第二章:I Promise You②約束

 梅田屋を出てから無意識のまま歩き続けて堂山町のあたりを散策していると、居酒屋がちらほらと開店し始めていることに気づいた。スマホで時間を確認すると11時30分を少し回った程度だ。月光はそのまま飲み屋街の中に溶け込むようにして佇んでいるサウナに入り、サウナで過眠と昼食を取ってまた堂山町に向かった。

 時間は15時半。サウナから店が入っているビルまではほんの少しだけ距離があるもののそう離れているわけではない。ゆっくりと歩いていたつもりが、無意識下に足早になっていたのか、8分程度で着いてしまっていた。店はビルの1階にある。そのためか、ビルの中に入らずとも「新乳シャイン」と書かれたピンク色の看板が目に入る。やはり乳の文字の右側が丸い。名刺と違うのは実際に乳首まで書かれているところだろうか。


 周辺で少しうろうろしてから店に入ることも考えたが、早めに来てくれと言われていたため意を決してビルの中に入る。簡素な雑居ビルで、エントランスらしいものはない。中にはそれなりに広い通路があり、突き当りに新乳シャインの入口があった。その右隣にエレベーターがある。月光は大きく息を吸ってからまた大きく息を吐いた。スーツの襟を正してネクタイが曲がっていないかどうかスマホを鏡にしてチェックする。手が震え鼓動が早くなり手汗がにじみ出るのを感じながら、ゆっくりと新乳シャインの扉を開けた。


「いらっしゃいませ」


 扉を開けて右側の黒いカーテンから飛び出てきたのは、天然パーマで黒いスーツを着た男だった。背中が少しだけ曲がっていて眉があまり整えられていない。

「本日16時から働かせていただく相野月光と申します。よろしくお願いいたします」

 月光が頭を下げると、男は「ああーね」と言ってため息を吐いた。

「店長! 新人来ましたよー」

 男の声はどんどん尻すぼみになっていく。奥からどたばたとした音が聞こえ始めたと思ったら、奥から神戸が出てきた。「店長あとよろしくでーす」と言って男は再びカーテンの中に消えていく。神戸が「ちゃんと来たね。とりあえず色々説明するからこっち来て」と言って奥に歩いていく。月光が「はい」と言ってついていくと、そこは空室のプレイルームだった。店長が簡易ベッドに座ると「まあここに座って」と着席を促す。月光が座ると、店長はスマホの画面を見せてきた。


「これがうちのホームページ。見て欲しいのは遊び方のページ。見てみて」

「わかりました」


 店長からスマホを受け取り、遊び方のページにすべて目を通した。

 まず、新乳シャインは客が社長でキャストがその会社の新入社員という設定だ。ただし、リピート指名の場合は「研修」という名目になるらしい。続いて、新乳シャインには回転顔見せタイムとヘルスタイムとがある。回転タイムでは15分間で3人の新入社員が社長室(プレイルーム)を訪れる。回転タイム中はキスと上半身のお触りは可能だが、下半身のお触り及び両者の下半身の露出は禁止されている。回転タイムが終わったら指名の有無をボーイが聞いて回る。その後ヘルスタイムが始まる。


 料金は55分(回転15分+ヘルス40分)が13000円。指名料は一律2000円。後は65分コースが16000円、75分コースが18000円と10分追加ごとに2000円アップしていく仕組みだった。オプションには回転回数+1、ノーブラなどさまざまだ。

 月光は全部読み終えてスマホを神戸に返した。


「大体わかりました」

「あとはまあ。女の子との恋愛は禁止だし、しばらくは会話すらNGだけど顔と源氏名は一致させてね。それからシフトだけど、絶対に休みたい曜日はある?」

「特にはないですね。店側の都合のいいシフトを作ってくださればそれでいいです」


 神戸は顎に手を当てて考えた後「じゃあ後で作って知らせるね」と笑った。神戸はスマホをスーツのポケットに収納してから、「とりあえず今日は受付と掃除だけ覚えてもらおうかな」と言う。それから受付のマナーや説明事項などを一通り聞き終えて、受付に向かった。受付は入口から左手すぐにある。カウンターの奥に入ると、背もたれの無い椅子とノートパソコン、女の子の写真が置かれていた。全てが客側からは見えない位置にある。ノートパソコンの画面には現在どのキャストがどの部屋に入っているのか、何分コースなのか、サービス開始から何分経過しているのかが表示されていた。


