第12話 終焉
12.終焉
全ての時間が止まったようだった。
誰もが目の前で起きた事実を否定するように、言葉を失っていた。
しかし低い唸り声と共がして、永峯がさらにその腕に力を込めた。やがて永峯が刀を抜くと、そこから吹き出した血によって銀世界が鮮やかに色づく。
「なぜだ、なぜそのような……、気が狂ったか永峯っ!」
「我らの神を討とうなど、最後の禁忌だぞ!」
長老衆達がどよめき、恐怖に戦慄いた。蛍たちも驚愕に目を瞠る。
紅の穢れを全身に身にまとい、そこには普段の永峯のひょうひょうとした雰囲気はない。まるで別人だ。怜悧な横顔に身震いする。こんな永峯を蛍は知らない。
「おまえか、かの地で神狩りを行ったという人間は……!」
「貴様、この土地までも滅ぼす気か――っ!」
永峯は答えず、刀を一振るいした。赤い雫が地面に飛ぶ。
(どういうことなの、お父さんがどうして)
カミシロが永峯の凶刃に苦しみながら、その場に足から崩れ落ちた。銀色の毛並みが急速に褪せ、光を失いながら全身が穢れに蝕まれていく。
おお、と悲鳴をあげて神無翁が駆け寄った。
傍にいた蛍を押しのけて、その身体に触れた。
「このような穢れを身に受けてしまっては、早く浄化せねば……」
「――もう遅い」
永峯は首を振った。刀は禍々しい瘴気を放ち、黒い霧のようなもので覆われていた。生きた蛇のように刀身に巻きつき、永峯の腕にもねっとりと絡みつく。
「あぁあ、このようなこと、断じて許すことはできぬ」
うつろな瞳で神無翁がゆらりと立ち上がった。
「そう、断じて」
永峯を振り返ったその腕が漆黒に変わっていて息を呑む。
ぞくりと背筋を恐怖が這いあがった。カミシロから伝染したように、その腕から身体へと次第に、その闇が侵蝕していくのがわかる。
「神無翁、お身体が……!」
構うな、と気遣う一族の者の手を跳ねのけ、永峯を睥睨した。
「永峯よ、これは我らへの復讐のつもりか」
鋭い声が投げかけれた。蛍は神無翁の気迫に圧倒される。
その顔や瞳すらも闇に覆われて行く中、恭しく見つめる先にいるのは葵だった。だが、葵は表情一つ変えず、そんな神無翁を静かに見つめ返す。
そして悠然と微笑んだ。銀の髪が風に揺れる様に神無翁は目を細める。
「我らは守るためにある。この地を、この神を」
ぎりぎりと歯嚙みしてそう呟く。
だが、永峯は嘲笑った。葵の元へと永峯が近づいて行く。
「この土地はもうすでに人のものだ」
「たわけ、この土地はカミシロ様のものだ。そして我ら一族の……」
「そうだな。アンタたちはずっとそう思っている。今も昔も変わりないくらいに」
「……お父さん」
蛍と目が合うと、永峯は一瞬、ひどく苦しげに顔を歪めた。
「そのために数多くの一族の人間を、巫女や当主という名目で捧げてきたことをなかったことになど出来やしない。この一族こそが、この地において一番の穢れだ」
蛍はその言葉にハッと気づかされる思いがした。
大きすぎる力は、こうして人を狂わすのだ。
カミシロに選ばれることは、その力を託されることだ。
力を持つということは、それを行使する権利が与えられるということだ。
だが、その力が強大であればあるほど、それは人の心の在りようで全く違う意味を持つ。
大きすぎる力は、時に人の思いも運命ですら捻じ曲げる。
(もしかしたら本当は、こんなはずじゃなかったのかもしれない)
「……永峯」
葵がその名前を呼んだ。
「約束を守ってくれてありがとう」
白く細い腕が、蛍をそっと抱きしめた。その瞬間、蛍は訳もなく泣きたくなった。
穏やかな微笑みと共に、葵は幻のように光の粒となって溶けた。
「おかあ、さん……」
そこに人の姿はなく、まるで最初からいないようだった。どこにもいない。
蛍は目の前の光景が信じられず、呆然として膝をつく。
「え、何で……、どうして」
頭が理解することを拒否していた。
苦渋に満ちた表情を浮かべて、永峯が声を荒げた。
「もうカミシロに今の穢れを払うだけの力はない。これ以上、他の誰が犠牲になっても無駄だ。人に仇す神などいらない。それでもまだその神に縋るのか、アンタたちは」
「おまえのような奴に何がわかる。わからんだろう」
「いたいっ……!」
蛍の腕を乱暴に掴んで、神無翁が引き寄せた。
一族の者たちの動揺を叱咤するように、永峯に指を突きつけた。
