第二章:I Promise You③自信と覚悟
翌日から、神戸の言う通り地獄だった。掃除をしている最中に南森が「チェックする」と称して簡易ベッドにかけられたタオルを乱し、水をかけて部屋を汚してくる。それで掃除が遅くなると「あいつ丁寧にやるのがいいとか言って遅いだけ」と事務室で吹聴する。クローズ作業のときには自分だけ早く上がってしまい、残った作業のすべてをまだ新人の月光に任せていた。
嫌がらせは徐々にエスカレートしていく。最初は仕事の邪魔をする程度だったが、だんだんと月光自身に対する嫌がらせにシフトしていった。月光の個人情報を職場のパソコンから盗み見て、月光に実の親が居ないことがわかると家族をネタにしたイビリをしてきた。「親を見て育つと言うけどあいつは親がいないからああなんだ」「育ての親もダメな人間に違いない」言葉による攻撃だったが、月光にとっては一番触れられたくないことだ。月光は家族の話をされるたびに涙をこらえ、南森を殴り飛ばしたい気持ちをこらえ、自分の心を殺して耐え続ける。
神戸は「あいつやりたい放題がすぎる」と文句を言っていたが、店の人材不足の状況を鑑みるとクビにはできない。月光が耐え続けるしかなかった。
月光はどんな嫌がらせをされても「約束したしな」と自分を鼓舞させる。それでも、心の中には黒い靄がかかっていた。勤務開始から一週間が経った頃には、梅田屋に通う余裕は全くなく仕事終わりにスマホを見ると楓からの着信が数件残っている。それにも対応する気力がなく、日に何件もかかる楓の電話を無視し続けていた。
勤務開始から二週間後の休日。
月光がゆっくりと体を起こして煙草を吸いながら冷蔵庫から炭酸水を出し、飲む。冷えた炭酸水の清涼感も今は全く体にも心にも響いてこない。ため息をついて冷凍庫に保存していた菓子パンをレンジで解凍し、食べた。ふとスマホを見ると「今から行く」と楓からのメッセージが残っている。メッセージの着信時刻は1時間前を指していた。「え?」と呟くと、アパートの階段を上る音がする。足音は自分の部屋の前で立ち止まったように聞こえた。鍵が開かれる。月光は慌てて煙草の火を消し、ソファに座った。
「生きてるかー!」
ドタドタという足音と共に、楓が神妙な面持ちで部屋に入った。月光が楓の顔をゆっくりと見ると、楓は一息ついて布団の上に荷物をおろし、自分も布団の上に座る。
「少しは連絡返せよな。心配するやろ?」
「ごめん」
「たまには飯食いに来いって」
「今日仕事は?」
「休み」
「材料色々買ってきたけど何か食べるか?」
楓がスーパーの袋を月光に見せつける。月光は虚ろな目で袋の中を見て、ゆっくりと口を開いた。
「たまごやき食べたい」
「じゃあ玉子焼き定食作っちゃる。待っとき」
「うん」
楓が「よいしょ」と立ち上がり、キッチンに行った。月光はこの二週間の出来事を思い返しながら自分自身を奮起させる言葉を探す。約束だからとか、自分がそうしたいからとか、返済のためとか、さまざまな言葉が出てきた。だけど、約束もその相手と2週間全く言葉を交わさなければ薄れていくというものだ。どの言葉もイマイチ響かない自分がいることに、月光はため息をつく。
もう一度煙草に火をつけると、月光はまた小学校の卒業文集を見た。当時の友人の文集、初恋の人の分集、さまざまな文集を見ていると自分自身の文集の異質さが際立つように感じられてしまう。皆は「プロ野球選手になりたい」「お花屋さんになりたい」など職業を語っている。明るい将来がかならず来るものだと信じて、疑うことなく始終前向きな文章で綴られている。一方、月光のものは自分自身の将来を疑いながら曖昧な将来の願望について書かれていた。
文集を閉じて煙草を消すと、キッチンから良い匂いが漂ってくる。楓が玉子焼きと白米を月光の前のローテーブルに置くと、今度はキッチンから味噌汁を持ってきた。味噌汁には油揚げとピーマンと豆腐が浮いている。
「楓さん、これ」
「あんた好きやったやろこれ」
「うん」
「はよ食べ」
「いただきます」
味噌汁のピーマンをすくいあげると、しなしなになって少し皮にしわが寄っているピーマンを口に放り込んだ。そしてまだ熱い味噌汁を口に流し込む。ピーマンの苦味が溶け込んだ味噌汁と、味噌のうまみが染み込んだピーマン。その二つが不思議な協力関係を築き、味噌汁の旨さを形成している。そこを白米で追いかけ、たまらず玉子焼きも食べていく。ガツガツと無言でただただ食べ続ける。久しぶりにあたたかい想いがして、腹の底が熱くなり、目からは涙が溢れた。