「回転でどの嬢を付けるかは店長判断だから、入力はこっちでする。端末はまあ……現在対応可能な女の子を判断するのに使って」

「わかりました」

「じゃあまあ教えた通りに。掃除は客を一人見送ったら適宜行くこと」

「はい」

「じゃあよろしく」


 神戸はそう言ってカウンターの隣にある事務室に入っていった。事務室と女の子の待機所は繋がっているらしく、カウンターに座ると隣から女の子たちの笑い声やボーイの会話なんかが聞こえてくる。月光はカウンターからパネル写真を取り出してキャストの顔と源氏名を覚える作業に入った。ホームページの写真には顔のぼかしが入っている子でも、パネルだとぼかしが入っていない。修正加工されたパネルマジックはあるとしても、実物とそう大きくイメージが異なることはなさそうだった。


 パネル写真は全部で12枚。「回転式の店にしてはあまり人数が多くないな」呟きながら眺めていく。店長の趣味なのか胸が大きい女の子が多かった。Cカップ以下は二人だけ。他はD~Hまで幅広い巨乳が揃っている。コンセプトを守るためか髪色はほとんどが黒髪。髪型もあまり派手にはせず、長髪はしっかり髪留めでくくられていた。源氏名はほとんどの子が植物をモチーフとした名前になっている。「モモ」「ミカン」「スイレン」「ヒマワリ」「クルミ」など、人名としてもさほど違和感がない。細かいことに、源氏名の隣には「広報」「営業」「一般事務」「営業事務」「受付嬢」など、どの部署の新入社員なのかという設定まで書かれていた。


「これ、会話内容とか演技とかに反映させてたらすごいなあ」


 こだわり抜かれたキャスト陣に設定。店長のこだわりの強さと店長のフェチズムを感じさせるパネル写真に、月光は思わず神戸の顔を思い浮かべてしまう。

 だが、統一感のあるパネルの中に一人だけ他の嬢とは明らかに違うパネルがあった。首元から数センチの位置で切りそろえられた短めの頭髪に、グレージュのカラー。この店では数少ないCカップのキャストだ。源氏名も植物ではなく「クイナ」と鳥類を由来にしている。何よりも月光が違和感を覚えたのは髪型・髪色、そして目だった。風俗店のパネル写真とは思えないほどに冷たい目つきをしている。

 しばらくパネル写真を眺めていると、店の扉が開く音がした。


「いらっしゃいませ」

 月光は慌ててパネル写真を片付けて立ち上がり、お辞儀をする。

「ああ。もしかして新人さん? 俺はここのボーイの南森愁一。よろしくね」

 顔を上げると人畜無害そうに笑う好青年が居た。幼い顔立ちに剃り込みを入れたツーブロックオールバックが月光の目には不釣り合いのように映る。月光が「相生月光です。よろしくお願いします」と言うと、「よろしくねー」と言って事務室に入っていった。


 月光がまた座ろうとすると、店の扉がまた開く。そこから長髪をオールバックにして後ろでヘアゴムを使ってまとめていた。右頬に切り傷の跡のようなものが走っている。「いらっしゃいませ」と頭を下げようとすると、男が「客じゃねえ」と制した。

「私今日から入った新人なもので。失礼しました」

「俺はこの店のケツモチをしている難波だ」

「ケツモチ、ですか?」

「まあわかんねえか。店長にでも聞いてくれや。おい店長!」

 難波が叫ぶと事務室から大慌てで店長が出てきて、すぐに頭を下げる。難波が「頭下げんでいいっていつも言っとるやろが」と言うと、店長は頭をあげて笑った。店長が難波に厚みのある封筒を渡す。難波はそれを受け取って中身を改め、「確かに」と言ってスーツのポケットにしまった。難波のスーツは黒い生地に白い縦ストライプが入っていて、裏地は赤無地になっている。スーツの下には紫色のシャツを着ており、シャツは第二ボタンまで開かれていた。


