S県立さいたま高等学校封鎖事件

戸松秋茄子

本編

 S県立さいたま高等学校の青少年問題研究部が校舎をバリケード封鎖し、屋上に立てこもったのは二〇一■年十一月七日のことだった。


 学校は直ちに警察に通報。機動隊が到着した。彼らはまず屋上に向かってメガホンで投降を呼びかけたが、青少年問題研究部の部長であるYは徹底抗戦の意志を表明した。交渉は決裂し、機動隊の突入は時間の問題であった。


 列島を席巻した学生運動の火が鎮まってから半世紀も経とうという今日、さいたま高校はいかにして封鎖へと流れ込んだのか。次章でその背景に迫る。


 長谷智弘『21世紀の学生運動 S県立さいたま高等学校事件 』


   ※※※ ※※※


 つまるところ矢野雄一郎はカリスマであった。彼の言葉の前には同級生たちはもちろん教師をはじめとする大人たちまでもが心動かされ、彼の意のままに従うしかなかった。


 雄一郎が最初にそのカリスマを自覚したのは、小学一年生のときである。当時、雄一郎のクラスの担任は「視線が粘っこい」、「えこひいきが激しい」、「板東英二にくりそつ」とめっぽう不評であった。そこで同級生たちに担ぎ出されたのが誰であろう、当時六歳の雄一郎その人である。結果から言って、雄一郎は同級生たちの期待に見事答えた。PTAや学校、さらには教育委員会にまで働きかけ、その板東英二似の担任を免職にまで追い込んだのである。


 それから十年余り。雄一郎はカリスマであった。カリスマであり続けた。そのカリスマ性はS県立さいたま高等学校に入学しても衰えを知らなかった。一年生にしてさいたま高校の生徒会長に当選し(本人に立候補した覚えがないのにである)、雄一郎の言動が今後のさいたま高校を左右すると言われていた。


 だが、ヒトラーやナポレオンの例を引くまでもなくカリスマが必ずしも幸福な生を全うできるわけではない。カリスマ性は時に破滅を引き寄せる要因ともなりうる。雄一郎もまたそのカリスマ性が故に破滅へと追いやられていくのであった。


   ※※※ ※※※


 ある日、クラスメイトの一人が「おっぱいもみてえ」とまるで亡国の故郷を思う詩人のような顔で言ったとき、雄一郎は一顧だにしなかった。彼はカリスマであると同時にちっぱい原理主義者でもあったからだ。


「なあ、おっぱいもみたくね?」


「もみてえ。Gカップを鷲づかみにしてえ」


「俺はEくらいがいいな」


「俺はCかな」


「ちいせえ男ばっかだな。俺はJくらいじゃないと満足できないぞ」


 下世話な話題が教室のあちこちに飛び火する。男子校では珍しい光景ではない。


「なあ、矢野っちもおっぱいもみたいよな」


 そう話しかけてきたのは竹中という男だ。


「僕は別に――」


 そこまで言って雄一郎ははっとした。雄一郎はあくまでちっぱい原理主義者であってロリコンではない。スレンダーな美人が好きなのである。だが、世間ではそれらを同一視する向きが強いことも痛いほど分かっていた。もちろん、雄一郎の弁舌をもってすれば、彼らをちっぱい派に改宗させることはたやすい。しかし、雄一郎は自らの力をみだりに用いることを嫌っていた。