「おまえのその身体、今のわしなら感じるぞ。恐ろしいほどの穢れと憎悪、おまえの身体を蝕むそれは、神狩りの代償だろう。その業、もはや命だけでは贖えまい」
蛍と宗司が弾かれるように永峯を見た。
だが永峯は驚くこともなく、全てを悟っているようだった。
「これは報いだ。誰に背負わせる必要もない」
そして刀を構えて、短く告げた。
「――蛍を離せ」
神無翁はそれをせせら笑って、蛍の腕に痛みが走るほど力を込めた。
「まあもうよい。元より葵の力はすでにカミシロ様の役には立たぬ。おまえもどうせ遅かれ早かれ、ここで死ぬのは目に見えている。大事なのは、この子だ」
掴まれた腕から痺れるような痛みが襲った。
カミシロの身体を中心に闇が深まり、いくつもの手がこちらへと伸びてくる。
蛍は必死に振りほどこうとしたが、逃げられない。
「蛍――っ!」
雪之丞が一筋の光の矢となって、神無翁の腕を貫く。たたらを踏んだその隙に、蛍は体当たりしてその手を逃れた。だが、慣れない衣装に足がもつれる。
よろけて転んだ足を、黒い手が捕まえた。
「力がないなら差し出せばいい。失ったなら補えばいいのだ」
「そう、我らはずっとそうしてきた」
「そうすることで、ずっと共にあったのだ」
長老衆たちが、一人、また一人とその闇へと自ら身を委ねていく。その光景に恐ろしさを感じたのか、一族の者たちも足を竦ませていた。
「――ここにいると呑み込まれるぞ!」
永峯の叱咤する声に、堰を切ったように逃げ出した。
我先にと洞窟の方へと大勢が向かった。だが、誰も逃しはしないという意思を持つかのように、黒い手が一斉に襲いかかった。悲鳴と怒号が交錯する、。
「もういやだ、こんなの……」
「ここで泣く奴があるかバカ! とっとと手を出せ!」
必死に手を伸ばすと、宗司が力任せに蛍の手を掴んで引っ張った。勢いのまま宗司の胸に飛び込んだ状態で地面を転がる。
それを追うように、闇へと引きずりこもうとした手が消え去った。
「……お父さん」
蛍たちを庇うように永峯が立っていた。
「この空間はもうすぐ閉じる。その前におまえたちは戻れ」
蛍たちを守るように結界が張られているが、銀色に満ちた世界はすでに闇に多い尽くされようとしていた。永峯の力でも長くもたないことはすぐにわかった。
「なあ蛍、怒っているか?」
永峯のいつもの口癖に、蛍の瞳に涙が滲んだ。
「ずるい。どうして、ねえどうしてなの」
永峯は説明しようとしなかった。言い訳すらしなかった。
それは蛍にとって、おまえには分からなくていいという拒絶に等しい。それが悔しい。わかってほしいと思ってもくれないのかとやるせなくなった。
言い募る蛍に永峯は黙って背を向けた。
「おまえたちは先に行きなさい」
「――嫌っ! そんなことできないっ!」
首を振って、追いすがる手も振り払われた。
「おまえとはもう一緒にいてやれない。わかってくれ」
尚もその腕を掴もうとして、さっきと同じ痛みが走った。蛍は思わず手を引っ込める。永峯の腕を覆うのは、禍々しい呪いの痣(あざ)だ。魂をも蝕むような緋色の徴(しるし)。
「……どうして、こんなことをした」
荒ぶる感情を必死に抑えた宗司が、その胸倉を掴んだ。
「どうして一緒にいてやらないっ」
「おまえがこれからは一緒にいてやれ」
「嫌だね、アンタがいてやればいいだろう。どうして、こんなことをしたんだよ。おまえたち親子はな、どっちも自分勝手すぎるんだよっ」
宗司が声を振り絞るように訴えた。永峯がそっと目を細めた。
「ならオレたち親子だって、似たようなもんだろう」
呆然とする蛍の肩を永峯が、とんと宗司の方へと押した。
「こいつを放っておけないところが」
そして、自分だけが結界の外へと身を晒した。
カミシロの全身から闇が渦を巻き、泥のように溢れ出した。穢れに呑み込まれて、神異となった塊が胎動するように蠢く。永峯にもいくつもの手が襲いかかった。
「いやだ、こんなの、こんなのは嫌だよっ」
「行くぞ蛍、結界がもたない。ここを出るしかない!」
だって、と足を動かせない蛍に、苛立ったように宗司が頭突きをした。
「い、痛いっ!」
目がちかちかして、思わず額をさすった。
「何でいきなりっ」
「おまえのことはオレが守る。だから、一緒に来い」
「もう私、一族の当主でもなんでもないんだよ」
「それならオレだってもう守護役じゃない」
