④童貞くんと友だちの抜け駆け

「これは俺がまだウンコで笑っていた時代の話だ」

 バイブレーターの振動が響く暗闇の中、駿河が厳かに語り始めた。

「小学三年生のとき、俺には好きな子がいた。ピアノが上手くて髪が長い、大人しめの子だ。名前はもう覚えてない。俺は一日中外で遊び回ってるようなやつだったからよ、そういう女の子らしい女の子に憧れてたんだ。けどまあ小学生だからまだ付き合うとかそういう感覚は分からなくて、ただ『好きだな』『可愛いな』と思って悶々としてただけだったけどな。

 そんであるとき、学校で遠足があったんだ。電車に乗って数駅のところにある大きな公園に行って、植物園を見学したり、アスレチックで遊んだりする遠足だった。ただ、その最中にはこれといって何も起きなかった。せいぜい片思いのその子の目の前で誰もクリアできなかったアスレチックをクリアして歓声を浴びたくらいだ。当時は嬉しかったが、その後に起きた大事件に比べたら大したことじゃない。

 遠足が終わって数日経って、学校の廊下に遠足の写真が張り出された。お前らもやったことあるだろ? 封筒に自分が買う写真の番号を書いて、金を入れて先生に渡すやつだ。俺は張り出されたその日に友達と一緒に掲示板を端から端まで見ていった。こんなことがあったなあとか、誰々の顔が面白いとか、そんなことを口々に言い合いながら半分くらい見終えたところで、たまたまある写真を見つけたんだ。それはぱっと見は普通の写真だった。アスレチックの上で男子数人がポーズを撮ってる写真だ。そいつらは仲がいいやつでもなかったし、面白いポーズを取ってるってわけでもなかったから俺はスルーしようとした。けどな、写ってたんだよ」

 そこで言葉が区切られ、振動音だけの沈黙が訪れた。誰かが生唾を飲み込む音がバイブの合間に聞こえると、駿河は熱い息を吐き出しながら言った。

「片思いの女の子のパンチラが、その写真に写ってたんだよ」

 心臓が一瞬、大きく膨れ上がった。血液が身体の中を凄まじい勢いで巡り、脳裏にいくつもの妄想を走らせ、下半身へと一気に駆け抜けた。生田も中野も同じ状況だったに違いない。暗闇の中で駿河以外の三人がもぞもぞと動く気配があった。駿河は上ずった声で話を続けた。

「その子は写真の端の方にいて、こちらに背中を向けて別のアスレチックで遊んでた。不安定な足を足場を渡るのに必死の様子だった。そんな彼女が履いている短パンの腰の部分が下がって、白い腰と淡いピンク色のパンツが露わになってたんだ。俺の目は写真に釘付けになって離れなくなった。一緒にいた友達は誰もこの写真に気がついていなかったが、いつまでも見ていたら怪しまれる。俺は見つからないように急いで封筒と鉛筆を取り出し、写真の番号をメモった。一○四三だ。今でも覚えてる。手が震えてたせいで数字は歪んでた。これは賭けだった。先生が児童がどんな写真を買ったのかをいちいち確認していたら、俺は怪しまれる。だって自分も友人も写っていない写真なんだからな。だけど俺はどうしてもその一枚が欲しかった。危険を侵してでもその子のパンチラ写真が欲しかった。意を決して封筒を担任に提出し、そして俺は賭けに勝った。数日後、写真は無事に俺の手元に届いた。俺は家に帰るとすぐにその写真を読まなくなった漫画に挟んで、自分の机の一番奥にしまった。きっとその日からだな、俺が性に目覚めたのは。精通するのはもっと先だが、女体をエロいと思うようになったのはその日からだ。卒業してからは彼女とも疎遠になってしまって会うことがなくなったけど、彼女は今でも俺の中で小学校時代の一番の思い出として生きている」

 どこかしんみりとした調子で話は終わった。ちゃぶ台の上で震えるバイブが狂った拍手のようであった。

 たった今語られたのは自慰にふけって一年浪人をした駿河大輝という人間の誕生秘話であり、おそらくこの世で最も気持ち悪い話の一つだった。飲み会のネタにもできない、排水口のヌメリのような話だ。しかしそれでこそこの猥談百物語の先陣を切るにふさわしいエピソードだった。僕の胸は期待に高ぶり、次の話し手である生田が口を開くのを今か今かと待ち望んだ。

