⑥童貞くんと尻軽そうな女の子
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
扉を開けてくれたのは、僕たちと同じくらいの年齢の、柑橘系を思わせる爽やかさを醸し出す男だった。腰に巻いたエプロンにはイタリック体のアルファベットで何かが綴られている。多分『クッチーナソスティトゥート』だろう。入るか入らないかの踏ん切りがつかずにいた僕たちは、幸か不幸か店員に捕まってしまったのだった。
「お食事、されます、よね?」
店員は首を傾げながら訊ねてきた。いよいよ後に退けなくなり、僕たちは呑み込まれるようにして店内へと入った。
「えっと、三人です」
経験者の中野が三本指を立てて言った。
「かしこまりました──トレ・ペルソーネ・ペルファボーレ!」
店員がメニューを手にフロアに向かって颯爽と告げる。すると間もなく、
「スィ。ディエチ・ターボラ!」
という声が返ってきて、
「どうぞ、ご案内いたします」
彼はメニュー片手に先頭を歩き出した。
僕たちはイタリア語であろう言語が飛び交う状況に圧倒されて足が竦んだ。中野にぽんぽんと背中を叩かれなければ、そのままこのバルのオブジェの一つになり果てていたかも知れない。
吸い慣れない空気と嗅ぎ慣れない匂いと耳慣れない喧噪の中を、奥まったところにあるテーブル席まで案内された。
「こちらがお食事のメニューで、こちらがお飲み物のメニューでございます。限定のクリスマスメニューも御座いますのでよろしければご覧下さい」
店員は愛想のいい笑顔とともにテーブルへメニューを置くと、背筋をピンと伸ばしたままフロアへと戻っていく。一挙手一投足が童貞のそれではなかった。
「冷静になってみたら俺たち夜ご飯食ったな」
駿河がメニューを開きながらぽつりと呟いた。
「軽めのものにしておこう」
僕はそう言ったものの、何が軽めなのか分からない。イタリアンなど生まれて初めて入ったので、どれがどんな料理なのか皆目見当が付かなかった。
「じゃ、じゃあとりあえずこのカプレーゼとカルパッチョでも頼んでおこうか? これならおつまみ感覚で食べられると、思う」
中野が提案したメニューに従うことにし、店員を呼んだ。駿河が舌を嚙みながら二品を頼み、飲み物は全部生ビールにした。ワインもカクテルも名前が複雑でよく分からなかった。
注文という一山を越えた僕たちは、息を吐くのもの束の間、いそいそと店内に生田の姿を探し始める。この店に来た目的はイタリア料理を食べることではなく、童貞を卒業する生田を阻止することだというのを忘れてはいけない。
店内には見渡す限りカップルしかいなかった。たけのこみたいにぽこぽこぽこぽこカップルが生えそろっていた。たまに家族連れや女性だけの集団もいたが、圧倒的にカップルの方が多かった。ましてや男だけの集団など、僕ら三人のほかに誰もいなかった。余計に虚しくなった。
そんな火の中に頭を突っ込んで探し物をするような苦痛をしばらく味わっていると、
「あ」
中野が僕たちの対角線上に位置するテーブル席を指差した。
「いた」
男女が二人、向かい合って座っていた。手前にいるグレーのニットを着た女性は茶髪のワンレンスタイルで、一目で生田が見せてくれた写真に写っていた『レオナちゃん』だと分かった。そして当然、彼女の向かいに座って薄っぺらい笑みを浮かべているのは我らが生田翔馬だった。
「本当にいやがった」
駿河はおしぼりに噛みついていた。そのまま全部呑み込んでしまうのではと思わせるくらいに激しい噛みっぷりだった。よほど今回の事が悔しくて悲しくてたまらないらしい。
ここからでは二人がどんな会話をしているのか分からなかった。だがどんな会話をしていようと、クリスマスイブの夜に男女二人が交わす言葉はすべて童貞には毒だということは確かであり、聞こえない状況はかえって幸せなのかも知れない。