「店長、この新人に説明してやれ」

 難波が月光を指して言った。

「この人は開成会の若頭さん。まあ極道屋さんだね。開成会に店からお金を払う代わりに、店を守ってもらってる」

「それがケツモチってやつなんですね」

「まあ今どきなかなか無えけどな。うちのオヤジは昔気質でなあ。頼まれればケツモチを引き受けとるんや」

 難波が口元を緩ませる。

「兄ちゃんもなんかあったら呼べや」

 難波が月光に名刺を渡す。月光は両手でうやうやしく受け取ると、名刺を眺めた。開成会若頭難波善治とシンプルに書かれている。名前の上には代紋が描かれていて、名前の下には難波のものらしい携帯電話番号と組の電話番号と思しき固定電話番号が書かれていた。組の住所は書かれていない。

「ま。ヤクザの力なんざ借りねえ方がええんやけどな」

「どうしてもダメそうなときにはお借りするかもしれません」

「それくらいがええ。ケツモチなんてもんはな」

 難波がフッと笑うと、「今日は帰るわ。他の奴らにもよろしく言うといてくれ」と言って店を出た。店長も事務室に戻っていく。月光は座りながら名刺をしばらく眺めてから、ジャケットの内ポケットに入れた。


 難波が出てからしばらくしてチラホラと客が増え始めた。月光は教えられた通りに受付を行い、掃除をこなしていく。受付と掃除の仕事はとても単純で、言葉遣いさえ気をつけていれば特に難しいことはなかった。月光は勤務初日からテキパキと働いているが、同じ後半シフトの南森は掃除を手抜きし客からのアンケートで叱責されていた。受付と掃除だけに徹していたためか、キャストとは一瞬すれ違うことがある程度だ。そうこうしているうちに23時と店じまいを始める時間になった。

 月光はカウンター上のパネルや料金表などを片付けて、大きく伸びとあくびをする。「久しぶりに働くと疲れるなあ」と呟いて席を立つと、事務室から笑い声が聞こえてきた。男の声と女の声が混ざりあった笑い声。だが、決して愉快な笑い声ではなくどんよりとした湿度の高い笑い声だと月光は感じた。月光はこの笑い声に聞き覚えがある。事務室のカーテンに手をかけると、明確な声が聞こえてきた。


「あんたさあ。ほんとブサイクだよね」

「何考えてるかわっかんねえし。もっと愛想よくしたら?」

「これはまた教育せなあかんなあ」

「南森さんいやらしいー!」


 一人のキャストを寄ってたかっていじめているという図だった。じめじめとした笑い声が響いている。人畜無害そうに感じた南森が他のキャストと同様に笑っていることに、月光は胸が締め付けられた。居心地の悪さを覚えてそわそわとしてしまう。月光はカーテンから手を離し、壁にもたれかかる。大きなため息をついた。


 ――ひとりの人間を大勢で寄ってたかって笑いものにする。この空気は嫌だ。カビが生えている。居心地が悪い。酸欠になりそうだ。昔と同じだ。こんな店だったのか。ボーイが少ないはずだ。馴染めない奴は辞めていく。この空気に染まれなければ続けられない。僕は染まりたくないな。だけど、辞めることはできない。それでも嫌だな。


 呼吸が荒くなるのを感じた。笑い声と動悸がおさまるのを待っていると、神戸がプレイルームから出てきて「どうしたの?」と声をかけた。月光が黙って俯いていると、神戸は事務室の声を聞いて「ああ」と肩を落とす。

「良くないよねえ。こういうの。だけど、店長である俺が止めると変に勘ぐって悪化する可能性があるんだ」

 神戸がため息まじりに言った。

「それは……よくわかります」

 月光の声は震えていた。

「店長の女だとか、店長に特別扱いされてるとか。腐ってるけど人間関係にはこういうこともある」

「それも、よくわかります」

「理解していても嫌だよね。俺も好きじゃない。こういう空気はどこかから漏れ出て、お客さんにも伝わるんだ。キャストが客に他のキャストの愚痴を言うこともある。以前働いていたボーイが、掲示板で店の雰囲気が悪いという話を流したこともあるんだ」