「そうだね。もみたいね。おっぱい」雄一郎は調子を合わせた。


「どうにかできねえかな。矢野っち。お前カリスマだろ」


「いや、それは関係ないし」


「そうだ。部活を作ろう。おっぱい部だ」


「いやいやさすがにそれじゃ申請しても通らないって」


「そっか。そうだよな。やっぱ無理か」竹中は言った。「ああ、気にしないでくれ。俺たちが馬鹿を言ったんだ」


 そういって、雄一郎の席を離れていく。哀愁漂う背中であった。何かしないではいられなくなるようなそんな背中であった。


「いや、なんとかなるかもしれない」


「ホントか!?」


 けっきょく、雄一郎はおっぱい部の設立に奔走することとなった。もちろん、そのままの名前では申請しても通らないから「青少年問題研究会」というもっともらしい名前に変え、活動内容もアカデミックかつハイソなものをでっちあげた。申請が通ったとき、雄一郎は同級生たちに胴上げされながら俺ってやっぱりカリスマなんだなと思った。


   ※※※ ※※※


 おっぱい部もとい「青少年問題研究会」の活動が始まった。


 部活を名乗る以上はなんらかの活動成果を残さなければならない。「青少年問題」とでっち上げた以上はそういう研究が必要だろう。雄一郎は心理学や社会学の文献を集めはじめた。


 一方で他の連中が何をやっているかというと大塚という恰幅のいい一年生の胸部をもみしだいて「モノホンのおっぱい」の感触を想像したり、スマートフォンで時速八〇キロで走る車から手を出したらおっぱいの感触が味わえるという情報を得て興奮したりしていた。実質、何もしてなかった。


 これでは早晩廃部だろう、と雄一郎は呆れ半分安堵半分で思った。


   ※※※ ※※※


 そうこうしているうちに新年度を迎えた。各部活動が新入生の勧誘に燃える時期だ。いくら乗り気でないとはいえ、部長である雄一郎も知らぬふりをするわけにはいかなかった。始業式ではビラを配り、講堂で行われた部活説明会では自ら壇上に立った。尤も、ビラは部活名と勧誘の文句が書かれただけの代物であったし、説明会も建前上の活動内容だけを説明し持ち時間の半分も使わずに壇上を降りた。もうこれ以上事態が大きくなっては困る。それが雄一郎の偽らざる本心であった。


 だが、悲しいかな、雄一郎のカリスマ性は抑えようとしてどうにかなるものではなかった。


 雄一郎には理解できないことに、どういうわけか見る見るうちに部員が集まった。新入生のみならず、雄一郎らの隣で勧誘していたスカイフィッシュ研究会の会員までもがこぞって入部してきた。雄一郎は思った。できればそのままスカイフィッシュを探していてほしかった。


 青少年問題研究会は大所帯となった。同好会から部活に昇格だ。どういうわけか予算も下りた。予算会議で尤もらしい活動内容をでっち上げ予算を巻き上げてくるのは雄一郎にも心苦しいことであった。頼むからこんなくだらない嘘に騙されてくれるなと内心で祈るような気持ちであった。しかし、予算はあっさりと認可され、なぜかその場にいた部長の半分が青少年問題研究部に入部してきた。


   ※※※ ※※※


 尤も、部員が増えたところで活動の質が上がるわけではない。潤沢になった予算を使って、女性の胸部を模したアダルトグッズを買うのが関の山であった。これが相当にいい出来だったらしく、一時は部員の間で取り合いの喧嘩が絶えないほどであった。


