⑦童貞くんと友だちの裏切り

 生田たちがいなくなってしまえばあの店に用はない。いらぬ思考に沈んでヤツをみすみす逃してしまったことと、予想外に桁数が多かった会計とのダブルパンチに泣きを見ながら、僕たちは『クッチーナソスティトゥート』を後にした。

 午前零時を回り、イブが終わった。

 下北沢にクリスマスが降りてきた。性の六時間は折り返し地点である。夜道にぽつんと童貞が三人。行くあても目的もなく、深い夜空を見上げている。

 二人で一つのポケットに手を突っ込んでいる男女がいた。コンビニ袋を分け合って持つ男女がいた。電柱の影で唇を重ねている男女がいた。終電をなくした男女がいた。視界のほとんどを男女が埋め尽くしていた。僕たちは水に流しこまれた油のように聖夜の路上に浮いていた。

「帰るか」

 駿河が空に向かって吐き出した煙のような息は、賑わい続く下北沢の空に虚しく消えた。

 生田のことなど忘れて夜通し語り合おうと暗黙のうちで誓い合い、三人の童貞は逃げるようにして横道へ入った。

 僕たちはこの夜に存在してはいけない生き物なのだろうか。街に出るとそんな気がふと胸に去来する。世の中の男女のつがいを目の当たりにし、どこのだれともつがいになれない自分を恥じてしまう。「童貞だって『性の六時間』を楽しめる」と声高に宣言してみても結局は虚勢であり、ハリボテの勝利でしかない。僕たちは、ただ、

「和泉くん」

 中野が僕の肩を叩いた。

「早く帰って会の続きをやろうよ。僕にはまだえげつない話のストックがたくさん残ってるよ。君たちの希望に応じて話をすることだってできるんだから」

「中野……」

 そうだ。彼の優しい一言で僕は思い出す。

 僕にはこの夜を友に過ごす女の子はいないが、大切な友達がいる。猥談百物語がある。性がなくとも愛がなくとも、僕たちには猥談百物語があるのだ。語るべき話があり、友がいるのだ。それ以上望むべき何かがあるだろうか。

 我を忘れて情事に勤しむ男女に問おう。お前たちは幸せなのか。裸で互いを貪りあうのが本当の幸せなのか。本当の不幸を隠すために女を組み伏せ、男に跨がり、己に布団を被せているのではないのか。お前たちは胸を張って自分が幸せだと言えるのか。

 僕か? 

 僕は言える。

 僕は幸せだ。友人たちと馬鹿話に更ける今宵は世界中の何よりも、誰よりも、幸福に満ちている。

「──いてっ」

 先頭を行く駿河が不意に足を止めた。そのせいで僕は彼の石壁のような背中に衝突した。

「どうしたんだ?」

「やっぱり無理だ」

 駿河は僕らに背を向けたまま肩を震わせていた。

「無理? 何が?」

「無理なんだよ、もう。俺には無理なんだ」

 その太い声には、名状しがたい魂の慟哭が込められていた。

「耐えられ、ないんだよ」

「だから、何が? お腹でも痛いのか? うんこか?」

「さっき生田の連れの女に腹筋を触られたせいだ!」

 夜気が震える。

「あのとき俺の中で何かが千切れ飛んだ。あの指の細さ、柔らかさ、繊細さ! 女はあまりにも男と違う! 違いすぎる! あれは自分で自分の筋肉を触るのとは明らかに違う感覚だった! 全身が電流を受けたみたいだった! あの女の指先一つで俺の筋肉はショートしてしまった! もうだめだ! 無理だ! 我慢ができん! 指先だけでなく、筋肉だけでなく、女のあらゆる部位が俺のあらゆる部位に触れたらどうなるのか! 想像しただけで股間のバルクアップがとまらない! 弾けそうだ! もうだめだ!」

 こちらを振り向いた駿河の顔は、檻を食い破ろうとする獣のそれだった。シワの一本一本に怒りと悲しみが深く刻まれていた。見開かれた目は血走り、食いしばった歯が街灯の光を闇の中に白く映えた。僕も中野も思わず一歩後ずさった。彼にはそれくらい鬼気迫る気配があった。

「風俗に行く。風俗に行くぞ、風俗に行くぞ、風俗に行くぞ、風俗に行くぞ、風俗に行くぞ」 

 駿河はぶつぶつと呟きながら、震える手でポケットから何かを取り出した。スマートフォンだった。

「和泉、中野! 俺は、風俗に行くぞ!」

「ふ、風俗って」

「限界だ。我慢ならん。俺は女に触りたい。女に触ってもらいたい。あの柔らかい肌と、肉と、俺は全身で触れ合いたい。今日はバイトの給料が入ったんだ。金ならたくさんある。女だけがいない。畜生。俺はやる、やってやる。男になってやるぞ」

 息を荒げてスマホを指で連打した。彼の足は童貞の淵に立っていた。一歩踏み出せば、真下に広がった底知れぬピンク色の闇へと堕ちていく。無辜の魂が色欲に呑まれて潰れてしまう。

「早まっちゃだめだ駿河!」

 僕は友を助けたい一心で叫んだ。胸の前で拳を握り、歯を食いしばって、友の誘惑を吹き飛ばすように声を張った。

「風俗の女はお前の中に何も残さない、男になんてしてくれない! 風俗で童貞を卒業したって何も変わらないんだ! 料理と同じだ! カップラーメンを作れたからって料理ができるようになったとは言わないだろ? 自分で材料を買って作ることができて初めて料理ができるようになったって言えるんじゃないか! 不完全燃焼した欲望の塊が醜く燻るだけだ! 今すぐスマホを置け! 電話なんて掛けるな! 掛けちゃだめだ! 素人童貞は童貞よりも醜いぞ、それでもいいのか!」