 神戸は俯く月光の肩を叩く。

「君がこの空気が嫌だと思うのなら、早く一人前になってキャストのメンタル管理を徹底してくれ。間接的になら俺も協力できるからさ」


 月光が「はい」と言うと、「煙草吸ってくる」と言って神戸はカウンターの向かい側にある客の待機所に入っていった。事務室でもこれまでの会話が聞こえていたのだろうか。事務室は急に静かになった。月光の動悸もおさまっていたので、意を決してカーテンを開け、事務室に入る。事務室の中にはスマホを弄る南森の姿だけがあった。南森は月光に気づくと「お疲れ様ー」と目を合わせずに声だけをかける。月光は思わず拳を握りしめていた。


「あの」

「何?」

「さっきみたいなのはあまり良くないと思いますよ」

 月光は言ってからハッとして唾を飲んだ。南森がため息をついてスマホをデスクの上に置き、顔を上げる。

「彼女らの話を否定するとメンタルに悪影響が出る。新人は黙っててよ」

「だけどそれはイジメに加担している子以外への影響を無視しています」

「それが?」

「虐められている子が辞めれば、また次の誰かがターゲットになるだけです。長期的には不利益になります」

 南森が月光の目を睨む。南森がシャツの裾をまくると、その右腕には十字架のタトゥーが入っていた。

「業界経験もない奴が何言ってんだよ。肩の力入りすぎじゃない?」

 その言葉に、月光の握る拳が固くなる。

「あなたは抜きすぎです。掃除も雑ですし。とても僕より先輩とは思えません」

 それは腹の底から出た言葉ではあったが、月光はその言葉を飲み込むつもりでいた。思わず口に出てしまった言葉に、月光は自分でも戸惑う。南森は右腕で月光の胸ぐらを掴んだ。

「生意気言ってんじゃないよ」

「失言でした。思ったことがそのまま言葉に出てしまい申し訳ありません」

「君ねえ……! 友達いないでしょ」

「先輩も」


 南森が左手を振り上げる。月光は思わず目を閉じてしまった。「教育してやる」と南森が言うと同時に、事務室のカーテンが開く。「二人ともやめなさい」神戸の声だった。普段のやわらかい声色とは違う、鋭い声色に南森と月光は固めた拳をゆるめる。南森は月光を離して鞄を手に取り、「お先です」と帰っていった。神戸は南森が座っていた椅子に座り、月光の目を見る。


「ヒカリくんの言ってることは正しいんだけどね」

「はい」

「あいつが掃除するといつも水滴が残ってるんだ。何回クレーム入れられても学習しない。あいつが担当しているキャストからもセクハラが酷いとか結構クレーム入っててね。注意しても改善しない」

 神戸がデスクの上を片付けながら淡々と話す。

「だけどね、君ももっとうまくやらないと。目上の者に文句を言うには、相手より偉くなるか実力を付けるかしないとダメだよ」

「はい」

「自分より立場が下。しかも勤務初日の新人に痛いところ突かれたら、どうなる? 言葉にする前に一度冷静になって想像してみないと。明日から地獄だよ? 君も嫌がらせされるかもしれない」

 神戸の声色がまたやわらかくなった。月光が「はい。すみませんでした」と頭を下げると、神戸は「まあやったことは仕方がないから頭にだけ置いといて」と言ってキャスト待機所に入っていく。「早く帰り支度してー!」と手を叩く声が聞こえてきた。


 月光はため息をつきながらカウンターに鞄を置き忘れていたことを思い出し、事務室から出る。鞄を取って事務室に置いて、事務室内にある備品の数をチェックした。ゴムが少なくなっていることに気づき、「明日買ってくるか」と呟きながら天井を見上げる。何度も深呼吸をして心を落ち着けていると、神戸が待機所から出てきた。

「後のクローズ作業はこっちでやっておくから、今日はもう帰ってもいいよ。あと、明日も後半シフトでよろしく」

「はい。一服してから帰ろうと思います」

「お疲れ様」

「お疲れ様でした」


 月光は鞄を持って事務室を出ると、向かいのカーテンを開けてソファに座る。ポケットから煙草を出して、ジッポライターで火をつけた。煙を吐き出しながら一息つく。「ああー。また同じ失敗したなあ」と声を漏らした。煙草を持ったまま頭を抱えてうずくまる。涙が出そうになるのをこらえながら、天井を眺めて根本まで煙草を吸った。「考えてても仕方がない」と膝を叩いてカーテンを開け、店を出る。まばらな人通りを眺めながらビルを出ると、「ちょっと」という声が後ろから聞こえた。

