⑧童貞くんと孤独

 駿河が指名した嬢のプロフィールは以下の通りだった。

『アナスタシア(24)T175 B97(F)W60 H95

 性格:大らかで思いやりたっぷり

 前職:小学校の教師

 好きな男性のタイプ:たくましい人

 チャームポイント:おっぱい

 好きなプレイ:正常位

 性感帯:乳首

 キャストから一言:Пожалуйста, будьте нежны(優しくしてくださいね※スタッフ訳)』

 添えられた数枚の画像に写っているのは、顔にモザイクが掛かった金髪の女性。肌は誰も踏み入れたことのない雪原を思わせる白さで、二つの胸はピロシキのように丸くふっくらとしていて、谷間はどこまでも沈んでいけそうなほど深かった。

 僕は『ホクオウ美女ホテヘル・さんくとぺてるぶるく』というけばけばしい文字が踊るホームページを見ていた。駿河がどんな嬢を指名したのか興味があったのだ。実際にホームページで嬢の様子を確認し、なるほど彼が指名するのも頷けると思えた。それくらい魅力的なプロフィールだった。だからこそ余計に腹立たしくなった。

 アナスタシア嬢のプロフィールをもう一度読み返すと、スマホをちゃぶ台の上に投げ出して額をその上にごんっと落とした。

 時刻は十二月二十五日の零時四〇分。僕と中野は今は亡き駿河の部屋で、バイブが転がるちゃぶ台を挟んで向かい合っていた。

「『おまたせしました、お待たせしすぎたかも知れません! ぷりっぷりの北国美女、アナスタシアちゃんが入店です! 一年前まで小学生に勉強を教えていたエッチなお姉さんは、こぼれ落ちそうな真っ白おっぱいの持ち主☆ 出会った瞬間にむしゃぶりつきたくなります! まん丸なエロエロお尻も必見です♪ 間違いなく楽しい一時が過ごせます☆☆☆』だってさ」

 僕はアナスタシア嬢を推薦するスタッフのコメントを棒読みした。無感情を装っていたが、内心では興奮が収まらなかった。

 ぷりっぷりの北国美人! 真っ白おっぱい! エロエロお尻! 

 真っ直ぐでシンプルな表現が心と股間の奥深くまで刺さる。駿河ほどじゃないが、僕も北欧美女は好きだ。そういうAVもたまに観る。子どもの頃は、ハリウッド映画の濡れ場シーンだけを親に黙って何度も見返していた。だからすぐに妄想が脳の皺を押し広げ、イチモツに血を溜めていく。

「僕もあいつについていけば………」

 無意識に本音が声になり、僕は慌てて口を塞いだ。邪な思考を捨て、ちゃぶ台の向こうを見る。小説用のネタ帳になにやら書き込んでいた中野が、きょとんとした顔で見返してきた。

「どうしたの?」

「いや、ついに二人だけになっちゃったなって」

「……そうだね。僕、結構この会楽しみにしてたんだけどな」

「僕もだよ」

 沈黙が降りる。窓の外からバイクが走る音が聞こえてきた。

「中野は駿河についていきたい思わなかったのか?」

「僕は……」

「隠さなくていいよ」

「僕は、思わなかった、かな」

「そうなのか?」

「うん」

 意外な答えだと思った。

 四人の中で一番誰が女体に飢えているかといえば、それは中野である。彼女作りに躍起になる生田より、自慰に狂う駿河より、日がな一日妄想にふける僕より、中野が一番女体に飢えていたはずだった。溜まりすぎた性欲を吐き出す先がなくて官能小説を書き始めたほどなのだ。中野は小説の中で、およそ人にでできるプレイは何でも表現した。目が離せない濃厚なプレイも、目を覆いたくなるような惨いプレイも、中野の頭の中に広がっている性宇宙には果てがなかった。

「隠すなよ、中野。お前が風俗に行きたいと思ってたとしても結局は行かなかったわけだし、僕は何も言わないよ。正直に明かすと僕だって少しは行きたいと思ったしね」

 諭すように言ったが、中野は首を横に振った。

「……まったく行きたいと思わなかったんだ。風俗に行くよりも、みんなと猥談百物語をする方が楽しいと思ったんだ。だから本当は生田くんや駿河くんには行かないで欲しかったよね」

「中野……」

 僕は己を恥じた。性愛よりも友情を求める人間とは中野のようなヤツのことを言うのだ。

「ごめん、僕は馬鹿だ」

「ど、どうしたのさ和泉くん」

「口ばかり偉そうなことを言っても、僕の頭に歯しょっちゅう邪念が紛れ込んでいた。生田を妬んだし、駿河を羨んだ。本当に猥談百物語を楽しみにしている人間なら、そんなことはしない。あの下北沢の路地裏で、ほんの少しでも風俗に行きたいとさえ思わないはずだったんだ」

