⑨童貞くんと泥酔した女の子
「らっしゃいっせ~」
やつれたおっさんの気怠い挨拶は、聖夜に一人あぶれた僕を肯定してくれるエールだった。
闇夜を炯々と照らすコンビニは思いがけない安心感を与えてくれた。少なくともそこで働く人々は、この忌まわしきクリスマスから切り離された賢者たちであるからだった。
仲良く手を繋ぎながらコンドームを選んでいるカップルの存在を視界の端に殺し、僕は栄養ドリンクが並んでいる冷ケースの前で数分吟味した。狼のパッケージとマムシのパッケージの二つを買うことにした。ついでに牛の絵柄のエナジードリンクも購入する。狼とマムシと牛を掛け合わせて飲んだ暁には、僕のイチモツは宇宙的硬度であのオナホールを貫くことだろう。
親近感を覚えるレジのおっさんに商品を渡し、会計を済ませて意気揚々と店を出たところで、ゴミ箱の影に丸くなっている何かを見つけた。
「──!」
僕は危うく買ったばかりの精力剤たちをアスファルトの上に落としかけた。
入ってくるときには気がつかなかったそれは、驚くべきことに若い女の人だった。ショートカットの若い女の人が、ビールのロング缶を片手に寒空の下で丸くなっているのだ。
目を止めたのは何もその女の人が僕の好みの正鵠を射る黒髪清楚な童顔美人だったからではない。下着にパーカーを羽織っただけらしい襟ぐりから黒い布に包まれた胸がこぼれ落ちそうになっていたからではない。コンビニから放たれた光を弾く太腿の、眩いばかりの白さに魅せられたからではない。
「……ぃっく」
と彼女がなんだかよく分からない色合いの液体を口から垂れ流したからだった。
それは言葉を選んで言えば地上に現れた天の川であり、言葉を選ばずに言えばゲロだった。
こんな可愛い人もゲロを吐くのかと驚き、また言い知れぬ痺れを覚えた。綺麗なのに汚いという矛盾に胸が熱くなった。見れば彼女の座り込む地面には点々と汚物の跡が残されていた。
「……………うぇ」
小さなゲップを漏らし、その女の人は顔を上げた。
目があった。
極地の夜空を思わせる澄んだ瞳の中で、コンビニの照明が乱反射している。真珠のように丸い顔には酒のせいか仄かに赤みが差している。桜色の唇の端はゲロでわずかに汚れているけれども、それがかえってエロチシズムを感じさせる。僕は生唾を飲み、彼女は夜空をしまった瞳をとろんと崩した。
「あ………マーちゃん?」
誰だ。
僕は興奮と混乱のただ中にいた。
クリスマスの夜に、コンビニに、防御力の低そうな服を着た女の人が、防御力の低そうな状態で座り込んでいる。
これまでの常識を蹴り飛ばしていくような状況に思考が止まりかけている。その場から立ち去ることも、かといって彼女に声をかけることもできないのだった。
「マーちゃん」
彼女はもう一度誰かの名前を呼んだ。その声は少し濡れていた。
「だ……」
れですか、と聞こうとするより先に彼女が握っていたビールのロング缶が顔に向かって飛んで来た。まだ残っていた中身を宙に撒き散らしながら、それは僕の顔面にクリーンヒットする。
「ばか! あほ! まぬけ! 女たらし! ばか! ばか! イギリス人! 」
舌っ足らずで意味不明な口調に怒鳴られる。女の人は童顔にらしからぬ怒り顔で僕を睨みつけていた。
「えっ……その……」
「ばかばかばかばかばか! うぁあああえええええええん」
泣き出した。
洪水のようにあふれ出す感情に困惑しつつも、僕はとりあえず彼女に近寄った。こういう時どうすればいいのか分からないの。笑えばいいと思う?