 羨望や嫉妬といった不純の一切ない、まったくない、決してない清廉な叫びだった。

「それでもいい!」

 駿河は吠えた。白く膨れた熱い吐息が、怜悧な空気を切り裂いて夜の端まで響き渡る。

「醜かろうが無駄だろうがどうだっていい! そんなことを気にして我慢するくらいなら、何もかも気にせず女に触りたい!」

 発信アイコンがタップされた。

 童貞の悲痛な叫びが過ぎ去った夜道に、無機質な発信音が静かに鳴り響く。

「……前から目を点けてた店が下北沢にある。北欧美女専門のホテヘルだ。サイトのキャスト一覧には目が飛び出るような美人しかいない、素晴らしい店だ。もしも彼女ができずに風俗で童貞を捨てることになったら、俺は絶対にそこを利用すると決めていた」

「ホテヘルって……それじゃあ童貞は捨てられないじゃないぞ。分かってるのか」

「可能性はゼロじゃない」

 駿河は僕の懸念を払いのけるように言った。

「言っただろ、バイトの給料が入ったばかりだ。まだ一円も使ってない。まるまる八万円残ってる。それだけあれば交渉出来るはずだ。確かにホテヘルやデリヘルを利用してセックスをすることは法的に禁止されている。けどそんなのはあってないようなものだ。交渉次第でセックスは可能になる。歴戦の風俗ライターたちが書き残したブログにそう書いてある」

「お前……」

 駿河の言葉に秘められた欲望の熱にあてられて頭がくらくらした。引き留めるための言葉が咄嗟に思い浮かばなかった。

 そして電話が繋がった。

『はい! お電話ありがとうございます、さんくとぺてるぶるく受付です』

 なぜかスピーカーホンになっている電話口から聞こえてきたのは、予想外に明るくはっきりとした男の声だった。

 駿河は唇を戦慄かせて黙っていた。僕と中野は彼を見ながら言い知れぬ緊張に身を固くしていた。数秒の沈黙があった後、筋肉童貞の乾ききった唇がようやく言葉を紡いだ。

「あ、あの、今からって大丈夫ですか?」

『はい、もちろんでございます。ご希望のキャストはいらっしゃいますでしょうか?』

「えっと、あの、ア、ア、アナスタシアさんを、お願いします!」

『アナスタシアさんですね、かしこまりました。コースの方はいかがなさいますか?』

「九○分、で」

『九〇分コースですね、承知致しました。お客様のお名前をご教示いただけますか?』

「す……ツルガ、です」

『ツルガ様ですね。キャストを派遣致しますホテルですが、お客様の方でお決まりですか?』

「い、いえ、まだ、です」

『かしこまりました。もしよろしければ当店の方で幾つか候補を挙げさせていただいてもよろしいですか? 下北沢周辺のホテル限定では御座いますが』

「ぜ、ぜひお願いします」

『かしこまりました。ただいまですと「ホテル ツングースカ」と「ホテル ウラジオストク」に空きがあるようでございます。「ツングースカ」の方が広いお部屋となっておりますのでそちらを確保させていただきますね。料金はどちらも同じで御座います』

「分かりました」

『ホテルの方に到着されましたら当店までお電話をお願い致します。なお、このお電話終了後から三〇分経ってもご連絡がない場合、ホテルも含め自動で予約がキャンセルされますのでご了承ください。それでは失礼致します』

 電話が切れた。

 ツーツーという無機質な音が三人の童貞しかいない道の上で静かに鳴っていた。中野が機械的に首を動かして僕を見た。僕も機械的に首を動かして中野を見た。そして僕たちは示し合わせたような同じ動きで、スマホを握りしめて立つ駿河大輝を見た。

 駿河は目一杯肺を膨らませ、天に向かって深い安堵の息を吐いた。肺に蟠っていた緊張の塊をすべて外に出しつくしてしまうと、彼は打って変わって晴れ晴れとした表情で笑った。

「よし、よし、よし! やったぞ!」

 彼は自分に言い聞かせるようにそう呟きながらポケットにスマホをしまい、地面をどすどす踏みならして何度もガッツポーズを振り下ろした。

「ああ! やった! ついに、ついに憧れの、北欧美女と! アナスタシアさんと! 夢にまで見た金髪碧眼の美女の乳を! 尻を! 太腿を! 俺は、俺は、俺は!」

 歌うように言い、その場でクルクルと回る。全身が達成感と喜びに躍動している。そのまま回り続けて地中に埋まり、南半球へと突き抜けてしまいそうなほどだった。

 僕は彼の裏切りに放心していた。友だちのことなど忘れたようにはしゃぎ回る筋肉童貞の姿に呆然としていた。喉の奥が渇き、震えていた。

「する、が」

「和泉! やったぞ、夢が叶う! 北欧美女と、できる!」

「お前、猥談百物語は」

「悪い! コトがすんだら家に戻るから、そしたら続きをしよう。新鮮なエピソードを提供できると思うぜ!」

「けど、」

「あ、そうか! 鍵か! ほら、これ渡しとくから適当に家に上がっててくれ! 俺のAVとか適当に見てていいけど、オナホは使ったらちゃんと洗っとけよ!」

 駿河は朗らかに告げると、僕と中野の肩にそっと手のひらを置いた。

「お前らにも聖夜の祝福が舞い降りるよう祈ってるぜ」

 おぞましい文句を残し、裏切り者は横道を出て行く。夜の光の中に向かって広い背中がだんだんと小さくなって、そして消えてしまった。夜道には童貞だけが残された。風は一段と冷たく吹いて、夜の底を締めつけていた。

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