「そ、そんなことは」

「いいんだ、中野。慰めないでくれ。悪いのは僕だ。深く反省する。そして約束する。僕は絶対に君を見捨てない。行動でも、思考でも、君のことを見捨てない」

 僕はちゃぶ台に両手をつき、深く頭を下げた。

「すまない」

「和泉くん、顔を上げて。君の気持ちはよく分かったよ」

「……ありがとう」

 僕は真の友人たる中野の寛大さに強く心を打たれていた。本当の友情を見つけた気がした。生田や駿河との間にはなかった固い絆が今、僕と中野の間をしっかりと繋ぎ止めていた。

「中野、二人だけになってしまったけどまだ百物語は途中だ。朝までじっくり盛り上がろうじゃないか! 僕にはまだ、あいつらが後悔するくらいエロエロな話が残って──」

 テーブルが震えた。

 止めたはずのバイブが誤作動したかと思ったが違った。震えていたのは中野のスマホだった。

「電話だ」

 中野の表情にさっと緊張が走る。彼はテーブルから奪うようにしてスマホを取り上げると、僕に背を向けながら電話に出た。薄い背中を小さく丸め、彼は囁くように「もしもし」と言った。

「──うん──うん、そっか──うん、大丈夫?」

 何度か相づちを打った後、一瞬だけ盗み見るような視線がこちらに目を向けられた。胸の奥がざわついた。僕たちを繋ぐ絆の結び目が嫌な音を立てていた。

「──気にしないで──分かった──うん──一〇分、一五分くらいかな──分かった、行く」

 中野は電話を終え、申し訳無さそうな顔で僕を一瞥し、そっと立ち上がった。

「……な、かの? どうした? トイレでも行くのか?」

 無理やり明るく取り繕った呼びかけに、返ってきたのはたった三文字。

「ごめん」

 中野は床に畳んであったコートだけを掴むと、あっという間に部屋を出ていってしまった。

「なかっ………!」

 引き留めようと伸ばした手は、彼のシャツの裾にさえ触れることができなかった。腰を浮かしたまま玄関ドアが勢いよく閉まる音を聞いた。振動でちゃぶ台の上に立っていたバイブが倒れた。廊下の奥から吹き込んできた風は刃のような冷たさで僕と中野の間に残っていた絆の最後の一本を断ち切った。

 静寂が訪れた。

 ややあってから腰をクッションの上に落とすと思いがけないほど大きな音と衝撃があり、築年数の少ないはずのこのアパートがわずかに揺れた気がした。

「なか、の」

 ぽつりと漏らした言葉に返ってくる声はない。

「どうして。どう、して」

 ちゃぶ台の上に置かれた僕のスマホの中で、顔の見えない金髪女性が小さい布に覆われた尻を突き出していた。それにかぶりつく全裸の駿河が脳裏に浮かんで気分が悪くなった。

「中野、僕まだお前の話を聞いてないよ。お前がストックしてるえげつない話を聞いてないよ。楽しみにしてたんだぜ、それ。なのに勝手に出てくなんて、そんなの、ないだろ?」

 床に落ちたバイブに向かって言った。バイブは何も答えず、震えず、死に絶えたように制止していた。

 隣の部屋から男女の声が聞こえてきた。上の部屋から複数人が歩く音がした。隣家の屋根で野良猫が二匹身を寄せ合って丸くなっていた。僕はただ一人、聖夜の牢獄の中にいた。

 中野はどこへ言ったのだろう。

 僕はすがるように玄関の方を見た。照明の落とされた廊下の向こうに、ぼんやりと扉の影が四角く浮かんでいる。それが今にも開けられて、「冗談だよ冗談」と中野が笑いながら部屋に戻ってくる光景を妄想した。慣れないドッキリでぎこちない笑顔を浮かべた友の姿を想像した。

 一分が過ぎ、三分が過ぎ、五分が過ぎた。扉は固く閉ざされたまま微動だにしなかった。

 ついに一人になってしまった。

 生田に捨てられ、駿河に裏切られ、そして中野に逃げられた。友情を誓いあった仲間たちは皆、クリスマスの夜に消えてしまった。

 僕は頭を掻きむしり、床の上を転げ回った。名状しがたい感情が身体の中で暴れ回っていた。その源泉はおそらく扁桃体ではなく睾丸、あるいは前立腺にあった。

「くそ、くそ、くそ、くそ、くそ、くそ!」

 なんでみんな僕を置いていく。なんで僕だけが残される。なんで僕だけを置いて、みんな行ってしまうんだ。生田も、駿河も、中野も、それから稲田さんも。

「いなだ、さん」

 大の字になって見上げた天井に向かってぽつりと言った。

 清楚な黒髪をウサギの尻尾のように小さく後ろで結んだ稲田さん。バイト先の『スマイルアワード』を四カ月連続で受賞した稲田さん。小さいのにパワフルで元気な稲田さん。可愛くすぼめた口でホットコーヒーに息を吹きかけていた稲田さん。