「あ、あのだいじょう、ぶ、ですか?」
愛想笑いを浮かべつつ、震え声をかけてみる。なんせ家族以外の女性と話すことなんて年に数回あるかないかなのだ。女性という生き物に童貞の僕が使う言葉が通じるのだろうか。そんな不安さえ覚える。
「えっく………えあ………おぷ………うううあああん」
泣いて、ちょっと吐いて、また泣く。
先ほどコンドーム棚の前で仲良くしていたカップルが、冷たい一瞥を寄越しつつ去っていく。
僕まで泣きそうだ。
彼女は僕とは無関係なのだから放っておけばよかった。赤の他人なのだから、変な目で見てさっさと駿河の部屋に帰っていればよかった。そうすれば今ごろは快楽に溺れられていた。今からでも遅くないはずだ。まだ引き返せる。立ち上がって彼女に背を向けて部屋に帰れる。
しかしそのとき、僕の心の奥に巣くっている二〇年物の童貞がこう囁いた。
ワンチャン、と。
何がワンチャンなのかは分からない。だがどこかにワンチャンの神が降りているらしい。
僕は改めて自分の状況を考えてみた。
クリスマス。深夜。酔っ払った女性。介抱が必要。
降臨のための条件は確かに揃っているような気がした。
「うっ………」
嗚咽する初対面の女性を見下ろしながら頭の中で頭を抱えていると、コンビニの自動ドアが開いた。
「あのー」
そう声を掛けてきたのは、レジの中にいたやつれたおっさんだった。四〇代くらいの小太りの、まるで未来からやってきた僕のような。
「お連れさん?」
「はい?」
「お客さん、その女性のお連れさん?」
見た目の割に気の強い物言いをするおっさんだった。
「い、いえ」
「困るんですよね、こういうの」
おっさんはあからさまなため息を吐いた。
「お店の前でお酒を飲まれるのも迷惑だし、こうやって吐かれるのも迷惑なんですよ。分かりますよね? こういうのって誰かが掃除しなきゃいけないんですよ。誰が掃除すると思ってるんですかねまったく」
「あの」
「もう帰っていただきたいんですけどね。余計なクレームとか入れられて損するのウチなんですよね。営業妨害で警察呼んだっていいんですよ」
「その」
おっさんは僕の返答に聞く耳も持たず、手で追い払うような仕草をしながら店の中へと戻っていく。「浮かれやがってガキが。人が働いてるおかげで楽しめてるとも知らずによ」という捨てゼリフを舌打ち混じりに吐きながら。
再び僕と女の人だけになった。冷えた空気が肌を刺す。コンビニの前を、二人乗りのバイクが白と赤の尾を引きながら通り過ぎていく。
店内を見ると、あのおっさんが不機嫌な目でこちらを睨み返してきた。場所を移動しなければまた表に出て来て嫌みを言ってくるに違いない。
「あの……ちょっと」
とにかくどこかに移動しようと思い、彼女の肩を指先で突いた。
「くぅ………」
彼女は瞼を閉じて小さくいびきを立てていた。
童貞が再び心の内で囁いた。
ワンチャン、ワンチャン。
全身が寒さとは違う理由で震え、胸の辺りが妙な熱を持ち始めた。
またあのおっさんにどやされるのは嫌だから場所を移動しなければならない。ではどこにいく? こんな真冬の深夜にどこへいけばいい? 外は寒いし、辺りは住宅街だ。暖を取れる場所なんてものはほとんどない。コンビニを逃せばほかに立ち寄れる公共施設はないだろう。足を伸ばせば下北沢だが、泥酔した女性とそこまでは歩けない。
ならどうする?
簡単だ。駿河の部屋がある。
呼吸が乱れているのをはっきりと感じ取った。心臓が内側から胸を激しくノックしてくる。下腹部が痺れて熱い。
誰もいない部屋に、女性を、連れ込む?