「いいか、これはあくまで部の共有物であって『もむ』専用だ。くれぐれも他のことには使うなよ」


 いまや部のナンバーツーとなりおおせた竹中が厳粛に言うと、部屋のいたるところから野太い悲鳴が上がった。


「そんな無体な」


「一度でいいからしゃぶらせてくれ」


「挟ませてくれ」


「ダメだ」


 竹中が厳しく言うと、他の部員は涙を飲みながら身を引いた。


「なあ、竹中。いっそお前が部長になれば?」


「何言ってんだ。俺たちのリーダーは矢野っちだけだぜ」


   ※※※ ※※※


 事件が起こった。部員の一人である近藤という生徒が通学中の電車で痴漢を働き退学処分を受けたのだ。


「早まったまねしやがって」


「馬鹿な奴だよ」


「まったくだ。まさかおっぱいをもむなんて……」


 部員が口々に嘆く。雄一郎、どの口が言うのだろうという思いであった。


「この中でおっぱいをもみたくない奴だけが石を投げろ」


 竹中が一喝すると、部室は水を打ったように静まり返った。


「なあ、矢野っち。近藤を助けてやれねえかなあ」


「無理だよ。だいたいその……近藤だっけか? そいつの自業自得じゃないか」


 雄一郎、急増した部員を把握しきれていないのだった。


「そうだな。無理を言った。すまん。忘れてくれ」


 竹中がきびすを返す。またも哀愁の背中だ。雄一郎は思った。ああ、もう。説得というなら僕よりこいつの方がよっぽど向いているんじゃないか?


「分かったよ。どうにかしよう」


   ※※※ ※※※


 雄一郎はどうにかした。一言で言えば、生徒会長として全校集会の壇上で一席ぶったのである。後にリンカーンやキング牧師のそれにも匹敵すると絶賛される名演説であった。キリストさえ改宗し、ヒトラーでさえ右倣えしたであろうと言われる見事なアジテーションであった。


 何を言ったか? そんなことは雄一郎自身も覚えていない。「仲間を見捨てていいのか」とか「近藤君は教育の被害者なのだ」とかそんな空々しいことを言ったような言わなかったような気がする。雄一郎は例の「カリスマ」を発揮するとき半ばトランス状態に入ってしまうことがある。あるいは本当にヒトラーか何かが憑依しているのかもしれない。


 まあ、それはいい。


 雄一郎は思った。問題は自分の演説が予想以上の効果をもたらしてしまったらしいということだ。


   ※※※ ※※※ 


「近藤の退学処分を取り消せ!」


「教員は自己総括せよ!」


「おっぱいもませろ!」


 状態はまさに学生運動そのものであった。職員室の前に、生徒たちが群れを成して押しよせているのである。しかも、それを指揮しているのはほかならぬ雄一郎なのである。雄一郎、もはや笑うしかなかった。あはははは。


「おい、矢野っち。楽しそうじゃないか」


 竹中が人ごみを割って雄一郎のもとまでやって来た。雄一郎はお前こそなんでいつもそんな楽しそうなんだよと思ったが、口には出さなかった。


「先公たちへの要求を書いてきたぜ」


「要求?」


 何言ってんのこいつ。


「そうだよ、要求だ。驚くなよ、全部で九五か条ある」


「ルターかよ……」


 竹中は雄一郎の前にルーズリーフの束を突きつけた。「テストを廃止せよ」とか「制服を自由化せよ」とか、無茶な要求が箇条書きで並んでいる。悪ノリの産物以外の何物でもなかった。九五という数字ありきで数を合わせたのだろう。部室で嬉々と要求を募る連中の姿が浮かんで頭が痛くなった。


「本気でこんなことを要求するつもりか?」


「ああ、俺たちは本気だぜ」


 少年たちの目が雄一郎に集まっていた。同級生もいれば、後輩、先輩もいる。その全員が雄一郎に期待を寄せているのだ。もしも断ったら? そのまま暴動になりかねないなと雄一郎は判断した。


 ああもう。どうにでもなれ。ええじゃないかと雄一郎は職員室のドアを叩いた。


   ※※※ ※※※


 生徒課の教員との話し合いはもつれにもつれた。いくらなんでも要求が無茶過ぎたこと、一教員の判断ではどうしようもならないことがその原因だった。というか、そうでないと困るというのが雄一郎の切実な心情であった。


