乳を一回ずつ、軽く、そっと、優しく、揉むだけだ。それで終わりだ。それ以上は何もしない。それ以上は何も。決して。胸以上のことは。

 ちらりと目線を動かすと、テーブルの上にコンドームが一包置かれている。駿河からもらった、苺の香りのコンドームだ。いやいやいや。ダメ。絶対ダメだ。絶対に、

 欲望が甘く、囁く。

 生田も駿河も、それから中野もやってるぞ? きっと今ごろ、僕の知らない女性と、メリークリスマスをしているぞ? お前は胸を揉むだけでいいのか? お前が助けなければもっと酷いことになっていたかもしれないぞ? そう考えたらお前は十分紳士じゃないか? 一回ヤるくらいの見返りがあっても──

 パキン、と何かを割ったような音が鳴った。ほとんど胸に触れかけていた手を止め、玄関の方を見た。誰もいない。窓の方も見た。誰もいない。ラップ音だろう。安堵の息を吐いて女性の方に目をやると、

「あ」

 彼女と目があった。

 僕は弾かれたように手を引っ込め、何事もなかったかのようにクッションの上に胡座を搔いて、窓を眺めた。部屋の明かりを反射して、暗い窓の向こうに動揺する自分が映っていた。

「あの、あのですね、あの。毛布を、かけようかなって、そうなんですよね。毛布をね。そのままじゃ寒いと思ってね。寒かったですよね? だってパーカーしか着てないじゃないですか。しかも下は半ズボンじゃないですか。だから心配で。まあでもなくてもいいかな? あはは」

 窓を向いたまま勢いをつけて言った。心臓が恐ろしいくらいの速度で鼓動を続けていた。このまま一生分動ききってしまうのではないかと思えた。

 返事はない。

 恐る恐る振り向くと、彼女はゆっくりと身を起こすところだった。乳はパーカーの襟からぎりぎりこぼれ落ちなかった。

「ここ、どこ?」

 まだ半分眠ったような目が僕を見ていた。乳を触りかけていたことに気がついていないらしいことは救いだった。僕は鼻の奧からありったけの二酸化炭素をぶちまけた。

「いま、なんじ?」

 寝言のように彼女は言う。

「こ、ここはですね、僕の友だちの家で」

「ともだち」

「で、今は──一時ちょっと過ぎです、ね」

「いちじ」

 僕の言葉を反復したのち、彼女はしばらくぼーっと部屋の中を覗っていた。壁を見たり、天井を見たり、床を見たり。僕はその様子を緊張しながら見守った。テーブルの上には苺の香りのコンドーム、床にはしまいそこねたバイブが数本残っている。彼女がそれらに気がつかないことを祈った。

 彼女がおもむろに訊ねてきた。

「あのぅ……きみは、だれ?」

「えーっと………誰と言われると、その………」

「マーちゃんの友だち?」

「たぶん、違い、ますね」

 彼女は「そっか」と残念そうに呟き、ベッドの縁に腰掛けるようにして座り直した。

「………マーちゃんは?」

「すいません、知らないです」

 彼女はまたしても「そっか」と漏らし、俯いた。

「えっと………どうしましょう?」

「……ん」

 俯いている彼女の胸元に深い乳の谷間が見えた。自分から落ちていきたくなるような谷間だ。

 頭の隅に邪念が過ぎる。

 まだ可能性はある、だろうか?

 彼女は目覚めてしまったが、上手く会話を運べば、乳くらいなら揉ませてくれるだろうか。僕はこれまで見てきたAVの中のやり取りを思い出しながら、欲望と倫理の狭間で揺れていた。

 しばらくの沈黙のあと、

「……あ、あの!」

 と意を決して彼女に声を掛けてみて、何かがおかしいことに気がついた。

 小さな嗚咽が聞こえた。

 ベッドの縁に腰掛けた彼女は、両手で顔を覆って泣いていた。

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