「ごちそうさま」
「なんかあったんか?」
楓の声は子どもをあやすかのように優しかった。月光はこれまでの経緯を全て楓に話す。自分がどう感じたのか。どう思ったのか。何が許せないのか。月光は特に「家族」の話を強調して聞かせた。「楓さんのことを言われるとどうも我慢できない」と、「生みの親の話と楓さんの話をされると自分の人生を否定されているような気になる」と。
「煙草ちょうだい」
月光が楓に煙草を渡し、楓の口元にライターの火を近づける。楓は煙草の煙を吐き出しながら「あのさあ」と言った。
「月光はさ。自信と覚悟が足らんのよ。自分の人生に対する自信も覚悟もな。いびられただけで傷つくのがその証拠や。もっと自分の人生に自信とかプライド持ちや。そしたらあんたの意識は他人の手の届かないとこにまで上れる。そしたら傷つかん。そんでな、別に否定されてもええんよ。あんたが約束を守るという覚悟を決めれば。自分の人生、自分の決めたことを貫くという覚悟を決めれば。あんたはええ子や。あんたの人生は他の人間にはない素晴らしいもんや。それは私が全部知っとんねん。ええか。自信と覚悟や」
楓の言葉ひとつひとつが、月光の内臓を駆け巡り脳に達する。月光は一度溢れてしまった涙を無理やり止めようとグッと全身に力を入れた。左手の甲を跡が残るまでつねり続ける。楓は月光のその様子を煙草を吸いながら、ただ黙って見守った。トラックが通る音が何度か聞こえる。その度にアパートが揺れた。空は白々しいくらいに青く、隣室からは話し声がうっすらと聞こえる。月光の涙がぴたりと止まり、月光は楓の目を見た。
「自信と覚悟か」
声が、震えた。
「すぐには無理やろけどね」
「多分、約束を叶えたら少しは」
「だったら、自信と覚悟を得るために頑張り」
楓の声はいつもどおり、優しかった。
「せやな。頑張るわ。ありがとう楓さん」
月光は再び前を向き始めた。
南森による嫌がらせは相変わらず続いていたが、月光はそれら全てに真っ向から立ち向かっていく。掃除中に邪魔をされても早く掃除が終わるように効率化を徹底し、誰よりも丁寧に接客を行い、常連さんから名前を覚えられるようにまでなった。嫌味なことを言われても全部笑顔で返す。毎朝梅田屋に行き、おいしいごはんを食べた。あまり話はしなかったが、梅田屋には陽菜子もときどき顔を見せていて、二人で並んでご飯を食べる。
初給料日には沢崎と難波が店に来て、初給料手渡しに立ち会った。そのまま沢崎に10万円を支払うと沢崎は満足そうに「またな」と言って立ち去る。難波は「手渡しだと厚みが違うだろ」と言って笑った。月光は「その分10万円が惜しく感じますけどね」と笑う。南森は月光の顔を一切見ず、鼻で笑った。
その日、月光が上機嫌で帰路につこうとしていると、ビルの目の前で難波が声をかけてきた。
「お前よ。なんで黙ってんだ?」
難波がビルの壁にもたれかかりながら、月光の顔を見ずに問う。月光は「うぉっ」と言って難波の顔を見てしばらくぼうっとした後、「ああ」と言って咳払いをした。
「黙っているわけではないんです。あのクソみたいな先輩よりも仕事ができるということを見せつけてますから。無言の反抗です」
月光が難波に拳を見せつけながら言った。難波は「そうか」と笑い、煙草を吸い始める。ぷかぁっと煙を吐き出す。
「正直、店長も客もスカッとしてんじゃねえのかねえ」
「どうでしょうね」
「神戸はあいつのこと厄介がってたからな。客も店の雰囲気の悪さには気づいとるやろ」
「それはそうっぽいっすよ」
「だよなあ。にしても……無言の反抗ねえ。おもしれえかもな」
難波が笑いながら煙を吸い込む。月光は「おもしろいですかね」と首をひねった。難波は煙草の火を消すと「貫き通せや」と言って月光の肩を叩き、「じゃあな」と言って去っていく。月光は「はい」とだけ言って帰路についた。
それからまたしばらくして、二ヶ月目の給料日には完全に仕事に慣れてきていた。店長やマネージャーにだけ任されている仕事以外は全てマスターしている。名前を覚えられている常連客には「君がいればこの店は安泰だ」とまで言わしめるほどだ。この頃になると南森の嫌がらせもだんだんと沈静化されてくる。無言の抵抗が功を奏したのだと、月光は誇らしくておかしくて、家に帰ってから給料袋を眺めて笑った。
