⑤童貞くんと追跡
『イブディナー来た! 下北のいい感じのイタリアン! 予約なしだったし遅い時間だったから入れるか分からなかったけど、ちょうど二人分空いててよかった!』
高揚感剥き出しのこんな文章に、写真が一枚添えられている。皿に載ったパスタを斜め上から写した一枚である。撮影者が座っているのは二人席のようだ。パスタ皿を挟んで手前と奧にそれぞれ一セットずつ小皿とシルバーが用意されている。写真の上の方、つまりは撮影者の向かいの席に当たる部分には、女性のものらしい細くて白い腕が見切れていた。
文章と写真は、生田が一〇時四○分ごろSNSに投稿したものだった。投稿に気がついたのは十一時近くになってからで、ちょうど駿河が七本目のバイブをスイッチを切ろうとしたところだった。最初に投稿に気がついた僕は、二人に向けて自分のスマホの画面を差し出した。
「ほらね」
僕はため息混じりに言った。
「くそォ!」
駿河は握っていた七本目のバイブをベッドに投げつけると、固く握った拳で力いっぱい枕を殴った。ぼすんという衝撃がベッドまで軋ませた。
「なんでなんだ、ちくしょう!」
駿河は枕に顔を押しつけて野生の雄叫びを吐き出す。男臭い感情が、生ぬるい部屋の空気を伝って僕の元にも届いた。それは抜け駆けした生田への怒りではなく、抜け駆け出来なかった己への怒りや苦しみだった。
「お、落ち着こう! 駿河くん」
中野が本気で心配するような顔になって駿河のことをそっとさすった。
「そうやって暴れたら部屋が壊れちゃうよ。ほら、ゆっくり深呼吸して、ね?」
柔らかい中野の声に合わせ、深い呼吸音が二度聞こえた。
昨日まで童貞だった者が童貞でなくなるという惨たらしい現実を知りながら、中野はなお他人を気遣う優しさを失っていない。抜け駆けした生田を恨むでもなく、不甲斐ない自分に怒るでもなく、ぬいぐるみに顔を埋めて悲嘆に暮れる友人を慰める中野。僕はそんな中野のシルエットを見ながらふと、どうして彼は童貞のままなのだろうかと疑問に思った。
「悪い、取り乱した」
駿河は四角い顔を枕から剥がし、中野に付き添われてちゃぶ台へと戻ってきた。
「気にしないで駿河くん。僕はどこにも行かないからさ。三人でも楽しい会になるよ」
「ああ、ありがとう、中野。お前は本当に良い奴だな」
駿河が暗闇の中で中野の小さな肩を力強く抱き締めるのが分かった。
「い、痛いよ駿河くん」
困ったような中野の声を聞きながら、僕の疑問は止まらない。
こんなにも優しいのに。こんなにも思いやりがあるのに。なぜ中野はいつまでも童貞なのだろう。その疑問は彼に出会った一年前からずっと、僕の心の奧で複雑に絡まっているのだった。
僕らは百物語を再開した。
駿河が嗚咽混じりに、東京旅行に来ていた沖縄美女二人に逆ナンされて御徒町のホテルで夜通し腰を振り続けたという高校時代の友人の話を披露した。彼はさらに声を大きくして泣いた。完全な自爆だった。中野は、病院で小銭を落としたときに拾うのを手伝ってくれた女子大生の項にあったほくろについて熱く語った。僕はバイト先の飲み会で美熟女な社員さんの肩をマッサージさせられたエピソードを話した。
八本目のバイブの電源を落としたあと、次の話し手である駿河はなかなか口を開こうとしなかった。不審に思って彼の顔を覗き込むと、物憂げな表情が光るバイブに照らし出されていた。
「……やっぱり我慢できねえ」
駿河は息絶えたバイブの柄を握りしめて言った。
「我慢できねえって、何が?」
「和泉、お前は我慢できるのか? 俺たちがこうして狭い部屋で下らないエロ話を繰り広げている間にも、生田のチンコは前進を続けているんだぞ! 俺たちが知らない場所へと辿り着こうとしているんだぞ! お前はそれに我慢できるのか?」
「……む」
「中野、お前もだ。お前も我慢できるのか? 生田だけが純粋に正攻法で性の六時間を楽しむことを、許していいのか? 俺たちを繋ぐ絆はそんなにもやわなのか?」
「ぼ、僕は……」
「お前ら、行こう」
駿河はバイブを握りしめたまま立ち上がり、居間の電気を点けた。突然の光に目が眩んで、僕と中野は岩陰の虫のように丸くなった。
「行こうってどこに?」
中野が目を細めながら訊ねた。
「シモキタ」
「シモキタ?」
「和泉、生田がSNSにあげてたレストランがどこにあるか分かるか?」
「どうだろ」
僕はスマホを取りだして生田の投稿を改めて確認してみる。ご丁寧にも彼は投稿に位置情報を添えてくれていた。『クッチーナソスティトゥート』というイタリアンバルらしい。
「分かった、けど」
「よし行こう」
僕たちは光るバイブをそのままにし、コートと貴重品だけを持って部屋を出た。ほとんど駿河に引き摺られるような形だった。
足踏みしながらエレベーターを待つ駿河の背中に呆れていると、僕は中野の尻ポケットからノートがはみ出ているのに気がついた。
「それ、ネタ帳?」
「あ、うん。肌身離さず持ってないと落ち着かないんだよね。命とお金の次に大事って言ってもいいくらい。ほら、アイディアはいつ降ってくるか分からないしさ」
「なるほどね。また新作出来たら見せてよ。僕は普段小説あんまり読まないんだけど、中野のはスラスラ読めるんだよね。官能小説だからかも知れないけどさ」