 彼女はいま、何をしているのだろう。どこで何をしているのだろう。

 今は性の六時間の真っ直中。

 日本で一番セックスをする人が多い時間帯。

 小学校時代に優しくしてくれたあの子も、中学校時代に通っていた塾にいたあの美人な先生も、高校時代に部活の試合で見かけた他校の女子マネージャーも、新歓で行ったサークルのフレンドリーな先輩もみんな、みんな。

 大手商社に内定をもらった高身長先輩の顔が頭に浮かんだ。顔がそこそこよくて、実家が金持ちで、学歴もよくて、女性客の中には密かにファンがいる。大手商社に内定をもらったことをたいしてすごいことでもないようにバイト仲間へ報告していたが、内心では空の彼方まで鼻を高くしていたのだと僕は知っている。誇らしくて誇らしくてしかたがないのだと知っている。自慢しないことで「功績を鼻にかけない理想的なエリート」になろうとしているのだと知っている。中小企業に内定をもらった自分と同学年の同僚に「十分いい会社じゃないか、頑張れよ」と上から目線だったのを知っている。

 そんな男の前でウサギの尻尾のような後ろ髪を振り乱している稲田さんの姿を想像して吐き気がした。僕は死にかけのダンゴムシみたいにフローリングに丸くなっていた。

 いつまでそうしていたのだろうか。

 しばらくして寝返りを打ったとき、ちゃぶ台の下に落ちていた駿河のAVを見つけた。『爆乳ロシア娘とねっとりハラショー! 8時間スペシャル』である。

 僕はそのAVを親の形見のように抱き締めたまま、ゆっくりと身を起こした。パッケージを裏返してみた。そこに掲載されたブロンド美女たちの着衣時と行為中とのビフォーアフターに見入った。身体の芯が熱を持ち始め、血の流れが中心へ向かって渦を巻いていくようなイメージが脳内に浮かんだ。下半身が熱くなっていった。強く掴んだAVのパッケージがメキメキと不安げな音を立てた。僕は目を釘にしてロシア娘たちをずっと見つめ続けていた。

 立ち上がろうと思ったのは意志ではなく、本能だった。

 僕は駿河の部屋を改めて見て回った。天井まで届くような大きな本棚の前面に被せられた布を剥がすと、綺麗に背中を並べたAVたちが誘惑するようにこんにちはした。つられて僕のイチモツもこんにちはする。めぼしい作品を直感でいくつかピックアップすると、今度は本棚の下段に押し込まれたダンボール箱を引きずり出した。中にはプルプルとした肌色の塊がたくさん詰まっている。駿河のオナホールコレクションである。僕はその中から、女性の尻を象った形のヤツを選ぶ。持ち主を虜にした二万円もする逸品である。ぷりっと膨らんだ尻たぶを平手で打つと、景気のいい音が孤独な部屋の中に『ぱんっ』と響いた。本棚から離れて別の場所も探した結果、ドレッシングボトルのような容器に入ったローションを見つけた。それから僕は中野が置き忘れていった黒いTバックを手に取った。ほとんど紐みたいなそれの両端をぐいっと伸ばし、オナホールに穿かせた。Tバックを身に付けたそれは思っていた以上に人間味を感じさせ、僕の頭はあるはずのない太腿や腰のくびれを錯覚した。

 AV、オナホール、ローション、それからパンティ。準備は万端だった。

 狂ってやろうと思った。

 聖なる夜を自慰行為で汚してやろう。朝日が昇るまで延々自分を慰めててやろう。溜め込んだあらゆる感情を打ちつけてやろう。何発だって出してやろう。すべてをこの何者でもない女に受け止めてもらおう。そうすればきっと友が消えた苦しみも恋を失った悲しみも何もかも忘れることができるだろう。

 パンティを穿かせた女の尻を床に置き、その両尻たぶを手でしっかり押さえつけ、海賊船の砲手のようにどっしりと構えた。装填すべき弾はすでに僕の股の間に聳え立っていた。

 しかしいざ挿入という段階にいたって僕は、もう一つ用意すべきものがあると思った。

 精力剤である。

 夜通し自慰に更けるつもりなのだから、生半可な用意ではいけない。クジラでさえ狂わすような強力なヤツを飲んで、僕は自慰の化け物になってやる。駿河を超える、正真正銘の化け物になってやる。

 半脱ぎ状態だったパンツとズボンを引き上げ、財布だけを持って駿河の部屋を出た。コートなどいらないほど身体は熱を発していた。

 アパートから数分のところにあるコンビニへと向かい、そして僕は運命的な出会いを果たすことになる。

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