そして、三ヶ月目の給料日……。
「今日は重大発表があります」
神戸の声が高らかに響く。事務室とキャスト待機所の間仕切りが取り払われ、全員が話を聞くことのできる状態になっていた。月光は「もしかしたら」と思い笑みをこぼしそうになっている自分に気づき、表情筋をグッと引き締め笑みがこぼれないように努める。南森は黙りこくったまま、ただ目を細めて神戸を見ていた。難波と沢崎が事務室の壁にもたれかかっている。
「新人の相野月光くんが入店して三か月、もうすっかり冬です。朝、窓を開けると冷気が容赦なく体を刺してきて、ああ冬だなあと実感します」
「前置きはいいんじゃねえか?」
神戸の時候の挨拶に難波が水を差す。神戸が「そう?」と聞くと、難波は「せや」と返した。神戸は咳ばらいをすると、いつも通りに微笑みながらゆっくりと口を開く。
「相野月光くんがマネージャーに昇格します」
キャスト陣からまばらな拍手が聞こえてくる。そこに二つだけとても大きな拍手があったことに、月光は気付いた。ひとつは月光の背後で壁にもたれかかっている難波のものらしく、もうひとつは待機所の壁にもたれかかっている陽菜子のものらしい。月光の表情筋が無意識に緩み、思いきりの良い笑みが溢れ出した。
「ありがとうございます!」
月光が満面の笑みでお辞儀をする。
「さて、ヒカリくん。マネージャーは複数のキャストの面倒をみなきゃいけないんだけど、この店ではマネージャーの仕事に慣れるまで、担当は一人だけなんだ」
「はい」
自らの心臓が暴れ狂っていることを月光は自覚した。
「君にはクイナさんの担当についてもらおうと思う。いいね?」
神戸の言葉に、月光が「え!?」と声を上ずらせる。それは陽菜子も同様だった。神戸は持前の笑みを崩さずに「不服かい?」と首をかしげる。月光は「いえ」と短く言い、陽菜子もまた「そんなことは」と言った。月光の呼吸が短く早くなっていく。月光が陽菜子の顔を見る。三か月前、約束をしたあのときよりも開かれた顔で陽菜子は笑っていた。
「謹んでお受けします」
月光は陽菜子の顔を見ながら言った。
「よし! ということで明日は定休日です。みんなハメを外しましょう」
神戸が手を叩くと、キャストとボーイが帰り支度を始める。月光もまた神戸に礼をしてから帰り支度をし、客の待機所で煙草を一本吸ってから外に出た。
外の空気はとても開放的で心地よく、涼しい。月光が深く息を吸い込んで明後日からのマネージャー業務への期待と不安とで胸を膨らませると、後ろから声がかかった。
「ねえ」
淡々としているようでどこか優しげな、陽菜子の声。月光が振り返ると、陽菜子が赤いマフラーを巻きながら右手を小さくあげている。月光もまた手をあげると、陽菜子はその手に自分の手を重ねた。
「やったね」
陽菜子が短く言った。その声が少しだけ弾んでいるように感じて、月光の心も弾む。月光は陽菜子の手から自分の手を離し、陽菜子の右手を軽く叩く。ペチンッという乾いた小さな音がした。
「当たり前だ」
月光が笑う。
「当たり前なの?」
陽菜子が月光の前に回り込みながら言った。陽菜子が少しかかんで月光の顔を覗き込む。月光は陽菜子の少しだけ緩んでいる顔を直視できず、目をそらしてしまう。だけど、すぐにまた陽菜子の顔をまっすぐ見て「おう」と言った。
「約束だからな」
「見てた。三ヶ月間の君の頑張り」
囁くような陽菜子の声。陽菜子は月光の顔を覗き込みながら、囁くような声で言う。
「ありがとう」
月光は思わず目頭が熱くなるのを抑えながら、「まだまだ僕の責任取りはこれからだよ」と言った。陽菜子はまっすぐに立ち、月光の肩を軽く叩きながら「打ち切り漫画みたいだ」と笑う。月光が「確かに」と言ってあるき出そうとすると、陽菜子が月光の手を握って引き止めた。月光が面食らった顔をして自分の手を見る。
「ああそうだ。明日休みだし付き合ってよ」
「いいけど、どこに?」
「飲みに。責任取ってくれるんでしょ? 約束も守ってくれたし話しておきたいことがあんのよ」
「わかった」
冬が真っ赤に染まる音 鴻上ヒロ @asamesikaijumedamayaki
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