 生田は高校時代に満員電車の中でOLらしき女性に乳を押しつけられた話をし、中野は中学時代に隣家に住む女子高生が自室でキュウリを使って自慰行為に更けっていたのを覗き見た話をし、僕は小学生のときに行った夏祭りで屋台のお姉さんが乳の谷間を顕わにしながらたこ焼きを手渡してくれた話をした。

 全員が一話ずつ語り終え、バイブレーターの電源が一つ落とされ、部屋が少しだけ暗くなる。

 僕たちはそういう風にして猥談百物語を進めていった。各々の口から語られるのは漏れなく低俗で、アホらしくて、校長の挨拶よりも無意味な猥談だった。

 しかし、これ以上ないというくらいに僕たちの下半身をくすぐった。

 こんなにも刺激的なクリスマスイブはなかった。恋人がいなくても、セックスができなくても、男だけでもクリスマスイブは楽しくなるのだ。

 恋人と過ごすクリスマスなんていらない。気になる女の子を気に入らない男に奪われた悲しみなんて忘れてしまおう。すべてまとめて暖炉にくべて燃やしてしまえ。嫌な気分が消えて身も心も温かくなる。ベッドの上で交わる男女は陰部の摩耗の果てに生姜のように擦り消えてしまえ。そうしたら僕は彼らの滓を小麦粉と砂糖と卵とそのたもろもろに練り込んで人型のクッキーにして頭から囓ってやろう。

 勘違いをしないで欲しい。これは負け惜しみではない。負けてなどいないし、惜しんでなどいない。そもそも勝負という前提がおかしい。勝ち負けではない。単なる真理だ。真実だ。

 一本、また一本と消えていくバイブレーターの円陣を眺めながら僕はささやかに願った。こんな楽しいクリスマスイブがいつまでも続いて欲しいと。童貞だらけの馬鹿馬鹿しいイブの夜が、このままずっと終わらずにいてほしいと。

 最初に異変に気がついたのは中野だった。

 駿河は五本目のバイブの電源を落とし、僕は話し終えたばかりの猥談の詳細を生田から求められ、答えていた。

「何か鳴ってない?」

 中野が言った。

「バイブだろ」

 生田が興味なさげに答えたが、中野は「違うと思う」と言って首を横に振った。

「バイブじゃない音だよ……スマホかなあ?」

「スマホぉ?」

 僕たちが暗闇の中を見渡すと、ベッドの上に投げ出された誰かのスマホが、光を放ちながら震えていた。

「俺のだ」

 そう言って生田はスマホを手に取ったが、ディスプレイの光を受けて青白く浮かび上がった彼の顔はすぐさま奇妙な形で硬直した。驚きと喜びと下心が配合された、気味の悪い顔だった。

「どうした?」

 駿河が怪訝そうな声で訊ねると、生田はパッと立ち上がってスマホを耳に当てた。どうやら電話だったようだ。

「あ、もしもし? レオナちゃん?」

 オクターブ高い声で応え、彼は廊下へと出て行く。レオナちゃん? 聞いたことのある名前だな。妙な胸騒ぎがして駿河と中野がいる辺りを見たが、暗がりのせいで何も分からない。

「──マジで?──うん、うんうん!」

 声が弾み、さらにオクターブ上がった。そのうちに声が超音波へと成長して耳に届かなくなればいいのにとひそかに思った。

「──ううん、食べてない。めっちゃおなか空いてる──うんうん──行くわ、行く!」

 生田の電話が終わる。そして彼は道場破りか何かのように喜び勇んで居間に舞い戻って来た。「遊びは終わりだ」

 生田は脈絡なくそう言って、居間の電気を付けた。急に暗闇を破られ、僕たちは眩しさに顔を覆った。生田が怪獣めいた足音でちゃぶ台までやってくると、その拍子に机の上で懸命にピストンを繰り返していたバイブたちがころころと倒れてしまった。