「もちろんだよ。今書いてるのがあと一週間ほどで出来上がりそうだから、そしたら読んでよ」「任せとけ。イチモツの準備を万端にしておく」
ノロノロとやってきたエレベータから二十代くらいのカップルが吐き出され、僕らは彼らと入れ違いに箱の中へ入った。きっとあのカップルも今から性の六時間を堪能するのだろう。視界の上へと消えていくカップルの足を見つめ、僕は胸を掻きむしりたい気分になった。
駿河が暮らすアパートは京王線笹塚駅と小田急線下北沢駅のほぼ真ん中くらいに位置している。距離的には数メートルしか違わず、どちらにも徒歩数分で行くことができた。
長ったらしい名前からしてすでに童貞を拒絶している『クッチーナソスティトゥート』というイタリアンバルは、下北沢駅東口を出て、マックとセブンに挟まれた緩やかな坂道を下っていった先にあった。
名前に違わず洒落た店だった。
古煉瓦を積み上げていったような外壁にはイタリア国旗が掲げられ、ゆらゆらと冬の夜風にはためいている。緑と白の縞模様が入ったオーニングテントの下には天頂部が緩くアーチを描いた木製の扉があり、上部にはめ込まれた磨りガラスの向こうに賑やかな店内の様子が覗えた。入り口脇に置かれた黒い立て看板には流れるようなイタリック体とカタカナで『メリークリスマス』という文字が躍り、その下におすすめのメニューが続いていた。
こんな店を目の前にして童貞が尻込みしないはずがない。
僕たちは一度は『クッチーナソスティトゥート』の店先までいったものの、入る勇気が出ずにそのまま五メートル離れた電柱の後ろに隠れた。手を押し当てた電柱は真冬の空気を吸って氷のように冷たかった。
「どうする?」
言い出しっぺが僕たちを見た。どうするもなにもない。思い立ってここにやってきたわけは、僕でも中野でもなく駿河にある。どうするかどうかは駿河が決めるべきで、僕たちがやることではない。そもそもそういう決断力や牽引力がないから僕たちは童貞なのだ。
「まさか生田がこんな洒落たところに入るとは」
駿河は唇を噛みしめていた。
「いつも口だけのヤツだと思ってたけど、こういうところに入る勇気はあったみたいだね」
僕はイタリアンバルの店頭を照らすひだまりめいた間接照明を、羨ましがるように見つめた。
「くそォ……俺は、俺たちは、一歩も二歩も遅れている………!」
「生田のヤツは交友関係だけは広いからね。童貞だけど女友達はそれなりにいる。僕たちはずいぶん前から負けてるんだよ」
「むしろなぜそんな環境にいてあいつは彼女ができないんだ」
「たしかに」
「まあでもそれもあと数時間で終わりだけどな。あいつは童貞じゃなくなるんだ」
「まだ決まったわけじゃないさ」
僕は宥めるように言ったが、生田の脱童貞はほとんど約束されている。結末が分かっている本を読んでいるようなもので、あとはページを捲る手を止めることさえしなければいい。だが僕たちにはまだページを捲る生田の手を止めるという最後の選択肢が残されている。彼が童貞を捨てるという結末を変える方法が残されている。それを諦めてはならない。
僕たちは一年前の春、入学式前のガイダンスで知り合った。
中野と駿河、生田と僕というすでに何となく通じ合っていた二組がどちらからともなく近付いていき、気がついたら意気投合していた。四人とも童貞で、色恋沙汰に疎く、乾ききった人生を歩んでいた。魂の波長が一緒だった。僕たちはこの一年、陽キャたちに怯えながら大教室の隅でおすすめのAV女優を教えあい、学内デートをするカップルの隣のベンチで理想的な童貞卒業のシチュエーションについて語り合ったりしてきた。
雨が降ろうと雪が降ろうと風が強かろうと恋人たちが出歩いていようと、四者一様の道を歩き続けた。僕たちはある日、酒を飲み交わしているときに誓い合ったのだ。『我ら生まれた日は違えども、童貞を卒業するのは同じ日同じ時を願わん』と。生田は今、世間という荒波の中にいる。クリ何とかという強大な嵐にさらされている。大切な友人が波間に消えようとするのを、僕たちは黙って見過ごしていいものか。いいはずがない。卒業するときは四人一緒にだ。誰か一人を置いていくことも、誰か一人が先に行くことも決してあってはならない。
しかしイタリアンバルという恋人たちの巣窟に挑む覚悟が湧かない。足が力なく震えている。
「誰か、イタリアンバルに入ったことあるやつはいるか?」
駿河がすがるように言った。僕は首を横に振った。僕の中にあるイタリアンの知識など、サイゼリアのミラノ風ドリアがミラノに存在しないということくらいだ。中野も同じように首を横に振るだろうと思っていたら、彼は恐る恐るといった様子で手を挙げていた。
「一度だけ、あるよ」
「なに?」
「意外と普通のお店だったから、そんなに身構えなくても平気だよ」
いつもは頼りなくて薄っぺらいだけの中野の姿が、今夜ばかりは屈強な用心棒のような安心感を与えてくれた。
「よ、よし。なら、行ってみるか」
駿河の合図で僕たちはついに電柱の裏から足を踏み出し、『クッチーナソスティトゥート』の店の前まで歩を進めた。
だがやはり扉の前でたたらを踏んでしまう。
もう一度電柱まで戻ってやり直そうかという考えが頭を過ぎったところで、目の前の扉がひとりでに開いた。
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