「うーん、どうにかしたいのはやまやまなんだけどねえ。でも法に触れることをやられてしまうと内々で処理するわけにもいかないから。学校の外のことでもあるしねえ」


「そこをなんとか……せめて謹慎という形に持っていけないでしょうか」


 雄一郎が職員室の入り口にちらちらと視線をやりながら乞うと、生徒課の教員が「うっ」と顔をしかめた。ドアの外に殺到する生徒を想起したのだろう。


「分かった分かった。考えておく。だから今日はもう帰りなさい」


 雄一郎はほっとして職員室を出た。雄一郎とて、近藤のやったことを許せるわけではない。しかし、ここで学校側が断固として折れなかった場合、部員――いや、いまや全校生徒が反乱を起こしかねない勢いだった。


 小学校のときのように、教育委員会にもかけ合うべきだろうか。雄一郎は考えた。しかし、一方で、ことが大きくなりすぎることに対する不安もあった。自分の力の影響がこれ以上広がるのを、雄一郎は望まなかったのだ。


 その迷いが命取りになろうとは、このときの雄一郎も想像ができなかった。


 けっきょく、近藤の退学を取り消すことはできなかった。九五ヵ条の要求が通らなかったのは言うまでもない。


   ※※※ ※※※


「なあ、やろうぜ、矢野っち」


「何を」


「こうなりゃやることはひとつしかねえ。学校をのっとるんだよ。バリケードだ。徹底抗戦だ」


「……前々から気になってたんだけど、そういう知識ってどこから仕入れてくるわけ?」


「ん? 一年の長谷がこういうの詳しいんだよ」


 犯人はあいつだったか。痩身の後輩の顔を思い浮かべながら雄一郎は思った。そういえば、長谷は自分が部の黎明期に集めてきた資料を熱心に読み込んでいた。いずれも学生運動に関する資料だった。


「バリケードなんてダメだ。そこまで行ったらもう引き返せない」


「そうか。そうだよな。命あってのものだねだしな……」


 そう言って竹中は哀愁の背中を以下略。


   ※※※ ※※※


 こうして、雄一郎は学校をバリケード封鎖した。というか部員たちが勝手に机やら椅子やらを動かしてバリケードを作っていた。


 いまは屋上で二、三年生を中心とする部員たちとともに立てこもっている。


「けっきょく、俺たちはおっぱいよりもこうして夢中になれるものがほしかったのかもな」


 竹中がしみじみとした口調で言った。一方で、雄一郎の心はさめていた。なんでこいつはちょっといいこと言ったみたいな顔をしてるんだと思った。


「なあ、矢野っち。お前を戦友と見込んで告白したいことがあるんだ」


「この期に及んでなんだよ。まさか逃げたいとは言わないだろうな」


「馬鹿言うなよ。ワッパがかかるときは一緒だぜ」


「気持ち悪いことを言うな」


「実は俺な」竹中は無視して続ける。「ちっぱい派なんだ」


「なんだって?」


 雄一郎は思わず訊き返した。


「いままで隠していてすまなかった。本当ならもっと早く告白するつもりだった。でもよ、まさかここまでことが大きくなるとは思わなかったんだ。いまさら、おっぱい部のナンバーツーがちっぱい派だなんて分かったらどうなる? 俺はそれを想像するのが怖かった。もちろん、制裁なら何でも受けるつもりだ。だが、闘いが終わるまではお前の片腕でいさせてくれ」


 途中からはおいおいと泣きながら告白する竹中であった。


 雄一郎は天を仰いだ。よりにもよって部のトップ二人がちっぱい派とは。


「青少年問題研究部の諸君。聞こえるか。こちらは機動隊だ。速やかに投降しなさい」


 グラウンドから機動隊の声が聞こえる。


「矢野っち……」


「部長……」


 部員たちが雄一郎の方を仰ぐ。徹底抗戦だなんだのと唱えはしても、いざ警察が出てくるとやはり腰が引けてしまうものらしい。


 まったく、困った連中だ。


 雄一郎が立ち上がった。そして、すっと息を吸い込みグラウンドに向かってこう叫び返した。


「われわれはこちらの要求に対して学校側が頷くまで断固として封鎖を続ける」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

S県立さいたま高等学校封鎖事件 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