「悪いな、童貞ども」

 生田は僕たちに荒い鼻息を吹きかけて自分の荷物を取り上げた。

「どうしたんだ?」

「何かあったの?」

「誰からの電話だったんだよ?」

 口々に質問を投げかけると、彼は口の端が目尻に触れるくらいに深い笑み浮かべた。右手のトートバッグを肩に担ぎ、左手に握った拳を腰に当て、天井を見上げて深く息を吸う。

「レオナちゃんからの誘いだ。予定が変わって遊べるようになったから、今からご飯でもどうかってさ」

 レオナ。思い出した。駿河とデートをする予定だった女子だ。

「行くのか?」

 駿河が慎重な声で訊いた。

「あたりまえだろ、おい。行かないって選択肢があるか?」

「百物語は………」

 中野が不安そうに言う。

「一抜けだ。楽しかったぜ、俺が童貞に戻ることがあったらまたやろうな」

「お前は友情より女を取るのか」

 僕は歯を食いしばりながら追及する。

「イカ臭え友情なんてのはいらないね。俺は今夜はお前らとは別のホワイトクリスマスを過ごさせてもらうぜ」

 生田は高笑いとともに僕たちに背を向けると、

「男三人でせいぜい楽しめよ。あ、そういや駿河、プレゼントありがとな。どうやらコンドームを使う機会が訪れそうだ」

 黒いカプセルの中に入っていたチョコの香りのコンドームを指で摘んで取り出し、カプセル自体は床に放り捨てた。空っぽのプラスチックはフローリングに当たると虚しい音で泣いた。

 生田が出ていき、駿河の部屋のドアは派手な音を残して閉じられた。

 僕たちは蛍光灯の強い光にさらされた部屋の中でしばらくの間立ち尽くしていた。テーブルの上では先ほど生田が倒していったバイブたちが、芋虫のようにうねうねと蠢き、震えていた。

「なんだよ、それ」

 明かりの消えた廊下に投げかけた声は、たちまちしんとした冷たさに凍りついてしまう。僕は崩れ落ちるようにしてクッションの上に腰を下ろした。

「冗談、だよな?」

 駿河が僕と中野を交互に見た。

「あいつなりのジョークだよな? 俺たちを置いて本当に女のところに出かけていくなんて、そんなことするわけないよな?」

 僕と中野は同時に首を横に振った。

「生田ならやりかねない」

 人を裏切るという点において、生田は人の期待を裏切らない。

 女と遊ぶためなら、セックスをするためなら、自分が一番やりたいことを叶えるためなら、あいつは平気で自分本位に行動出来る。地軸は常に彼の足下にある。

 だから生田は二十歳を過ぎた今になっても童貞なのだ。

 僕たちはひとまず哀愁漂う姿であちこちに転がってしまったバイブを拾い集め、円陣を作り直した。駿河は円陣の真ん中に置いてあったAVのパッケージを手にし、ため息を吐いた。

 猥談百物語を再開するのにしばらく時間がかかった。ろくでもないヤツとはいえ、生田は大事な仲間だった。彼がいなくなってしまったあと、三人だけで会を続けるのは寂しい気がした。あいつが自分で勝手に出て行ったというのに、なぜ僕たちが嫌な思いをしなければならないのだろうか。胸の内で熱い怒りがじわじわと煮えていく感覚がした。だがその怒りが沸騰することはなく、それは駿河も中野も同じであるようだった。もしも自分が生田と同じ立場だったら、きっと同じ行動を取っているからだ。イカ臭い童貞の集まりよりも、女の子とデートをする方を選ぶ。どんな人間も、飢え死にするか高級イタリアンを食べに行くかの二択を与えられたら間違いなく後者を選ぶだろう。それと同じことだった。

 結局、猥談百物語を再開したのはもう間もなく一〇時三十分を迎えようかというころだった。生田が部屋を出て行ってから十五分近くが経っていた。彼はもうレオナちゃんとかいう女と合流を果たしているのだろうか。考えれば考えるほど息苦しくなるので僕たちは考えることを止め、七色に光るバイブレーターを黙って睨みつけていた。

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