第7話
真奈美は女子トイレに駆け込んだ。
涙が止まらない。
──なぜ?
最初から、浩平にカノジョがいることは知っていた。
小説のために、疑似失恋しよう、そう思っていたはずだ。いわば、自分が望んだ結果だ。
嘘の恋愛。嘘の失恋。本当に何かを失ったわけじゃない。
それなのに、こんなにも胸が苦しい。浩平の隣には、雪奈がいるのだと思うだけで、心の奥に穴が開いたようだ。
──これで、大作が書ける……ね。
自分に、言い聞かせる。そう思わなければ、涙が止まりそうもない。
何度も浩平への気持ちは、疑似恋愛で、これは疑似失恋だと、自分に言い聞かせる。
浩平の不器用な笑みが、何度も脳裏に浮かぶなんて、絶対に自分はおかしいのだと、真奈美は思う。
ようやくに、涙が止まると、真奈美はバシャバシャと顔を洗った。
鏡の中の真奈美は、真っ赤な目をしている。
──名作を書いてあげるんだから!
とても、小説なんて書く気分ではない。けれど、浩平への気持ちは『小説を書くため』に生まれた『嘘の恋愛』なのだから。
真奈美は無理やりに口角を上げて、笑みをつくった。
トイレを出ると、既に下校時刻をかなり過ぎていて、廊下に生徒の姿はなかった。
廊下はやや薄暗く、陽の光が斜めに差し込んできている。
──かばん、取りに行かなくちゃ。
荷物を持たずに、トイレに逃げ込んだから、教室に全部置いたままだ。
真奈美は、靴音を小さく響かせながら、廊下を歩いた。
教室の引き戸をがらりとひき、中に入ろうとして、真奈美は固まった。
「沢田」
誰もいないと思った教室に、浩平がいた。
一瞬、体がびくんと震える。
本来なら、もう部活に行っている時間ではないだろうか。
誰もいない教室で、何をしていたのか。机に学生カバンを置いたまま、浩平は自分の椅子に座っていた。
「山本君?」
声がこわばる。不自然を承知で、無理に笑みを浮かべた。足が、動かない。
「……カバンがあるから、まだ帰っていないと思って」
浩平はすくっと立ち上がった。
「な、何か用?」
真奈美の声は震える。
今日は何も迷惑をかけていないはずだ。雪奈からプレゼントをもらって、手を握り合っていたのを見てしまったけれど、それは真奈美一人ではない。
「誰かに、報告に行ったのか?」
探るように見られて、居心地が悪い。何を言われたのか、理解に苦しんだ。
「報告?」
「あ、いや……そんなわけ、ないよな。やっぱり」
浩平は頭を掻きながら、首を振った。
運動部だろうか。
遠くに声が聞こえる。
真奈美は、ゆっくりと自分の机にたどり着き、帰る支度をはじめた。
「俺、雪とは何でもないから」
雪とは、雪奈のことであろうか。
「……誰にも言わないから、大丈夫だよ。私、口は堅いほうだし」
真奈美は苦笑しながら、カバンを手にする。一刻も早く、ここを去りたかった。
「そ、そうじゃねえ」
浩平の太い腕が伸びた。真奈美は腕をつかまれた。
「ご、ごめんなさい。許して。あの……もう、見ないから」
真奈美は、俯きながら、謝罪する。
「もう、見ない?」
浩平の声が驚きの響きを帯びる。
「……やっぱり、誰かに言われて、調べていたのか?」
「え?」
何を言われたのかわからず、真奈美は思わず顔を上げた。
浩平の大きな瞳が間近にあって、胸が大きく音を立てた。
「誰かに俺を調べろと脅されていたのか?」
「ち、違う。本当に。私が勝手に、山本君を見ていただけなの」
口が渇く。そして、つかまれた腕が痛い。
「それって、どういう意味?」
浩平の瞳に真奈美の姿が映っている。もう、嘘は言えない。
「恋愛ごっこをしているつもりだったの。山本君を好きになったつもりで見ていた。見ているだけなら、迷惑かけないと思って」
言って。真奈美は首を振る。
ひそやかにたった一人で、疑似恋愛して、疑似失恋して完結するハズだったのに。
「でも、気持ち悪かったよね。本当にごめんなさい」
あきれられただろうか。真奈美は目を伏せた。
「……つまり、俺が嫌いになった?」
浩平の手が緩む。
「だったらよかったのに。大丈夫。ちゃんと、忘れるから」
真奈美は、自分の腕をつかんでいた浩平の手に反対の手をそっと重ねた。
大きくて、硬い手だった。
「あのさ。俺が自意識過剰なのかもしれないけど」
浩平は、真奈美を凝視する。真奈美の身体は、金縛りにあったように動けない。ただ、心臓だけが激しく動く。
「それって、俺のことが好きだって、言っている?」
浩平は言いながら、真奈美の頬に空いていた手をのばしてきた。
真奈美は、答えられないで、ただ震える。浩平の意図がわからない。
「あんな目で男を見たら、迷惑だ」
浩平は唇を不機嫌にゆがめる。
「だから、責任とって、俺とつきあって」
「え?」
真奈美は、何を言われたのかわからず、目を見開く。
「可愛い女子に、じっと見つめられて、親切だとか見かけで損しているとか言われたら、惚れちまうだろうが」
「かわいい?」
言われた意味が分からずに、戸惑う真奈美の頬に、浩平の唇がそっと触れた。
浩平の顔が赤く染まっている。
「好きだ」
真奈美は、うん、と頷く。
先ほどとは違う、暖かい涙が真奈美の頬を流れる。
二人だけの教室に、差し込んだ夕日が、二人の影をつくっていた。
了
初恋探偵 秋月忍 @kotatumuri-akituki
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