絵描きの指を食む
雅 翼
第1話
神絵師の腕を食べる。
そんなネットスラングがあるらしい。画力が優れた人間の腕を食べてその画力を得たい、という意味なのだとか。
その気持ちは少しだけ分かるような気がする。その画力を、その右手がキャンバスに紡ぐ世界を食べてしまいたいと思う相手なら私にも存在するからだ。
「
私が呼びかけると、柚は小気味よい音を立ててスケッチブックに鉛筆を走らせていた手を止めた。長い睫毛を重そうに持ち上げて私を見上げるその瞳には、私はどんな風に見えているのだろう、と視線を交わす度に思う。
そっと鉛筆を膝に乗せたスケッチブックの上に置いた柚の、強く握ったら折れそうな手首を緩く掴む。そのまま私の唇に引き寄せ、手のひらを舌先でなぞると、微かに鉄の味がした。
中心から指の付け根へ、指先へと徐々に舌を移動させていく私を見ながら、柚は何度もピクリ、と手を震わせ、拳を握りしめて拒みたくなるのを堪えている様子だった。
「……っ、先生」
恥じらいと困惑の混じった声。何か?と言わんばかりに見つめ返してやると、柚の大きな瞳はうっすらと涙の膜が張っている。ああ、愛しい。指の股に舌をねじ込み、白く華奢な指の側面をねぶり、ちゅ、ちゅ、とわざと音を立てて何度も口付けを落とす。
静かな美術室にその音だけが響き、湿った空気がゆったりと室内を満たしていく。
吉田柚。その名前を知ったのは、私が大学に入って間もない頃だった。地元のこども絵画コンクールの最優秀作品に添えられたその名前を、たまたま展覧会に足を運んだ私は一瞬で頭に刻み付けた。
圧倒的な筆致だった。同年代の子どもたちが描いた他の作品とは、完全に一線を画していた。案の定、その後、私は別のコンクールでも柚の名前を幾度も見ることになった。
地方から全国へ、小学生、中学生と進学する中で、柚は絵画コンクールや啓蒙ポスターの類を軒並み席巻していた。年齢の成長に伴い、柚の画力はどんどん進化を遂げていた。幼い頃から絵を褒められ、密かに画家を目指していた私の夢は、柚の作品を追っていくうちにいつしか木っ端微塵に破れた。かなわない、と思い知らされた。
そんな折、赴任先の高校の新入生として、ついに柚は私の前に現れた。いつかその時が来ると信じて地元に残る決断をしていた私にとっては、まさに奇跡と言っていい。高鳴る鼓動を抑え、最初に交わした言葉は美術部への勧誘だった。はい、と涼し気な声で返事をして柚が微笑んだ、その時から、私は。
くに、と歯の表面を柔らかい肉の感触が撫でる。その奥にある華奢な骨までも喰らってしまいたい衝動を抑えながら、私は軽い歯型を残す程度の甘噛みを順番に柚の右手の指先に施していく。
小指に、薬指に、中指に、人差し指に、親指に。
五本の指は、例えるなら五本の魔法の杖だ。一本一本が動くことで真っ白なキャンバスに線を乗せ、色を与え、ひとつの世界を構築して閉じ込める。絵を描く、という作業はこんなにも美しいものだったのか、と私は柚が絵を描く姿を一目見て魅せられた。指揮者のそれのように優雅に空を舞う、その右手に恋焦がれた。嫉妬と羨望、思慕と劣情。色の違う絵の具を混ぜ合わせるように、重なった感情が導き出したのはただひたすらに欲しい、という思いだった。
うっすら桜色に染まった爪を唇に挟み、歯を当てる。こつ、と鈍い音が口内に微かに響く。そのまま舌先で綺麗に切りそろえられた爪の滑らかな曲線を撫でると、はあ、と柚は呻くように息を吐き出した。
ぴったりと合わさった両膝を僅かに動かし、もじもじと擦り合わせている。それが何を意味するものか、私には分かっていた。
「嫌?」
「恥ずかしい……、です」
私が柚の右手を食むようになってから、一体何度このやりとりをしてきただろう。答えは予定調和だ。嫌だ、と返ってくることはない。時間をかけてゆっくりと、そうなるように仕向けたのだから。
「セックスと、どちらが?」
「……っ、こっちの……方が」
恥ずかしい、と、たまらず視線を逸らし、柚は落ち着きなく室内を見回し始める。反射的に左手で首筋を押さえる姿が愛おしい。制服の襟に隠された白い肌には、未だ色濃く私が刻んだキスマークが残っているのだろうか。
以前、柚は何よりも絵が描けなくなることが怖い、と話していたことがあった。絵を描くこの右手が、心臓より大切なのだと。だとするならば、柚にとって右手を口に含まれることは、直接心臓を喰われることと同じなのかもしれない。そうであって欲しかった。
体を繋げば自ずと、酷く無防備な粘膜が触れ合い、擦れ合う。内側から柚の世界を侵食することは、驚くほど呆気なく容易かった。
色の違う絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた先にあるのは、全てを飲み込む黒、という真っ暗な闇だ。
私は柚と、その暗闇へまっさかさまに堕ちてしまいたい。
絵描きの指を食む 雅 翼 @miyatasu
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