頼んでいた料理と飲み物が来たので僕たちは形式ばかりの乾杯をしてテーブルに向き直った。丁寧に盛りつけられた料理を眺めていると満杯のはずの胃でむくむくと空腹の虫たちが起き出すのを感じた。僕たちはフロアを固めるカップルたちから隠れるように飲み食いを始めた。どれも馴染みのない味だったが、カップルに囲まれた居心地の悪さを忘れるくらいに美味かった。
「パスタも頼もう」
すでにここへ来るまでに牛丼と親子丼をカツ丼を平らげているはずの駿河が、メニューに向かって眉根を寄せ、考え込み始めた。中野は二本のフォークで交互にトマトとチーズを口に運んでおり、僕はわざわざナイフとフォークで切り分けながらカルパッチョを食べていた。
僕たちは本日に二度目の夕食に夢中だった。非童貞たちは毎日こんな美味しいものを食べているのかと思うと妬ましい気分になる。
「作戦会議をしよう」
駿河が長ったらしい名前のパスタをフォークに巻き付けつつ言った。
「どうやって生田を奪還するか、だ」
「どうしようかね」
僕はパスタをもらいながら、生田が座っている席に目をやった。彼は一切こちらには気がついていない。完全に二人だけの空間に溺れている。猿めいたそのツラが、酒と女でとろけきっている。無垢な童貞の魂が、生田翔馬の身を離れようとしている。
「強引に生田をこっちのテーブルに連れてくるか、相手の女を説得するか、二人の間に割って入るか」
「女性を説得するのは無理だと思うね」
「だろうな」
僕たちは満場一致で案を一つ却下した。そもそもまな板の上に乗せるのが間違っていた。議論の余地などどこにもない。
残された選択肢は生田を拉致するか、二人の間に割って入るか。
「あ」
中野がフォーク二刀流の手を止めて顔を上げた。眼鏡が店内を照らす暖灯の光を反射して青く光っていた。
「生田くんのとこが」
中野はフォークを置き、僕たちが先ほどから狙いを定めているテーブルの方を指差す。見れば女性の方が椅子を引いて立ち上がるところだった。
駿河がパスタを飲み込んで言った。
「帰るのか?」
「違うと思う」
僕は椅子に残されたバッグを顎で示す。トイレか化粧直しかだろう。だがこれはチャンスだ。生田が一人になった。
「行ってみるか」
「そうだね」
「三人で行くとさっき注文した肉料理が受け取れなくなるから、中野は残ってくれ。俺と和泉で行こう」
「まだ頼んでたのかよ」
「ソーセージと牛肉の煮込みと、あとパスタがもう一品くる」
僕たちは席を立って生田の方へと向かった。偶然を装って彼が一人で座っている席の横を通りかかり、駿河があからさまな棒読みで名前を呼んだ。
「イクタじャなイかァ!」
もともとの地声に張り切りを重ねたせいで、その声はさながら怪獣の咆哮だった。店内の目が客から店員に至るまですべてこちらを向くのを感じる。僕は虚空に隠れるように身を縮めた。
「……!」
スマホのインカメラを使って前髪を直していた生田は、横っ面をいきなり殴りつけられたような驚愕の表情を浮かべていた。一瞬の沈黙があり、
「な、なんでお前らがここにいんだよっ」
彼は顔中の皺を真ん中に集め、囁き声で怒鳴りつけた。
「いやあ、偶然だね。休憩がてら来てみたらたまたま生田を見つけたんだよ。やっぱり僕たちは強い絆で結ばれてるみたいだ」
僕は生田の肩にそっと手を置く。彼はそれを鬱陶しげに払いのけ、
「そんな嘘に騙されるか。ここはお前らみたいな童貞が気軽に踏み込めるような店じゃねえぞ。俺みたいな非童貞目前の立場になってやっと敷居をまたげるんだ」
「まあまあ。で、どう?」
「なにがだ」
「進捗だよ進捗。デートの進捗。どうなの? やっぱ厳しいんじゃない? 諦めて僕たちのテーブルで飲み直さない? ソーセージと牛肉の煮込みと、パスタがあるよ」
「うるせえ。帰れ帰れ。デートはまだこれからだよ」
「まだこれから?」
「日付が変わって終電がなくなってからが本番なんだよ」
「その調子だともしかして上手くいってないんじゃない?」
