24
「何する?」
僕は未来に尋ねた。またいつもの背中合わせの時間が始まるのだと半ば期待して。しかし、彼女の答えは意外なものだった。
「かくれんぼ」
「この家で?」
「うん」
「分かった」
僕が鬼を引き受けることになった。リビングの柱に顔を伏せ、数を数え始める。どうせ隠れる場所など限られている。子供相手に本気になってもしょうがない。小さな足音の行方はあえて意識しないようにした。
「もういいかい?」
返事はない。すでに隠れ終わっている場合、返事はしなくていいことになっていたが、声が小さかったかもしれないと思いもう一度呼びかけた。今度は僕は未来が家のどこにいても聞こえるように大きな声で。
「もういいかい?」
今度こそ返事がないのを確認して、僕は未来を探し始めた。四歳児が灯台下暗しという言葉を知っているとは思えないが、時間稼ぎの意図もこめてリビングを徹底的に捜索し、それから寝室をはじめとする個室に捜査範囲を広げた。未来もきっとすぐに見つかってはおもしろくないだろう。最初の巡回はまずベッドの下やクローゼットの中をさっと覗いて確認するに留め、二回目の巡回でようやくクローゼットの奥や荷物の陰など未来が隠れていてもおかしくない場所を探し始めた。後は時間の問題だろう。そう思っていたのだが、未来は意外と手ごわかった。危ないからベランダには出ないよう言ってあったが、そこも一応確認する。やはりいない。浴室、ダンボールの中。どこにもいない。すっかり途方にくれて、いったんリビングに戻ると、そこに未来の姿があった。
「あれ」
「見つからないから出てきてあげた」
「……そう」
未来はもしかしたら家の中に絶好の隠れ場所を見つけたのかもしれない。それを自慢したくて僕に勝負を吹っかけたのだとしたら急な誘いにも納得がいく。
「じゃあ、今度はおじさん探す」
「え」
僕の口から、叔父にあるまじき間抜けな声が漏れた。かくれんぼの醍醐味はあくまで隠れることだろう。自ら進んで鬼をやりたがる子供はあまりいない。
「ベランダには出たらダメだよ」
「はいはい」
いーち、にいと数え始めた未来の背中から目を外し、僕はさっき探索して回ったところに大人が隠れるような場所があっただろうかと思案した。
「もういいかい」
「まだだよ」
やけに早いなと思った。そういえば幼稚園では数の数え方をどこまで教えるんだろう。六〇までよどみなく数えられる未来はもしかしたら聡明な方なのかもしれない。
けっきょく、浴槽の中に身を潜めることにした。さっき未来がシャワーを浴びたばかりだから床のタイルがまだ濡れており、僕は靴下を通して伝わる湿り気に閉口しながら浴槽の蓋を持ち上げた。未来がそんなところに隠れるはずがあるまいと思ってくれたらこっちのものだ。尤も、他に隠れそうな場所を探し終えるまでの時間稼ぎにしかならないだろうこともよく分かっている。いくら負けず嫌いだからって四歳の姪相手に本気で勝ちを取りに行くほど子供でもないつもりだ。
狭く暗い浴槽の中、胎児のように背を丸めてじっと身を潜める。未来はすぐやってくるだろう。浴槽の蓋を持ち上げてこちらを覗き込む彼女の姿を思い浮かべると、笑みが漏れた。いや、まったく。これじゃ見つけてほしいみたいじゃないか。
姉は「詳しく聞かせてもらう」なんて言ったけど、あれからたいしたことがあったわけじゃない。スマートフォンを買い替え、アパートを引き払い、同じ市内のアパートに居を移しただけだ。
きっかけは言うまでもなく、あの「お花見」の騒動だ。僕はどうもアルコールに弱いらしい。目覚めると、そこにはピザやケーキの箱、空になったワインボトルが転がっており、当然だが同僚たちの姿はなかった。スマートフォンを確認すると、もう正午を回っており、なぜか立花や相原、それに宮下から謝罪のメールが届いていた。なぜ急にこんな殊勝なメールを送ってくるのだろう。疑問に思いつつ、食材を買いにアパートをふらっと出たところ、庭で紫煙をくゆらせていた倉田老人に「いや、あんた。いい友達を持ったな。あの子らが止めてくれなかったら今頃あんたはこのアパートをぶっ潰して負債まみれになってたとこだ。これに懲りたら酒はほどほどにな」と渋い顔で言われた。
こうして、僕は自分が希代の酒乱であることを知った。週明け、職場に出てもみんな戦々恐々として話しかけてこなかったくらいだから、その程が知れる。立花が頬にガーゼを当てていたのは僕のせいじゃないと思いたい。篠塚さんには訊きたいことがあったけれど、けっきょくその日倉庫で姿を見ることはなかった。
倉庫のアルバイトは短期の契約だった。期限が終わるのを待ってすぐさま保証人不要のアパートに引っ越した。スマートフォンを買い替え、メールアドレスもデタラメで意味を成さない文字列に変えた。新居に布団を広げそこに寝転がると、「これでしばらくは一人だぞ」とほっと息をついた。しばらく孤独を堪能した後、求人情報誌でバイトを見つけ応募した。このまま身内からも完全に消息を絶ってしまおうか。そんなことも考えたけれど、なんとなく魔が差して姉の家の近くにふらりと現れてしまった。たったそれだけのこと。直接訪ねるのではなく、家の近くをぶらぶらしていたのは決心がつきかねたというだけじゃなく、向こうから見つけてほしかったからかもしれない。
カブトムシの幼虫のように体を丸め暗闇でじっと息を潜めていると、自然と浮かび上がってくるのが子供時代の思い出だ。まだかくれんぼに夢中になれたほどむかし、僕は友達が自分を探し回っている様子をこっそりと伺いながら、ぞくぞくとするような愉悦を覚えたものだ。見つからないこと。そして探されること。この二つが揃ってはじめて僕は隠れる喜びを感じることができたのだと思う。言ってみれば、それは神さまのような愉悦……
その沈黙が嘆かれながらも、誰もが求めずにはいられない存在。誰もが求めながら決して手が届かない存在。平等なる無慈悲を持って人間世界を睥睨し、自分宛ての祈りに気分をよくする。たまにはサービスで海を割るような奇跡も見せたりするけれど、自身は決して姿を見せない。そんな天上の存在にのみ許された愉悦。
けれど、僕は所詮人の身だ。人前に姿をちらつかせば、うっかり捕らえられてしまうこともある。いまも、未来の足音がどんどん近くなってくるのが分かる。足音が浴室の前でぴたっと止まって、勢いよくドアが開かれるのも分かる。
ああ、見つかるな。
若干の悔しさとともにどこか待ち遠しい気持ちがこみ上げてくるのも僕が人の身だからだろう。
僕はそのときを待った。息を潜めて。浴槽の蓋が開き、その隙間から光が差し込のをじっと待った。
――おじさん、見つけた。
そんな声がかかるのをじっと待っていた。
ひとりごっこ 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick
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