 振り返ると、そこにはグレージュの髪をした女性が立っていた。その姿は間違いなく梅田屋で出会ったメガハイボールの女性……陽菜子だった。月光が驚いて声を出せずにいると、陽菜子が月光の手を取って足早に歩き始める。陽菜子はそのまま近くの路地に入ってから月光の手を離した。


「どうして」

 月光が声を漏らす。

「店で働いてるんです。クイナという名前で」

「ああ。どおりで」

「パネル見て気づきませんでした?」

「もしかしたら、とは思いましたけど。まさかとも思ったので」

「まあそうですよね」


 陽菜子が口元を緩ませる。その目は梅田屋で初めて見たときと変わらず冷たく見えたが、その瞳の中にはしっかりと月光の顔が映っていた。陽菜子は腕を組んでため息をつき、ミントタブレットを一粒口に入れる。


「さっき。どうしてかばったんですか」

「聞こえてたんですね」

「皆に笑われていたのが私です。聞こえますよ。自分の話をされたら」

 そう言う陽菜子の目を見て、月光は喉の奥でつっかえていたものが腹の奥まで落ちるのを感じた。

 ――だから。そんな目をしているのか。

「どうしてかばったんですか? 私だって気づいてなかったんですよね」

「はい。それに僕は事務室の中を見ていたわけではありません。声だけです」

「知り合いだからかばう。それはわかるんです。だけど……」


 月光は「ああ」と言って目を伏せる。


「あなたと同じような目をしていた人を知っているから……というのは今つけた理由ですね。あのときはとにかく嫌だったんです。ああいう空気も。ああいう空気を見過ごすのも」


 月光は「吸っていい?」と断ってから煙草に火をつける。陽菜子は腕を組んだまま、黙って次の言葉を待っているようだった。月光は煙草を吸いながら壁に背を預け、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。


「昔ね。大切な人が虐められてたんです。それを見て助けたんだ。それから表立ってイジメが行われることはなかった。楽天的に考えてた。ああもうこれで大丈夫だ良かったって。だけど、ある日よく遊んでいた場所にいつもより早めに行くと、そこでその人は性的暴行を受けていた。その時俺は体が動かなくて、助けられなかった。そんな自分が俺は心底キライだ。だから……」


 月光が話し終えると、陽菜子は腕組みをといて「なるほど」と言う。

「失敗からあまり学んでないのね」

「それは自分でも思います。失敗したなあと。冷静ではなかったんですね」

「冷静ではいられなかった?」

「そんな感じ」

「正直。あまり腑に落ちないけどね。だからこそ。気になるかも」

 陽菜子が何度も頷いている。月光はまだ半分以上残っている煙草を壁でもみ消してから、吸い殻を携帯灰皿に入れた。陽菜子は月光の前に手を差し伸ばす。月光はその手と陽菜子の顔とを交互に見た。


「早く研修期間を終わらせて。マネージャーになって」

「それで?」

「私の担当になって。私をちゃんと助けてみせて」

 月光が戸惑っていると、陽菜子は強引に月光の手を握った。

「責任取れって。言ってるの」

 陽菜子の手のぬくもりを感じ、月光はなんだか面白くなってきて笑みをこぼした。同時に、陽菜子の手が少し震えていることに気づいて陽菜子の手を強く握る。

「俺が責任を取りますよ。今度こそ。必ず」

「それでよろしい」


 陽菜子が月光の手を強く握り返す。あまりに強い力に「痛い痛い」と言うと、陽菜子は笑った。口元だけではなく、目を細めてハッキリと。「んふふ」という小さな笑い声と一緒に。陽菜子は笑いながら月光の手を離すと、宙ぶらりんになった月光の手を強く叩いた。「痛っ!」と言う月光に笑いかけながら、「じゃあそういうことで」と言って去っていく。月光はその姿を見ながら「頑張るぞ」と呟き、帰路についた。

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