指摘してみると、生田の表情に細い影がさっと差し込み、揺れ動く心が小さく顔を覗かせるのが見えた気がした。僕は勝ち誇ったように続けた。
「大丈夫だよ生田。僕たちはどこにも行かない。君が童貞である限り、僕たちは常に君の味方なんだ。だからおいでよ。一緒に飲み直そう」
しかし生田は首を振り、僕たちの眼前にスマホの画面を突き付けた。
「よく見ろ、もうちょいで十二時を回る。シモキタ発の電車は、一番遅くて一時過ぎが終電だからあと一時間ちょっと粘ればいいだけだ。もう会話は十分に盛り上がってるから余裕だよ」
「無理すんなよ生田。なあ、諦めようぜ。お前だけ童貞を卒業するのは許せない」
駿河が無意識に本心を吐き出したとき、
「ねー誰? 翔馬の知り合い?」
白いニットを着た女性に横から声をかけられ、二人の童貞は草食動物のように動けなくなった。目だけで女性のご尊顔を拝見させていただくと、はたして『レオナちゃん』であった。小さなポーチを持って、訝しげな目で僕たちを見つめていた。リアルで見ると写真より可愛い。
「あ、おかえり山下さん──ほら、どけってお前ら。山下さんが迷惑してんだろ」
生田は羽虫を追い払うように僕たちに向かって手を振った。それよりも山下さんとは誰のことだろうか。
「レオナ、邪魔?」
女性が自分の鼻先を指差しながら言う。
「山下さんはぜんぜん邪魔じゃないよ!──ほら、お前らはとっとと帰れ」
ああ、と僕は腑に落ちた。それから哀れみを込めて、生田のよそ行きの顔を横目で見る。相手のことを下の名前で呼べないなんてやっぱりお前は童貞だな。
「そこ、いい?」
山下レオナは自分の席を指差し、こっちを見た。不意の視線に僕は目が泳いだ。
「あ、ああ、す、すみま」
「ごめんねー」
山下レオナは、もごもごと口を動かしている僕たちを押し退けるようにして椅子に座った。ちょうど僕たちが椅子の前を塞ぐようにして立っていたので座れなかったようだ。
「えーっと……どういう状況?」
山下レオナが眉をひそめて僕たち三人の顔を順に見た。ごもっともな感想だろう。席を立って戻ってきたらなぜか知らない男が増えているのだ。混乱しないわけがない。
「なんでもないなんでもない」
生田が慌てたように顔の前で手を振る。
「こいつら俺のクラスメートでさ、たまたまここで食事してたらしいんだけど、たまたま俺のことを見つけたから声かけに来たんだってさ。それだけ!」
「へえ? 男二人で、クリスマス?」
山下レオナが目を細める。
「さ、三人だ!」
駿河がアクセントの狂った声で反論したが、そこにいつもの覇気がなかった。見かけはパワフルでもこの男はやはり自慰狂いの童貞である。画面の外にいる女を前にすると自慢の筋肉も萎むらしい。
「うける」
山下レオナは面白くなさそうに口の端を上げ、細長いワイングラスにそっと唇を当てる。
「てか筋肉すごいね、翔馬の友だち」
「あ、ああ。そうだね。こいつの唯一の取り得だから、それ」
生田がそうに説明すると、
「へー、触ってもいい?」
まったく何でもないような口調で彼女は駿河を見た。
「さ、ささわ?」
駿河は目に見えて狼狽し、Tシャツの上からでも分かるくらいに筋肉が震えていた。
「だいじょーぶ触るだけ触るだけ。腹筋ね」
山下レオナは無邪気に笑うと、水色のネイルが映える指先を駿河の腹の辺りへとそっと伸ばす。駿河は両手を後ろに回し、休めの姿勢で硬直していた。四角い顔は天井付近に飾られたイタリアの地図に向けられていた。山下レオナの指先が駿河の腹の表面を舐めるように這った。服の内側に刻まれた筋肉の溝を味わうかのようだった。駿河は固く目を瞑っていた。僕は禁断の行為を目にしているかのような緊張と生身の女性に触ってもらえる羨ましさとに早まる鼓動を止めることができず、生田は自分が蔑ろにされているためか苛立たしげに水を飲んでいた。
「わぁ、すっご! ガッチガじゃん。どれくらい鍛えてんの?」
山下レオナは指先で駿河の腹をぐいぐい押しながら黄色い声を上げる。
