高速バス

スヴェータ

高速バス

 隣国に住む恋人に会うため、月に一度、高速バスに乗っている。今月は会うのが少し遅れた。いつもは上旬に会うのだけれど、もう来月がすぐそこまできている。


 回数券はあと2回分。行って帰ればなくなってしまう。私は忘れてしまわないように、乗り込む前に次の回数券の束を買った。回数券は、普通に買うより2回分お得。ほんの小さな幸せだ。


 金曜の夜は、若い男女が1人ずつ座る席が多い。ああ、きっと、彼も彼女も恋人に会いに行くのだろう。隣国に恋人を持つ人は多い。私と同じ、中距離恋愛。


 このバスが出るのは国境近くの町で、私の住まいも同じ町。バスではたった3時間あれば隣国に着いてしまう。私はこの短くも長い時間の過ごし方を考えるけれど、恋人のこと以外、何を考えられましょう?


 会った瞬間のことを想像する。バス停で待つ恋人に、私はいつもクールな表情を保ったまま会えない。頬はだらしなく緩み、心の弾むままに手を振ってしまう。


 ……私は意識を他へ逸らす努力をしつつ、席を探した。すると、奥に誰もいない席を見つけた。窓際に座り、頬杖をつく。ガラスに私の顔が反射していて、何だか目を合わせられない。


 少し遠くに目をやると、ズラリと続いていた列は消え、ブオンという音の後はスルスルと景色が移り変わった。夜の始まりはぼんやりと輝き始めていて美しかったけれど、何となくカーテンを閉めて目を閉じた。


 どれくらい時間が経っただろう。いつのまにか寝入ってしまって、自分が今どこにいるのかさえ分からなくなっていた。すっかり暗くなっていて、ネオンが時折眩しい。隣国には入ったのだろう。私の住む町よりずっと、隣国の入り口の方が都会なのだ。


 時間を見る。19時05分。私がバスに乗ったのは18時02分だったから、そうするとまだ隣国ではないのかもしれない。1時間で国境は越えられないから。しかし、こんなに明るいところが1時間で着く町にあっただろうか。


 辺りを見渡す。男女がパラパラと座っていた。そういえば、少し減っている。このバスは隣国に入らない限り降車はできない。それならやはり、ここは隣国。では時計が壊れたか。私はバスの時計を探したけれど、あるはずの場所に見当たらなかった。


 カーテンを開け、注意深く窓の外を眺めてみる。しかし、見覚えのある町ではない。時間でも、場所でも、私が今どこにいるのか、どこに在るのか、何のヒントも得られなかった。


 もう一度時計を見る。やはり私の時計は壊れているらしい。19時05分から動いていない。何となく、そろそろ到着してもいい頃だと感じていたから、大きな不安に襲われた。


 斜め前に座る女性を見る。彼女は目を閉じ、眠りながら到着を待っている。左右どちらも、隣に人はいない。分からないものは仕方がないと、もう一度目を閉じようともした。しかし何だか、心がざわつく。


 どうしようもなくて、もう一度外を見た。すると明るい看板があり、そこには「ソーリョショーリョ!」と書かれている。隣国の端の方言で「よく来たね!」。目的地をずっと、ずっと過ぎたところの方言だった。


 バスを乗り違えたのか。いつもの場所に来て、いつもの色のバスだったのに。いや、バスの前方には私の目的地が表示されているからそれはないはずなのだけれど、それならこの外の景色は何なのか。


 もう一度車内に視線を移すと、先程までいた斜め前の女性がいなくなっている。それどころか、途中停車もしていないのに乗客はめっきり減っているようだった。


 思わず立ち上がる。皆眠っていた。運転手も。しかしバスはひたすら道をまっすぐ、うねりも曲がり角も、行き止まりさえ関係なく進んでいた。


 もう間もなく海に着くのではと思われる頃、運転手もいなくなった。それと同時にバスは止まり、明るい港町の交差点を行き交う車を吸い込んでは吐き出した。


 時刻は未だ19時05分。これはおそらく、私の心臓が、あるいは脳が止まった時間なのだろう。いや、おそらくではない。確かにそうなのだ。そう考えると心のざわつきが晴れたから。ああ、そうだ。私は、死んでしまったのだ。


 それに気付くと、力が抜け、色素が抜け、私がこの世から消えていくのを感じた。なるほど。気付いた者から消えていったのか。そしたら私は、随分遅かったらしい。


 恋人の顔を想像する。こんな時なのに、思わず顔がほころびてしまう。そして財布に入れた、次会うための回数券の束を思い出し、ああ、こうして無駄にするくらいなら、買わなければ良かったと後悔した。

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