超現実だった。
僕はもう一度彼女の肩を指で突く。「んん……っ」という色っぽい吐息に、イチモツが震えた。ズボンの内側で窮屈そうに首を伸ばしていた。
店内を見ると、おっさんがカウンターに手を置いて顔をしかめていた。
僕は心を決めた。
「い、移動しましょう。ほら、怒られちゃいますから、ここにいると」
恐る恐るかがみ込んで女の人の腕を自分の肩に乗せ、反対側の脇の下から自分の腕を通した。上腕にパーカー越しの胸が触れる。全身がぎゅっとすぼまり、口の中に一瞬で唾液が溜まる。わずかにでも視線を落とせば、襟ぐりに深い谷間。底の見えない深い闇。僕は目を逸らした。
欲望と見栄とが顔の筋肉の上で鍔迫り合いを繰り広げる。
乳だ、喜べ。見るな、紳士たれ。
「た、立てますか? 起きてください? 移動しますよ。移動しないと怒られちゃうんですよ。だから、ね。仕方ないですけどね。とりあえずはぼ、僕のところに」
そう。怒られるのだ。おっさんに怒られてしまうのだ。だから移動しなければならないのだ。
「んぅ……んっ」
女の人は喘ぎに似た声を漏らしながらふらふらと立ち上がった。しかし彼女は躓いて、たわわな胸がぎゅっと僕の上腕に押しつけられた。イチモツが火を噴いて飛んで行きそうだ。彼女はむくりと顔を上げ、とろんとした目で僕を見る。
「マーちゃん」
「あはは」
誰だ。
「ばかばか。マーちゃんのばか」
と言って女の人は僕の身体に頭を寄せた。かすかな酒の匂いと、艶やかな黒髪から漂うシャンプーの香りとが同時に鼻孔をくすぐった。初めて嗅ぐ「女」の匂いだった。気がついた時には表情筋の上にいた見栄を咄嗟に蹴り落としていた。僕は欲望百パーセントの顔で彼女から立ち上る香りを吸い込んだ。吸い込んでから慌てて見栄を表情筋の上に引き上げ、顔を元に戻す。
僕は気を取り直してこの童顔美人に肩を貸しながら、夜道を駿河の部屋へと戻ることにした。
「……ふにぁ……」
女性がつまずきそうになるので腰に回した腕をぐっと引き寄せると、腹や胸の柔らかさがはっきりと分かった。だから僕は彼女が転ばないよう、細心の注意を払って何度も体を支えた。
アパートのエレベーターで女性と二人きりになると心拍数は跳ね上がった。密室、密着。彼女を支える腕に自然と力がこもる。
「んっ……あっ………んー……」
扇情的な吐息を漏らして彼女は僕にしなだれ掛かる。セキュリテイの甘い乳がまろやかに揺れる。僕は誰の目もないというのに紳士ぶってエレベーターの壁を睨みつけた。
部屋にはまだ誰も帰ってきていなかった。むしろ誰かが帰ってきていたらどうするつもりだったのだろうと自分に聞いた。どうするつもりだったのだろう?
ひとまず部屋の中まで彼女を運び込むと、一仕事終えたあとのように大きなため息を吐いた。
「んぅ……はれ?…ここ、どこぉ?」
肩に寄りかかっていた彼女が薄目を開ける。彼女の目線の先にあるのは、僕が出ていってからそのままの状態の居間。AV、ローション、オナホ、バイブ。すべてさらけ出されている。
「やべっ」
僕は彼女を廊下の壁に立て掛け、急いで居間の上の忌まわしき性具たちをちゃぶ台の下に蹴り飛ばす。黒いTバックを穿かされた尻が転がっていく姿にはささやかながら罪悪感を覚えた。
「と、とりあえずほら! 横になって下さい!」
ベッドの上に残っていたバイブをシーツの下に隠し、前後不覚な彼女の腕を引きよせた。
「ふにゅあ……」
彼女は僕に導かれるままベッドの端に腰掛け、そのまま倒れるようにして横になった。その拍子にショートパンツが領土を狭めて太ももを剥き出しにし、パーカーの裾がそば屋の暖簾のようにぺろりと捲れ、縦長の綺麗な形をしたへそが顔を覗かせる。そして漏れなく乳が揺れた。
横になったときにパーカーのポケットから落ちた彼女のスマホを拾い上げてちゃぶ台の上に置くと、
「うぅ……暑つぅい………」
彼女は仰向けの格好のまま、パーカーのジッパーを己の指で数センチ下げた。襟の隙間から黒いレース地の布片が垣間見え、胸元に、万物を吸い込む強烈な重力を宿した見事なダイヤモンド地帯が誕生する。
僕は深く息を吸い、天井を見上げ、長く吐き出した。
胸の谷間とジッパーの裂け目が作り出した魔のダイヤモンド地帯。理性に邪魔されてしまい、目にすることができたのは一瞬。しかし手を突っ込むようにはっきりと脳裏に焼き付いた。
我が身は頭の先からイチモツの先まで余すところなく緊張していた。
六畳一間に童貞一人。ベッド上には無防備に寝転がる女性が一人。
イチモツ、怒張せり。
さて、僕はなにをどうすべきだろうか。
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