「本格的にやり始めたのは大学入ってから、だから、二年くらい」
「二年! 尊敬もんだわ! レオナもジム通おうと思ってるから、今度いろいろ教えて欲しいなあ! あ、そうだ、LINE交換する?」
「LINE!」
駿河の声が上擦った。言葉が喉から舌までを勢いよく滑走してそのまま口外へ飛び出し天井へ突き刺さったような、見事な上擦り方だった。
「うん。やってるっしょ? 交換しとこうよ」
「や、やってるけど」
駿河が頬を溶かしながらポケットを探り始めたので、僕ははっと我に返ってその膝の裏に蹴りを入れた。お前まで抜け駆けするつもりか、と目で彼を睨みつける。
「もう帰れよお前らー!」
僕の膝蹴りを見ていたらしい生田が援護射撃。
「いいいじゃんいいじゃん」
山下レオナがけらけら笑いながらLINEを開こうとしていたので、
「お、おじゃましましたっ」
僕は二人が座っているテーブルに向かって早口でそう言い置き、駿河の服を掴んで自分たちの席に戻った。去り際に背後で「──そういや終電なくなっちゃったんだけどどうしよ」という山下レオナの声が聞こえたが、それより先の会話は耳に届かなかった。
「……」
自席に戻った駿河は、僕たちが不在の間に届けられた肉とパスタに一切手を出そうとしなかった。先ほど山下レオナに触られた腹筋のあたりを自らの手で愛撫しながら、黙って俯いていた。目尻から頬から口の端までが全て重力と色香の奴隷になって垂れ下がっていた。
「駿河、駿河……駿河!」
三回名前を呼んでようやく筋肉童貞は顔を上げた。
「ミイラ取りがミイラになってどうするんだよ、もう! 戻ってこい!」
「す、すまん……だが、はあ、あれが女の指か……細くて、柔らかかった……なんなんだあれは……自分と同じ生き物だとはまるで思えん」
駿河は蕩けきった阿呆面で己の腹筋を擦り続けていた。情けないやつである。あんな半分ビッチみたいな雰囲気の女に腹筋を触られて何を喜んでいるのか。軽々しくボディタッチをしてくるのは遊び慣れているという証拠だ。………くそ、僕も鍛えておけば。
「ああ……」
駿河が恋を知らない少女のような気色の悪いため息を漏らした。
「LINEを交換しておけば、きっと、近いうちに、一緒にトレーニングができたのに……。そうしたら、こう、自然な成り行きで」
「バカ。あんなのとLINEを交換したら、お前の人生終わるぞ。貢がされるだけ貢がされて終わるぞ。あとに残るのは絞り尽くされた筋肉のカスだけだ」
「……絞り尽くされる、か。それも悪くない、悪くないな」
「そういう意味じゃない!」
僕は額に手を当てて天井を仰いだ。頑強な筋肉武装に反し、駿河の心のなんと脆いことか。
「な、何があったかわからないけど、とりあえず落ち着こうよ二人とも」
中野が僕たちを交互に見て、宥めようと手を伸ばす。
「僕は落ち着いているぞ」
「そ、そうだね。和泉くんは落ち着いてるよ。だからその手に握ったフォークをテーブルに置こうか」
「これはソーセージを食べるのに使うんだっ」
僕は手つかずの皿に手を伸ばし、ヘビみたいに丸くなった腸詰め肉をフォークでちぎって口に運んだ。腑抜けた駿河のイチモツにもこうやってフォークを突き立てれば少しは目が覚めるだろうか。
僕たちの間にしばらく会話は生まれなかった。
駿河はあのワンレン女に心を奪われていたし、中野はあのテーブルで何が起きたのかを今ひとつ把握していなかった。僕は無心だった。生田への妬みも駿河への嫉みもない。無心だ。断じて凪だ。心は波紋一つ立てずに穏やかである。
そしてテーブルの上の食事がすっかり片付いてしまったころ。僕たちは駿河の一件で本題を忘れてしまっていたことに気がついた。慌てて店内の一角に視線を投げたがもう遅かった。
生田翔馬と山下レオナはいつの間にかいなくなっていた。
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