そう言って手を掴むと、そのまま蛍を連れて走り出した。
最後に洞窟の前で振り返った時、永峯がかすかにこちらを見て微笑んだ気がした。
蛍の手をしっかりと離さずに、宗司が呪いを唱えながら洞窟の狭い通路を走り抜ける。行きと違って、驚くほど一瞬で元いた守森山の崖の前に出た。
地響きと共に、洞窟の奥の空間が揺らいでいた。
神が穢れに呑み込まれると神災が起きる、という言葉が脳裏を過った。
永峯がこの空間を閉じると言ったのは、このままカミシロだったものが力を増すと、神災となって現実に災厄をまき散らすからだ。一番危惧していた事態が起きる。
「まずい、このままじゃ巻き込まれる……」
宗司が二人の後ろに広がる街並みを振り返り、自分たちの無力さに苛立った。
洞窟の奥から禍々しい何かが、こちらへ出てこようとしている。閉じた空間をこじ開けて、蛍たちの持つ力を求めて向かってくるのがわかる。
「宗司くん、お願いがあるの」
蛍の瞳に宿る強い光に、宗司が諦めたように肩をすくめた。
「おまえの無茶なお願いにはもう慣れた」
そう言って口の端を上げた。宗司もこれから蛍が何をしようとしているのか、きっとわかっている。微笑んだ蛍の髪が月の光を浴びて、銀色へと変わっていく。
握った手に力を込めると、強く握り返された。
「ここで終わらせよう、全部」
その途端、洞窟から踊り狂う濁流のように溢れ出た。深淵なる闇が二人を呑み込んだ。
***
あの森で、カヤがカミシロに語りかけている。
近くには人間も動物も誰もいない。カヤだけがそこにいた。
誰もが恐れて近づかない深い森の奥で、そこだけが陽だまりのようだった。
そよ風が梢を揺らし、木漏れ日に花を咲かせていた。
「このまま何も見えなくなっても怖くないの」
カヤが手を伸ばすと、銀狼は大人しくその身を任せた。
銀の背に頬を寄せてカヤは愛おしげに囁いた。
「この世であなただけが光を放っている」
だからもう寂しくないの、と。
美しい銀色の毛並み。
深海の色に似た紺碧の瞳が、憂いを帯びて揺れている。
「そなたはもう寂しくないのだろうか」
ハッとして、蛍はゆっくりと振り向いた。そして頷く。
ずっと一番近くにいて、カヤを孤独から守ってくれたのはカミシロだった。
永い、永い時を越えてずっと傍にあった。
「ありがとう」
ゆっくりと近づいて、その首元にそっと顔を埋めた。
耳元で柔らかな声が響いた。
「迎えがきた」
振り返ると、そこにいたのは宗司だった。
「ここで魂が分かたれようと、共にいた時間は決して消えぬ」
蛍は微笑んで、さよなら、と言った。
***
守森山一帯を昼間のように明るい光が包み込んだ。
この世の終わりのような地響きが、だんだんと収まっていく。
「……蛍、おい蛍っ」
頬を打たれて、蛍は重い瞼をあげた。
切羽詰まった様子で宗司が自分を覗きこんでいる。
何かを答えるより先に、ゆっくりと腕を持ち上げて、その頬に触れた。その手を握り込んだ宗司はホッとしたように安堵して、何かを堪えるように口を引き結んだ。
あたたかい、と思った。
「ちゃんとできたのかな」
「……このやろう、心配させやがって」
宗司は顔をくしゃくしゃにして、蛍を強く抱きしめた。
あまりの強さに息が詰まった。同時に、ここにはもういない人たちを思って、蛍はその肩を掴んで嗚咽をもらした。
そっと視線を巡らすと、もう空は白んでいた。
西の空に夜に取り残されたように月がぽっかりと浮かんでいる。
「……これから先、守森の地はどうなっていくんだろうな」
「大丈夫だよ、きっと」
あぁ、そうだよな、と宗司は強く頷いた。
立ち上がった蛍の手を宗司が取った。応えるように握られる。
名前を呼ぶ声がして、こちらへと駆け寄ってくる真耶や直澄、颯たちの姿が見えた。
それを目にして安堵と喜びが胸に広がっていった。
蛍はまだ不安げな宗司の手を引いて微笑んだ。
「だって、ここはもう私たちだけのものじゃない。みんなの場所だから」
鳥の声につられるように、見上げた空から視線を戻した。
朝霧の向こうに広がるのは、守森の街並みだ。
永い夜は終わり、今、朝を迎えた。
終
永久なる銀の森 コトノハーモニー @kotomoni_info
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